HAPPY BIRTHDAY 
 横浜は、中心街を少しはずれるととたんに田舎の閑かな風
景が広がる。タヌキの生息も、かなり広い地域で確認されて
いる。シジュウカラやメジロが住宅の庭に当たり前のように
顔を出し、春には様々な花が街を彩る。
 蛍の飛びかう小川の淵は、冬にはこぼれ落ちそうなほどの
さざんかが咲き、周囲に広がる畑は一時、古い日本にタイム
スリップしたような錯覚に襲われる。

 秀と伸が暮らしているのは、そんな横浜郊外の高台にある
マンションのひとつだった。
 夏も終わりの頃で、夜申まで鳴き続ける蝉の声に、コオロギ
やアオマツムシの高い声も交じるようになってきた。

 その日、秀は朝からベッドでごろごろしていた。
―― 正確にはそうせざるを得なかった、というところか。
 朝、いつものように伸のベッドで目を覚まし、まだ少し残
る眠気を振り払うように伸びをしていた時 ―― 
いきなリ伸に首を押さえられ、引き寄せられて、今日一日は
大人しくしてな、と言われたのだ。
 今日は僕、忙しいんだから。つまんないだろうけどここに
いてよね。―― くどい程に言われてしまった。
 今、伸は台所で何やら作っている。良い匂いに、ついふら
ふらと行きたくなるが、それをぐっと堪える。
 何となくいらついてクッションに体当りを食らわせる。
フンワリとして心地よい。どうせやることないなら寝るか。
今の体当たりのついでに落ちた一冊の本をぼんやりと見つめ
る。
 伸が見たら怒るだろうな。…知った事か。
秀はあくびを一つしてからふんっと鼻を鳴らし、クッション
に顔を埋めた。

 面白くなかった。今日は何でも、伸にとって大切な人の特
別な日らしい。何がどう特別なのか、は、聞いたけれど忘れ
てしまった。
 どうでも良いのだ、そのようなものは。
 最近の伸は少しおかしい。自分よりもそいつの方を大切に
しているとしか思えない。
 秀はそいつが余り好きになれなかった。はっきり嫌いとい
っていいかもしれない。何しろ、ここは秀と伸の家なのに、
そいつときたら遠慮なく上り込むのだ。
先日など、外出から帰ったらそいつが家にいた。さすがに
秀は怒ってそいつを張り倒した ―― いところだったが
倒れなかった。
 自分も相当に強いつもりだったが、そいつはもっと強い。
それだけではない、そのことで伸に叱られたのは秀の方だっ
たのだ、勝手に人の家に入ってた奴ではなく。
 辛いところだった。居侯で、完全に伸に食わせてもらって
いる秀としては。

 今朝のことにしてもそうだ。一応、抗議は試みたのだ。
しかし、まるで聞く耳持たず、だった。
昨日も伸は帰りが遅かった。あいつと会っていたのはすぐ
にわかった。
伸は煙草は吸わないのに、身体中から煙草の匂いがした。
 秀はその匂いを思い出してくしゃみをした。
ぼんやリと目を開けてクッションを見る。
伸が枕代わりに使っているクッションにも、髪の毛から移っ
たのだろう、煙草の匂いがしみついていた。
他にもクッションはあるけれども動くのが面倒で ――
とにかく眠かったので。
秀は少しだけ体をずらした。
 そいつの吸う煙草は、匂いがとてもきつい。伸も、それを
嫌がっているのだ。それなのに。
髪の毛にまで。一体どういうつもりだ。
――― 何考えてたんだっけ?
そうだ、帰りが遅かったってことだ。とにかく伸が帰宅した
のは真夜中で、シャワーも浴びずにベッドに倒れこんだ。
秀が語し掛けてもうるさそうに手を振るだけ。

 と、突然の電話の呼び出し音に続いて伸の話し声がして秀は
耳を澄ませた。
「…うん、ごめんね、遼。そんなわけでさ、今日と明日は駄
目なんだ。…あさって? あ、空いてるよ。
…来られる? いいよ、秀も喜ぶよきっと。
うん、すごいんだ、拗ねちゃって」
 …遼が来るのか。楽しみだ。あいつ来ると退屈しない。
それにしても、だ。拗ねちゃって、とは。
また随分な言い草じゃないか。
 秀は大きく伸びをするとそろっとベッドから下りた。
 今朝方吹いていた強い風もおさまったらしい。
からからっとサッシの開く音に振り返った伸を視界の端に捉
えながら秀はベランダに出た。
 プランターに植えられたパンジーが風にゆれている。
それはこの春、何かのキャンペーンでもらったもので、なか
なか丈夫らしく、次から次へと可愛らしい花を咲かせて伸を
驚かせたものだ。
 いい風だ。
心地よい風に、目を閉じる。
 「いい天気だね、秀」
背後から伸の声がかかる。秀は返事の代わりに高くなった空
を見上げた。
まだ暑い日が続いているけれど、空気の匂いや気配、空の
高さに秋を感じる。

 いつかまた、ドライブに行きたい。
この家には一ヵ月くらい前に越してきたばかりで、近所にど
んな公園があるのか、よく知らない。
 伸の話では、ここでは自然公園など行かなくても、近所に
林やきれいな川があるらしい。
 前に住んでいたところでは、そんなものはなく、いつも公
園で遊んでいた。何も公園などで遊ばなくても良いのだが、
そんな所しか、自然に親しめる場所もなかったのだ。
ビル街の嫌いな伸にはそれは堪え難いことらしい。
引っ越した理由の一つも、それだった。
秀はまた、都会しか知らずに育ってきた。それだけに、伸と
は違った意味で自然公園で遊ぶのは好きだった。

 早く、外出したいと思う。
今はまだ、伸の車で近所に出掛けるくらいなのだ。
 一人で出掛けるのは今はまだ許してもらえない。
秀が事故にあって大怪我をしたのはまだ最近のことだった。

 今でもバイクの音を聞くと足が柊く。
秀はベランダのデッキチェアーに揺られながらその時のこと
を思い出して軽く身震いした。
 俺としたことが。
秀は手の甲に顎を投げ出した。
 あの時はなんでまた飛び出したんだろう?
ああ、そうだ。あれは引っ越してすぐだった。あいつが―
そう、良く伸と引っ付いている、あいつが来てたんだっけ。

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