陽だまりの中で
ファイルをめくりながら一騎は軽く唸った。
そのファイルは、総士を引き取ることになった時に千鶴に渡されたもので総士を育てる上で必要なことが書いてある。
一騎が探していたのは散歩について、だった。
しかし、どこにもそのような項目はない。
やっと、それらしいものを見つけた。
それにはただ一行だけ、
『夜間は外に出さないこと』
としか、書かれていなかった。
まさか、鳥目なのかな?
うさぎの視力がどのようなものか、一騎は良く知らない。または、史彦がこの前言っていた、片目の傷のことも関係あるのかも知れなかった。
もしかして、あまり目が良くないのかも。
外に散歩に連れて行きたかったのにな。
公園などで散歩している犬などを見るたびに、そこに総士を連れて行って自慢したい衝動に駆られてしまう。
もっとも、その前に奇異の目で見られることは必至だろう。
彼らのことはまだアルヴィスのごく一部の者しか知らない、ということだった。
彼らの存在は隠しておいていいものではない、と思う。
むしろ、知らしめなくてはいけないことだろう。
ちら、と総士の様子を伺う。
総士は今、遅い朝食を取っていた。
今日は一騎が寝坊したために、朝食を作ってやるのが遅れてしまったのだ。
自分は休みだからゆっくり寝ているつもりだったのだけれど、総士の方はやはりそうも行かない。
総士はやがて、お腹いっぱいになったのか、抱えていた壷をとん、と卓袱台に置いた。
すぐ横に置かれたマグカップの牛乳を飲み、満足そうにふう、と小さくため息をつく。
いくつくらいなんだろう、総士って。
ファイルには、正確な年齢は不明、とあった。
父の話だと、赤ん坊だった総士に会ったのはもう十年くらい前の話らしい。ということはおそらく、歳を取る速度は人間と余り変らないのだろう。
知能はかなり個体差があるらしいけれど、少なくとも総士はこちらの言葉は理解するから、話す事も出来るのだろう。
一騎はファイルを放り出し、寝そべって漫画を広げた。
総士はすっかり満足したのだろう、今度は部屋の中央の、日当たりの良い場所に出てきて、毛づくろいを始めた。もちろん、壷も持ってきている。
時おり壷の中を満足そうに覗き、総士は腕を伸ばして背中から尻の辺りの毛を撫でている。
几帳面なのかな。
漫画の影から見ていて、ふと、そう思った。
綺麗に、それこそいっぽん一本丁寧に撫でつけ、さらに足の先まで綺麗に撫で、ゴミがついていれば眉を寄せてカリカリと引っかいている。
絡まったところなどは何度も何度も撫でていた。
綺麗になるもんだな。
ちょっと感心してしまう。つややかな薄茶色の毛並みはさらにつやを増したように思える。
やがて、総士は体を起こし、後ろ足だけで立ち上がった。
足で畳を軽く叩く様子は、まるでその場を確かめようとしているようにも見える。
一騎はいつしか、漫画を読むことも忘れて総士の様子を見ることに熱中していた。
総士はこちらの存在など忘れているかのように、自らの足場を熱心に整えている――― ように、一騎には思えた。
やがて、どっしりと尻を据えるとおもむろに垂れ下がった長い耳を片手で押さえ、もう一方の手で内側を掻きはじめた。
そうか。耳、掃除してるのか。
総士の耳は垂れているから、その内側は汚れやすい。
それは分かっていたので、一騎も毎日綺麗に拭いていた。それでも、自分でやらないと気がすまないのかもしれない。
こちらに背中を向けて、わずかに首を傾げて一生懸命に耳を撫で付けている総士の姿は、とても愛らしかった。
総士の様子を伺いながら、わざと乱暴に漫画のページをめくってみる。
紙のめくれる音にも、微動だにしない。
いつもならほんの少しの音にも反応するのに。
熱心だなあ。
一騎は感心してしまった。
そして、丸い尻を見ているとむらむらと悪戯心が沸き起こってくる。
…今なら気付かないな…。
そうっと手を伸ばし、指先で、ちょん、と尻を突付く。
ころん、と丸い体が転がった。
「わ!」
小さな声と共に足をばたつかせてもがいている。
うわ、可愛い…!
丸いほわほわした尻から足先だけをじたばたさせている様子はなんとも言えず愛くるしい。
やがてようやく起き上がった総士はきょろきょろとあたりを見回していた。
一騎は知らん顔をして漫画を見ている振りをしながらそっと様子を伺ってみた。
総士はしばらく周りを見、また前と同じように足をもそもそと動かして尻を落ち着かせている。
突付いたあたりを何度も見ているところを見ると、自分が何かに押されて転んだ、ということは理解できているようだった。時おり、ちら、とこちらを見る。
一騎が突付いたことに気がついているのか、あるいは転んだところを見られた、と思っているのか。
どっちなんだろうな。
猫は良く、何かでしくじっても、つんと澄ましている、と聞いたことがあった。
総士も、もしかしたらそうかもしれない。
ウサギとはいえ、まったくウサギと同じ性質を持っているわけではない。
一騎は再び、指を伸ばした。
また、ちょん、と突付く。
またも総士は転がり、じたばたともがいて起き上がり、辺りを見た。
耳がひくひくと忙しなく動いている。
警戒されたかなあ。
今度は、一騎は少し時間を置いた。
そして総士が耳掃除に熱心な隙にまた指を伸ばし――― そこで固まってしまった。
いきなり、総士と目が合ってしまった。
きっ、とこちらを睨んでいる。正確には、指先を睨んでいる。
雑誌で隠れた俺の腕の部分ってどう認識されるんだろう。繋がってる、って分かるんだろうか。
何かで遮られた部分があるとその後ろに回りこんでいる、という認識が出来ない動物がいるというのは知っている。
とっさにそのようなことを考えたまま、一騎はそろっと指先を下ろそうとした。
と。
指先を睨んでいた総士の目が、こちらに向けられる。
…理解してたんか…!
今さらと言えば、今さらのことだ。良く考えれば壷に入れた食べ物がなくならない、ということを認識できている段階ですでに自分の仮説は崩れていたのだ。
総士はつかつかと目の前に迫ってきた。
いきなり、小さな手の平でぱし、と一騎の手を叩いてきた。
「……わ」
一騎は思わず声を上げていた。正直に、驚いていた。
総士がこのように攻撃してきたのは初めてだ。
しかも、表情も怒りをあらわにしている。
攻撃されてるんだ…俺…。
読んでいた漫画のことも忘れ、次にどう対応すべきか、と考えていた。
指先を押さえ、
「痛いよ、総士」
と、痛そうに顔をしかめてみせる。実際には痛くもなんともないのだが、ダメージを負った、と思わせた方がいいのでは、と何となく思ったのだが。
再び、ぱし、と叩かれてしまった。
「ごめん、悪かったよ、もうしないよ」
口ではそう言いながら、もう一回叩かれたい、と思った自分を止められなかった。
眉を吊り上げている総士の肩の辺りをちょん、と突付く。総士は簡単に転がり、わたわたと足をばたつかせている。
そして、飛び起きるなり、猛烈な勢いでぱしぱしと叩いてきた。
うわ、どうしよう…! なんか可愛い……!
自分を睨みつけるきつい眼差しが、指先を叩く小さな手が、懸命に攻撃してくる様子がすべて愛しい。
一騎は知らず、胸を押さえていた。
これって…なに…なんかどきどきしてるよ…!
漫画の世界じゃんか。
自分でも驚きながら、
「悪かった、ほんと、もうしないから。ごめんな」
叩き続ける総士を抱き上げ、頬擦りをする。その頬にも、小さな手の平は飛んできた。
「分かったってば。容赦ないんだな、お前は」
なんだか、子供に悪戯されてもにこにこしている母親の気持が分かる気がする。
赤ん坊の悪戯とはこのようなものかもしれない。
しかし、総士の機嫌を相当に損ねたことは確かなようだった。
抱き上げていた膝を蹴って畳の上に立った総士は再び、今度は用心深く何度もこちらの様子を伺いながらうずくまってしまった。
毛づくろいも中止になったらしい。
一騎はため息を落した。
「仕方ないな…じゃあ…」
がさがさと鞄を漁る。確か昨日、総士のおやつに、と買ったバナナチップがあったはずだ。
その袋を出すと総士の前に差し出してみた。
「ほら、好物だろ?」
総士はつん、として、バナナチップの袋は見ずにただ、こちらを睨んでいる。
仕方なく、一騎はその袋を総士の近くに置いてみた。
少しずつ、総士がそちらににじり寄っていくのが分かって、なんだかおかしい。
一騎は再び、放り出してしまった漫画を広げた。
漫画を読んでいる間に、きっと総士はさらに袋に近寄り、食べようとするだろう。
そして、食べ終わった頃にはきっと、機嫌も直っていることだろう。
袋は、自分で開けられるだろうか。
陽だまりの中、一騎は漫画を読んでいた。
内容は、少しも頭に入ってこない。
総士が袋を開けてくれ、と自分に言ってこないかと、そればかりを待っていた。
服の袖が引かれる瞬間を待っている。
全身で、総士がこちらを見てくれないかと待っている。
もし、袖が引かれたら。そうしたら総士を思い切り撫でてあげよう。
思い切り抱き締めてあげよう。
がさがさと音がする。
くい、と軽く袖を引かれて、一騎は思わず微笑んでいた。
John di ghisinsei http://yokohama.cool.ne.jp/gisinsei1129/
2007/01/26