存在
「これは総士」
一騎はニンジンの切れ端を卓袱台に置いた。
「これは一騎の」
クッキーを自分の方に引き寄せる。
名前を呼んでもらうためには、まず、自分の名前を総士の前で何度も繰り返し呼ぶことが必要だ、と父から言われてから、ことあるごとに名前を呼ぶようにしている。
「俺だってお前が赤ん坊の頃はお前の前でだけでも自分の事を父さん、と言ったんだ。恥ずかしかったがな。そうしなかったらお前は今頃、父さんのことを名前で呼んでいただろう」
「…そういうもんなんだ」
「そうだ」
遠見千鶴のことを『先生』と呼んでいたのも、おそらくは周りが彼女をそう呼んでいたためと、彼女もまた自らをそう言っていたからだろう、と父は言った。
なるほど、と思い、早速実行に移してみたのだが、これが意外と難しい。
自分を自分の名前で呼んでみる、というだけのことがこれほど照れくさいこととは思っていなかった。
「このお茶は一騎。この牛乳は総士」
牛乳の入ったカップを総士の前に置く。
総士はこく、と頷いて自分のカップを手前に引き寄せる。
一騎はまだ皿に残るクッキーの一つを指差した。
「総士、そのクッキー、一騎にくれる?」
総士はしばらく差した指先を見つめていた。
やがて、小さな両手でクッキーを包むように取り上げるととことこと歩いて一騎の前まで来た。
黙って両手で差し出す。
「はい、ありがとう、総士」
ここで、出来れば『一騎』と呼んで欲しかったのだが、総士は黙ったままだった。
丸い尻を振って元の場所に戻る後姿を見つめて、小さく息を落とす。
繰り返し、かあ…こんなことを何回繰り返したら呼んでくれるようになるんだろう。
日常の細かな場面でそれらを繰り返していた。
風呂に入る、という時も、
「一騎はこれから風呂に入るからね。あとで総士もおいで」
と総士に言う。
言いながらも顔が赤くなる。なかなか慣れることが出来ない。
面映いというのか。
なんとも、奇妙だった。
早く名前くらい呼んでくれないかなあ…。
どのくらい、このようなことを繰り返していたら良いのだろう。
アルヴィスの一室で、こっそりとデータを開く。
家にはろくな資料がないから、何か調べようという時には一騎はいつもここに来ていた。
人間の子供とは違うし…それに一応、前は喋れたんだし…そういう例ってないよなあ。
どの辺りから調べたらよいものかも見当がつかず、とりあえず子供の発育過程など書かれたものをぼんやりと眺めていた時――― 背後から声がした。
「一騎君? こんなところにいたのね、何をしてたの?」
羽佐間容子だった。手に何か包みを持って歩み寄ってくる。一騎は曖昧に笑みを浮かべた。
「あ…すみません、勝手に…」
「ううん、いいのよ。…総士君のこと?」
「…ええ…いつ頃になったら喋ってくれるかなあと思って…」
容子はくすくすと笑った。
「焦っても駄目よ、一騎君。人間でも動物でも個人差はあるわ。ゆっくりね。……それよりも」
そういって包みを差し出した。
「頼まれてたもの、出来上がったわ。サイズは大丈夫だと思うの。遠見先生も準備してくれてるわ」
「…準備…」
包みを受け取りながら、何を頼んだっけ、と思い出そうとしていた。
何か頼んだかな、俺。
「せめて総士君だけでも自由にアルヴィスに出入り出来るようになるといいわね。じゃ、もしまた何かあったら遠慮なく言ってね」
それだけ言うと、容子はすたすたと出て行ってしまった。
「あ……」
準備の意味が良く分からなかったので聞こうと思っていたのに、振り返った時には容子の姿はドアの外に消えていた。
しばらくドアを見つめ、追いかけようかどうしようか考え―――
諦めて、包みを開けた。中から出てきたのは、アルヴィスの制服だった。それも、小さい、総士にはちょうどいいであろうサイズの。
それを見て、ようやく思い出した。
いつか総士をアルヴィスに連れて行きたいから、容子に制服を作ってくれ、と頼んでいたのだ。
そして、その間に千鶴は総士がアルヴィスに来ても誰も驚いたりしないよう、彼らのことを公表する、とも言っていた。
準備というのは、そのことかも知れない。
すっかり忘れていた自分が可笑しくて、一人で笑ってしまった。
そうだ、総士に着せてみなくちゃ。
一騎は急いで広げたままだったファイルの類を片付け、包みを手に、家路についた。
家にはまだ父も帰っていないようだった。
薄暗く、どこも明かりがついていない。
一騎は内心、焦りながら階段を駆け上がった。
こんな家の中に取り残されて、総士は寂しがっていないだろうか。もしかしたら部屋の隅で泣いているかもしれない。
部屋の戸を開けると、総士は小さなクッションにもたれて半分、寝ているようだった。
良かった……昼寝中だったのか。
クッションにもたれて薄目を開けてはいるものの、自分が帰ってきたことに気がついたのかどうか。
細いニンジンのスティックを銜えていて、小さな口元がもごもごと忙しなく動いていた。見ると、ニンジンのスティックは少しずつ短くなっている。
……寝たまま食べてるのか?
なんだか可笑しくて、一騎は静かにそのまま様子を見ていた。
と、気配に気付いたのか、総士は顔を上げ、その拍子に加えていたニンジンが落ちてしまった。
「あ」
小さく声を上げて慌てた様子で落ちたあたりを探し回っている。
クッションの端に落ちたニンジンを見つけ、満足そうにまた口に銜えたところで、初めてこちらを見た。
「……ただいま、総士」
軽く微笑みかけると、総士はまだ寝ぼけたような目で
卓袱台の上を見、小さな手でその上を探った。
そして、クッキーの包みを掴み、一騎の方に差し出す。
「これ…一騎の」
ニンジンを銜えたままの、不明瞭な言葉ながら、はっきりと一騎、というのは聞き取れた。
「え? 総士、何?」
嬉しくなって包みも放り出し、総士の傍に座る。
「総士、もう一回言って、良く聞こえなかった」
本当は聞こえていたけれど、もう一度、聞きたかった。
総士はまだ手にしたままの、クッキーの包みをずい、と差し出してきた。
「一騎の」
「うん、ありがとう、これは一騎のだね」
喜びに、声が震える。
確かに、名前を呼んでくれた。
「もう一騎のクッキーはないのかな」
「……」
総士は目を擦りながら体を起こして卓袱台の上を見る。
そして、菓子器からさらにクッキーを一つ取った。
「これも一騎の」
「うん、うん」
名前を呼ばれるたびに、心臓がどきどきする。
名前を呼ばれるというだけのことが、これほどに嬉しいものだったなんて。
「ありがと、総士。総士にもお土産」
羽佐間容子からもらった包みを広げ、総士に着せてみる。
「うん、似合うよ、総士」
容子の言っていたように、サイズにも何も問題はなかった。
ただ、いくらか袖が長い。袖を少し折ってちょうど良いくらいだけど、総士もまだこれから成長するだろう。
「総士の?」
「うん、総士の」
総士はしばらく自分の着ているものと一騎の着ているものとを見比べているようだった。
「こっちは一騎の」
「うん」
名前を呼ばれているだけで、どうしても頬が緩む。
気がつけば総士が不思議そうに顔を覗きこんできていた。
「なんでもないよ、総士。お前から一騎、って呼ばれるのが嬉しかった」
一騎は正直に告白して総士を抱き上げた。
「似合うよ、総士。今度それ着てアルヴィスに行こうな。お前のこと、みんなに自慢するんだ」
このような愛らしいパートナーがいるのだ、と。
「かずき」
細い声に、微笑を返してほわほわの茶色の毛を撫でる。
総士は心地良さそうに目を細めた。
かつて、一人でも生きていけると思っていた自分は、なんと思い上がっていたことだろう。
人は、所詮一人では生きていけないのだろうと思う。
「総士、お腹空いたろう? ご飯にしよう。
一騎と一緒に食べよう」
「一騎と」
まだ少し舌足らずな言葉が、懸命に自分を求めてくれているように感じられてなおさらに嬉しい。
「うん、一騎と食べるんだ、総士。
総士は何がいい? ニンジンは飽きたかな」
何にしようかと考えながら総士を抱いて階段を下りる。
首にしがみつく小さな手が、この上なく愛しい。
守るものがあるから。
守りたい存在があるから。
だから人は先に進めるのだろう。それが、どれほどに小さな存在であろうとも。
John di ghisinsei http://yokohama.cool.ne.jp/gisinsei1129/
2007/03/02