STEP BY STEP
総士が来てから、ひと月も過ぎた頃、遠見千鶴が訪ねてきた。
総士の様子を見に来たと言う。総士への土産だろう、その両手に下げた袋の中にはたくさんの野菜や果物が入っていた。
「総士君、だいぶ慣れたかしら?」
ちょこん、と座ってマグカップから牛乳を飲んでいる総士を見ながらにこにこと言う。
「はあ…慣れたと思いますけど」
少なくとも、最近ではもう警戒態勢をとることもなく、いつも一騎の横で大人しくしている。
たまに座布団を齧っていることがあるくらいだ。
「せんせ」
小さな声に、一騎は驚いて遠見千鶴の方を見た。
千鶴の足元で総士が袋を指差している。中に入っている果物が欲しい、と言うことなのだろうか。
それよりも。
「…今…総士、喋った? 先生、総士、先生のこと呼びましたよね?」
「ええ、きっとリンゴが欲しいのね。今洗ってくるわ」
千鶴はさらりと流してリンゴを持って台所に行く。
一騎は呆然として総士を見た。
「総士…お前、喋れるのか? ならなんで今まで喋らなかったんだ?」
千鶴の方を見ていた総士は怪訝そうに振り返った。
振り返る、ということは今、自分が話した意味も分かっているのだろう。
千鶴がリンゴを切ってくると、総士は嬉しそうに皿に飛びついた。
「先生…彼は先生のこと、呼んだりしたんですか?」
「ええ、先生、って呼んでたわよ?」
「え…じゃ、なんで…」
何故、自分のことは呼んでくれないのだろう。
それより何より、この家に来てから総士はほとんど言葉を発していないのだ。
千鶴は軽やかな笑い声を立てた。
「無理ないわ、しばらく話してなかったんだもの。
言葉は使わなければ忘れるわ。そのうち、思い出すわよ。長く喋るのは無理でも、名前を呼ぶくらいは」
「…そうですか…」
どこか釈然としないまま、一騎はリンゴを美味しそうに食べている総士を見ていた。
そうか。
喋らなければ忘れる、か。
総士が来てからのことを思い出してみる。
彼が自分を呼んだり、何かを喋ったりする必要のない場面ばかりだ。
そうだよな…。
先回りして俺が全部やっちゃってるし…。
第一、この家では会話と言うもの自体が少なかった。
何とかして、喋って欲しい、と思う。
何よりも、総士に名前を呼ばれたい。
一騎は早速、その日から総士に喋る練習をさせることにした。
どんぶりに入れた総士の食事を前に、一騎は台所でかがみこんでいた。
「総士。ご飯。ご飯、って言ってごらん」
「……」
総士は黙ったまま、こちらを見上げてくる。
一騎のお古の、白いだぼだぼのシャツを着て袖の先から出た、指の先だけを動かして茶碗の方に伸ばそうとする。一騎はそれをそっと払った。
「ご飯、だよ、総士」
「…んぉ…」
小さくうめき声のような、唸りのような声がする。
ご飯が難しいのかな。メシ、なら大丈夫かな。
「じゃ、総士、メシでもいいや。言ってごらん」
「ん…」
どんぶりの中を見、じっと大きな瞳で見上げてくる。
長い袖の陰で指先をちょこちょこと動かしている。
「総士。ご、は、ん」
「…う……」
こちらを見つめる大きな瞳が、見る見る潤み始める。
耳の付け根が震えて、垂れた耳がわずかに上がったり下がったりしている。
「簡単だろ、せんせ、って言ってたろ?」
一騎は少し慌てて言った。
「泣くなよ、泣かないでご飯、って」
総士の唇が丸くすぼまって、何かを言いたそうに見えた。指先でどんぶりの縁を撫でる。
と、次の瞬間には、うわあっと大声を上げて泣き出していた。
「総士…!」
思わず抱き締めていた。
「違うんだよ、泣くなよ…! だから一言…」
「どうした、なに泣かせてるんだ」
作業場にいた父が入ってきた。
「…や…あの…ご飯、って言う練習してて」
「練習?」
父は泣いている総士を見、そこに置かれたどんぶりを見て事態を察したらしい。
「一騎…まさかお前…言えるまで食えないようにしてたのか?」
「…ん…うん…」
「……」
父が呆れたように大きくため息をつくのが聞こえた。
どっかりと床に腰を下ろし、泣き止まない総士を抱き取る。
「ほら、総士君。ご飯だ。さあ、食べよう、な」
赤ん坊を抱くように総士を抱くと、その口元まで刻んだキャベツをもってゆく。
ぐすぐす泣いていた総士は、しゃくり上げながら一口食べた。
そして再び泣き始める。
「泣くな、ほら、次はリンゴだぞ」
リンゴのかけらを総士の鼻先に持ってゆく。
そうしたことを繰り返しているうちに、いつの間にか総士はぐすぐすと鼻を鳴らしながらも父の膝で食事をしていた。
一騎は唖然としてその様子を眺めていた。
総士が父の膝で大人しくしている、というのも驚きだったが、それ以上に、総士に食事をさせる父の馴れた手つきにも驚いていた。
「一騎。お前がやろうとしたことは無茶苦茶だぞ。
人間の子供だって喋るのにどれだけかかると思っている。しかも、ご飯を目の前にして喋れなんて言われて喋るはずがなかろう」
「…ん…うん…」
そのやり方はまずかったな、と今では反省している。
総士の潤む瞳に胸が締め付けられて、どう謝っていいのかも分からない。身の置き場がないとはこういうことなのかもしれない。
「繰り返しだ、一騎」
「え?」
「繰り返し、これはご飯だ、といつも言いながら食べさせるんだ。それは人間でも同じだ」
「……」
「総士君、ご飯だ。今度はニンジンだぞ」
言いながら総士の口元にニンジンのかけらを持ってゆく。総士は嬉しそうにそのかけらにかじりついている。
「父さん。総士、返して」
さすがに、少々面白くなくて総士の方に手を伸ばす。
総士が体を硬くしたのが分かって、思わず手を引いていた。
「総士、あの、ごめん…もう無理は言わないよ…ごめんな」
ちら、とまだ潤んだ瞳がこちらを見る。
続いて父の顔を見、そろそろとその膝から滑り降りてきた。
父が笑って総士の背中を押す。
「もしかしたら施設ではご飯ではなくて、別の言い方をしてたのだろう。食事、とかな。だったらすぐに覚えなくても無理はない」
「…そうか…かもしれないな」
総士に食事を与えながら、ふと、先ほどの父の様子を思い出す。
あのように。
もしかしたら父は幼い自分を抱いて食事をさせていたのだろうか。
無骨な手で、小さな子供用の茶碗を持っていたのだろうか。
それを想像すると少しおかしくて、そして切ない。
「総士。次は…一騎、って言ってみような。
一騎、だよ」
言いながら、総士が一騎、と呼んでくれる日を想像して、それだけでどきどきしている自分に驚いていた。
「なあ、父さん。ウサギって一人だと寂しくて死ぬ、って本当かなあ」
「さあな。迷信とも言われてるが」
父はタオルで首を拭いながら呟く。
寂しいのは、人間の方なのだろう。
名前を呼んで欲しいと願っている自分は、どれだけ寂しがり屋なのだろう。
「ところで…一騎」
「うん?」
「飯は炊いたのか」
「……!」
忘れていた。
いつもなら総士の食事も一緒なのに、今回は言葉の練習ということを考えていたためにわざわざ時間をずらし、結果として綺麗に忘れ去ってしまっていた。
「すぐ作る。総士見てて」
総士を再び、父に預ける。
父が総士を抱き上げ、
「どれ、今度は馬鹿者という言葉を覚えようか、総士君」
と可笑しそうに語りかけているのが聞こえた。
John di ghisinsei http://yokohama.cool.ne.jp/gisinsei1129/
2007/01/30