梦中梦・3




食事の後、八戒に部屋のキーを渡されて、三蔵は悔然となった。

「何だってまた悟空と同室なんだ? もうすっかり治ったろう?」

「いえ、それがまだ」

八戒は困惑したように、曖昧な笑みを浮かべた。

「今日、一緒に歩いてて分かったんですけど。

…時々、目の焦点が合わなくなるんです」

「…なんだ、そりゃ?」

「聞きたいのはこっちですよ。前にはそういうことはありませんでしたか?」

「いや…記憶にないな…」

そっと、悟空の方を盗み見る。土産物を、めずらしそうに覗き込んでいる彼の横顔は、

いつもと全く変わりはなさそうだった。

「どこもおかしくないぞ?」

「今は」

きっぱりと、反論を許さない口調で八戒は言った。

「もしかしたら頭を打ってるとかそんなことも考えられるかもしれない。

何しろ、彼が倒されたときの、一部始終を、誰も見てないんですからね」

悟浄も頷いた。

「どっちしてもさ、またまあるくなられてみな。俺たちじゃ、どうにも出来ねえもん。

いいじゃん、どうせあんたのサルだ。俺のじゃねえよ」

「……」

 

 

悟空が買ってきたのは、ドライフルーツに砂糖をまぶしたものや、

水飴を細工したものなどだった。

「お前も好きだね…お、これは?」

「種だって。体にいいんだって八戒が」

悟浄は人の悪い笑みを浮かべ、悟空の頬をつついた。

「ひまわりの種だ。猿の好物なんだぜ」

「なっ…」

ぷっと膨れた悟空の肩を、八戒の手が軽く押さえた。

「駄目ですよ、悟浄、からかっちゃ。体にいいのはほんとです、悟空。

もちろん、人間にもね」

「…これは何」

「サンザシです。長安でも売ってたでしょう?」

「…見たことない。三蔵、こんなの、なかったよな」

「ああ…」

見せたことがないのだから、悟空が知らないのは当たり前だった。

長安の街には、こんなものはそこいら中にある。

三蔵は、だんだんと苛立ってきた。

「それ持って向こう行け、早く寝ろ」

「そうそ、子供の時間は終り」

「あーっ、また酒盛りするんだろ!」

「違いますよ、これからのこと、相談するだけです」

「嘘だ! だって悟浄、酒ビン、持ってたもん!」

「うるせえぞ、サル」

耳元のきんきん声が癪に触って、悟空を睨みつける。

いつものことながら、うるさい奴だ。

「どうせ酒なんか飲めないだろう、てめえは。

ガキは菓子食って寝てろ。騒ぐんじゃねえ」

不貞腐れる悟空を、部屋の外に摘み出す。

「ちゃんと歯を研くんだぞ。分かったな」

「…分かったよ」

頬を膨らませ、上目で睨み付け、隣の部屋に消えた。

 

ここ数日の大雨で、この先にある川が氾濫している、

という噂を悟浄が仕入れてきていた。

「すぐそこに橋があるんだけどね、危なくて渡れないって。

こっちだと大きく迂回しなきゃならないんだよね」

「仕方ないだろう」

「じゃ、明日、こっちから行きます?」

地図を見る限り、それは大変な回り道だった。

「…あの猿のために時間、潰しちまったからな。

…ったくめんどくさい」

「同じだったと思いますよ。むしろ遅れて良かったんじゃないですか? 

この街も昨日までひどい雨だったそうですからね」

そういって窓の外を見上げる。

 

宿の、小さな窓に、不釣り合いなほどに大きく、きれいな満月が見える。

月の明かりは、煌々と、寝静まった街を照らしだしている。

これほどに美しい月を見るのは、随分と久しいこと、なかった。

「もういいんだろ? お前も飲めよ、月見酒」

地図を眺めている八戒に、悟浄がグラスを渡した。

八戒の目元が嬉しそうにゆるむ。

「いいですねえ」

地図を、がさがさと折り畳み、早速うまそうに飲み干す。

「お、なかなかじゃないですか」

「だろ? 今日さ、お前らが菓子なんか買ってる間に見つけたんよ。

ほら、薬屋の横にあったじゃん」

「ああ。あのお店ですか、覚えてます。いい匂い、してましたよねえ。

三蔵も飲みましょうよ」

「あ? …ああ」

月を見ながら、何かを考えていたような気がする。

それも、二人の楽しそうな笑い声と、強い酒の匂いの中に消えていった。

 

 

部屋のドアがノックされたのは、それからだいぶたってからだった。

ドアの外には、悟空が立っている。

「どうした、寝たんじゃなかったのか?」

「眠れませんか? どこか具合でも?」

悟空は無言で八戒を睨みつける。何となく、眠そうな目だ。

「子供はもう寝ろ」

「…三蔵は」

初めて口を開いた。その声も、眠そうに曇っている。

その様子を見ていた八戒が立ち上がった。

「三蔵も寝ますよ、悟空。三蔵、明日も早いですから。寝ましょう」

笑顔を浮かべながらも、目は笑わず、何か合図しているようだった。

 

再び、先程の彼の言葉を思い出す。目の焦点が合わないのではなく、

瞳の色が変わっているのだ、と、ようやく気が付いた。

三蔵は、これまでにも何度か見ているから、気にしたこともなかった。

しかし、八戒はおそらく今日、初めて気が付いたのだろう。

「分かった、寝るよ、悟空。先に部屋にいってろ」

この煙草を吸い終わってから、と思ったのだが、悟空は動こうとしなかった。

仕方なく、まだ長い煙草をもみ消す。

「…うるせえサルだ…」

 

悟空の瞳の色が変わっても、これまで、特にどうということはなかった。

今も、眠そうだというくらいで、他に変わった点はない。

おそらくは、まだ体調が万全ではないのだろう。

色が変わる、といっても、金色の目に、少しオレンジの筋が入るくらいのもので、

光の反射の具合などで偶然に気が付く、といった程度のものだ。

 

ベッドに入ってうとうと仕掛けたころ、悟空が入ってきた。

「どうした、一人で寝ろ」

体を起こすのも面倒臭くて、言葉だけ投げる。

悟空の返事はなく、ただ、背中ごしにごそごそと動いている気配が伝わってくる。

「うざってえんだよ、なにしてんだ、サル…!」

背中で動く悟空を叩こうとした腕は、そのまま、物凄い力で押さえ付けられた。

「…何しやがる…!」

怒鳴り声は、途中で遮られた。後から首に噛み付かれ、

そのまま引き上げられて声が出なくなってしまったのだ。

―――こいつ…変化してる…。

噛み付かれた首に、僅かだが牙があるのが感じられた。

腕を押さえ付けた悟空の手には、鍵爪があり、それはしっかりと

腕に食い込んでいる。

少しでも動いたら、そのまま引き裂かれてしまうだろう。

考えるまでもない。金鈷があっても、少しくらいなら、

彼は自分の体をどうにでも変化させることが出来る。

「…いい加減にしろよ…」

声が、擦れた。しかし、その眩きは、たしかに悟空の耳に届いたらしい。

少し、顎の力が弛んだ。

その隙を逃さず、三蔵は自由な方の腕で悟空の顎を押さえ付けることに成功した。

「どういうつもりだ、貴様」

体を捻ったような姿勢のまま、顎を掴み、金色の瞳を睨みつける。

急に、その顔つきが変わったように思えた。

瞳が、悲しそうに揺れる。

「…ぞ…っ…」

いつもの、悟空の声だ。泣きそうな、声。

顎を捕まれたまま、彼は細い声を上げた。まるで、それは泣いているように聞こえる。

「…さん…ぞ…っ…」

「…どうしたっていうんだ」

「さ…ん…」

どう見ても尋常でない、その様子に、三蔵も怒りを忘れた。

まさか八戒が言っていたように、実はどこか打っていて、

その痛みか何かで変になったのでは、あるいは、痛みを訴えようとしているのか。

 

それらのことが頭の中を駆け巡った、ほんの僅かな隙に、

悟空の両腕が顎を押さえ付けた三蔵の腕を引っ掻いた。

「つ…っ」

あまりの痛みに、思わず手を放してしまった。とたんに、

肩に噛み付かれ、悲鳴を上げる問もなく、再び首を、今度は

爪で締め上げられた。

―――何がどうなってんだ、ちくしょう…!

胸の内で悪態をつき、肩に咬み付いたままの悟空を横目でうかがう。

痛みで、時に気が遠くなる。

悟空は、時折、ふーっと、威嚇のような声を上げた。

殺される、と思ってから、すぐに、そんなことはない、ということに気が付いた。

 

彼にそのつもりがあるなら、すでに自分は殺されているはずだった。

少なくとも、殺そう、という気は、ないらしい。

不意に悟空は咬むのを止め、ついさっき引っ掻いた腕の

傷を舐め始めた。咬んだところも、同じように舐めている。

それでも、少しでも動くと、喉の奥から、低い、

震えるようなうなり声を上げ、金色の瞳を細めて睨み付けてくる。

それもまた、犬や猫の仕草と似ている。

 

もし獣と同じなら。

それならそれで、やり方はあるはずだ。

三蔵は体の力を抜いて、警戒されないようにしてから、

ゆっくりと、いくらか自由になる右手を上げた。

そこにも、大きな傷があり、血が滲んでいる。

その傷を舐め始めた悟空の顎の下に、そっと手の甲を入れて、

軽くさすってみる。と、悟空はその手に、頬や額をすり寄せてきた。

 

やっぱり…そうか。

ぐいぐいと押してくる額を撫で、すり寄せてくる頬を撫でてやると、

満足そうに目を細め、さらに額を押しつけてきて、しまいに咬みついてくる。

やはり、思ったとおりだった。

今の彼にとっては、咬みつくことは最大級の愛情表現なのだ。

 

「…分かった。それで? 何が望みだ?」

悟空は大きく首を傾げた。今にも首が捻切れそうな程に、大きく。

それは、聞き分けのよい犬が、主人のいうことを理解しようとしているかのような、

あの仕草と似ている。

「悟空」

その言葉には、反応する。自分の名前は、分かっているらしい。

「さっきは喋ったろう。もういっぺん、何か言ってみろ」

再び、大きく首を傾げる。しかし、今度はそのまま首筋に

咬みついてくるためのものらしかった。

「いってえ」

おそらく、彼ら―――もし彼に、他に仲間がいるのなら

―――にとっては、それは大した痛みとは感じないのだろう。

しかし、全くの人間である三蔵には、それは体が震えるほどの

痛みを感じさせた。あまりの痛みに、思わず悟空の

首筋を掴んでしまって、はっとした。

彼の方も、三蔵に咬まれた、と思ったのだろう。

ますます嬉しそうに頬摺りをし、体を舐めてくる。

「…ほんとに動物だな、お前は」

咬まれた痛みも忘れて、眩いていた。

 

動物だから、いいのだ。

決して嘘をつかず、見返りを求めず、駆け引きもなく、欲もない。

自らが生きるために必要なものだけを欲し、より以上を求めない。

 

「バカ猿」

金色の瞳が、こちらに向けられる。

「それも名前の一つだと思ってんのか」

今度は、反応はなく、動く口元を見つめている。

その動きと、声の調子に敵意があるものかどうかを窺っているのだろう。

「何もしねえよ。何も出来ねえだろ、これじゃ」

経文を取ることも出来ない。銃は、すでに悟空に蹴り落とされている。

 

怒りも、痛みも忘れて、三蔵はしばし、悟空を見つめていた。

彼の方も、金色の瞳を輝かせ、見つめてくる。

いつもの、子供の面影はいくらか残っている。

ただ、頬の後の髪が、いつもより濃い。そっと手を延ばして触ってみる。

たてがみのような、長い毛が生えていた。

触られても、嫌がる様子もなく、ただじっと見つめている。

 

「何とか言ったらどうだ、猿」

頬を撫でてやると、その顔が笑ったような気がした。

「そうか…」

何となく、分かってきたような気がする。

悟空が何も言わないのが、正直を言えば、少し寂しい。

しかし、その瞳は言葉よりはるかに雄弁だった。

頬を撫でていた手を、そのまま首の後に回す。そこにも、

ふさふさとしたたてがみがあった。

今度は意図的に、そのたてがみを掴み、爪をたてると、

嬉しそうに目を細め、肩といわず胸といわず、頬摺りをしてくる。

全身で、喜びを表している。

これは、どんな言葉にも置き換えられないだろう。

偽りのない、彼の想いだけが、真っすぐに伝わってくる。

 

ぐいぐいと額で押され、乱暴に頬摺りされて、三蔵は

またベッドに倒れこんだ。尚も押してくる悟空の髪を掴み、

その喉を撫でる。ぐるる、と低い、うなり声が聞こえる。

「俺を同類と思ってんのか? 俺も猿か」

 

 

 

人間は獣にはなれない。

そう言った人がいた。

無邪気ではないから。

人間が、もっとも中途半端で、もっとも堕落していると言ったのは、

あれは誰だったろう。

 

人は、動物でありながら、邪心を持ちすぎた。

神でもないのに、神のごとく振る舞う。

人が、自らを動物より優れていると言ったその瞬間から、

人は堕落していったのだ。

だとしたら。

 

「俺は喜んでいいのか? 悟空」

言葉が返ってくる筈もない悟空の頬を撫で、問い掛ける。

そして、苦笑した。

 

こうして言葉を弄するところから嘘は始まるのだ。

 

人は言葉を用い、言葉に酔い、人を惑わせる。

音の組合せだけで、どれだけ正直になれるというのだろう。

 

人が全て言葉を忘れてしまったら、この世の中は今より

ずっと平和で、穏やかなものになるに違いない。

 

服を脱がされても、不思議なことに、さしたる不快感も、

嫌悪感もない。射抜くような金色の瞳に、むしろ安堵して、三蔵は目を閉じた。

全身を引っ掻く爪も、今は気にならなかった。

 

「さん…ぞ…う」

時折聞こえる言葉は、幼児のようにたどたどしいものだった。

 

窓の外の月が、視界の中で、揺れて、ぼやける。

 

全身を駆けめぐる激しい痛みが、今は他人のもののように感じられた。




 
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