家族
総士もだいぶ慣れてきたようだ。
一騎はブロッコリーを洗いながら足元を見た。
そこには、総士が後ろ足で立ち、両手を胸の前に合わせてこちらを見上げている。やはり、よく見れば口は人間よりも少し小さく、愛らしい。
「もうじきだからな、待ってろ」
思わず、笑みが漏れる。
犬だったら、ぱたぱたと尻尾を振るのだろうな、と思う。
瞳を煌かせて、じっとこちらを見上げて、おやつが出来るのを待っている。
この頃は家に帰っても、警戒態勢を取っていることは少なくなった。
時には、玄関先まで迎えに来てくれることもある。
そんな時はものすごく嬉しくなってつい、抱き締めてしまう。
風呂に入る時も、前はたまに引っかかれたこともあったけれど、今はそれもない。
ただ、史彦にはまだ余り懐いていないようだった。
父はやはり、総士のことは前から知っていたらしい。
「初めて会った時は赤ん坊だったんだがな」
と、感慨深げに呟いた。
「総士のお母さんって人は?」
父は首を振った。
「知らん。亡くなったらしいのだがそれがいつ頃なのかも」
父はマグカップで牛乳を飲んでいる総士の頭を撫でようとして避けられ、苦笑した。
「あの頃は本当に赤ちゃんだったからなあ。もう覚えてないんだろうな」
一騎の腕に抱かれた総士の目を撫でる。総士は顔をそらせ、じたばたと暴れた。
「ここに傷があるだろう。わかりにくいが…。どうも、虐待を受けたことがあるらしくてな。そのせいで視力も落ちてるらしい…今は回復したんだろうか」
「そうなんだ…」
思わず、父を見る。もしかしたら、父は総士のことを千鶴以上に知っているのでは、という疑問が沸いた。
傷のことなど、千鶴からは何も聞かされていない。
気付いてはいたけれど、喧嘩か何かの結果だろう、と気にしていなかった。
父は表面ではそれ以上、関心を示す様子も見せなかったけれど、何とか懐かせようとしていたらしい。
一度、ものすごい勢いで総士が飛んできたことがあった。
四足で、文字通り、跳んできた。
一騎は、脱兎、という言葉は知っていても、見たのは初めてだった。
耳は後ろにぺったりとつき、顔は引きつっている。
「どうしたの、総士、何かあったのか?」
見ると、総士の逃げてきた先に、父がいた。
「風呂に一緒に入ろうと思っただけだ」
史彦はむすっと答えた。
「せっかく洗ってやろうとしたのに」
史彦にしては珍しく不機嫌な声を出している。
振られて、悔しいらしい。
「総士…父さん、かわいそうだからさ、たまには一緒にお風呂、入ってやれよ」
そう言いつつも、父に対し、わずかながら優越感を持ったのも確かだった。
良く洗って水を切ったブロッコリーを、ひと房ごとに切り分ける。
それを皿に盛り付けた。
「ほら、総士。おやつだよ」
足元の総士に手渡す。
総士は嬉しそうに耳をひくつかせ、わずかに笑った。
そう見えただけ、かも知れないが、確かに笑った、と思う。
総士は両手に皿を持ち、とてとてと歩いていった。
小さな尻尾が左右に小さく動く。その様子にどことなく嬉しくなって後片付けを始める。
と、その時、後ろからかしゃん、という音と、きゃ、という小さな悲鳴がした。
「総士?」
慌てて振り返る。
総士の、丸い尻があった。
居間の卓袱台に運ぶ途中で躓いたのだろうか、皿は転がり、ブロッコリーはあちこちに飛び散っている。
「総士、大丈夫か?」
総士は床に平たく突っ伏した格好のまま、呆然としていた。やがて、あたふたと起き上がると飛び散ったブロッコリーを拾い集めようとする。
「ダメだよ、総士、汚れてるから、新しいの、買ってくるから。な?」
そう言っても、そんな言葉も耳に入らない様子で拾い集めている。その目に、涙が浮かんでいた。
「総士…」
一騎は少なからず驚いていた。
総士がこのように感情を表すのを、初めて見たように思う。
やがて、喉の奥からひぃ、と小さな声を出した。
両手に大事そうにブロッコリーを抱え、ぐすぐすと泣いている。
一つ一つ、皿に乗せ、遠くにまで転がったブロッコリーを見つけては跳ねていく。
「総士、もういいよ、総士」
切なくなって思わず、その丸い尻を捕まえ、抱え上げた。
「どうした」
いきなり戸が開いて史彦が入ってきた。騒ぎを聞きつけたものらしい。
その足元にもブロッコリーは転がっていて、小さな塊は史彦の足元で無残にもつぶれた。
「あーっ!」
総士は一騎の腕の中で小さく叫ぶとばたばたと足で腹を蹴ってきた。
「父さん…!」
「あ?」
史彦は足を上げ、初めて事態に気付いたらしい。
「父さん…俺、買い物、行ってくる。総士を見てて」
「あ…ああ、分かった」
総士を父の胸に預けると総士ははっとしたように振り返った。
「少し待っててくれ、総士、急ぐからね。すぐ帰るから、本当にすぐ」
いうなり、財布を握って立ち上がり、玄関に向かった。
「あーっ」
また、総士の叫びがした。
「本当にすぐ帰るよ!」
家を出たとたんに、うわあっと総士が泣き出したのが聞こえて、切なさと同時に、喜びに涙が出た。
あの総士が、自分がいなくなるというので泣いているのだ。
嬉しかった。
本当にすぐに帰るから。
一騎は全速力で商店に向かって走っていた。
とにかく、急がねばならない。
八百屋でブロッコリーを買い、ニンジンも買った。
まだニンジンはあったように思うけれど、はっきり思い出せず、また急いでいたので考える余裕もなく、ただ手に取っていた。
帰り道も大急ぎだった。
考えてみれば、自分が悪いのだ。
総士の足はウサギと同じでかかとが長い。そのために、人間とまったく同じに歩くことが出来ないのはよく知っていたはずなのに。
なのに、何故、あのような平らな皿に乗せて渡したんだろう。
転ぶ可能性を、少しでも考えなかった自分に腹を立てていた。
総士の足が人間と同じだったら、と思うけれど、それは総士のせいではない。それは、そのままに受け入れなくてはいけない。
その上で、どうしたら総士が不自由しないですむかを考えなくてはいけなかったのに。
大好きなブロッコリーを食べるのを楽しみに、大人しく待っていたのに。
目の前でそれが散ってしまった時。
どうしていいのか、分からなくなってしまったのだろう。
総士、ごめん。
一騎はとにかく必死で走っていた。
商店街への往復も、自分の足ならそう時間のかかるものではない。
「ただいまっ!」
家に飛び込み、玄関に靴を放り投げて家に入って、唖然とした。
総士は父の胡坐の中で、壷のようなものを抱え、細く切ったニンジンをかじっている。一騎を見て、飛び上がろうとして、史彦に抑えられていた。
「大丈夫だ、すぐに作ってくれるよ。大人しくしていなさい」
「…そのニンジン、どうしたの」
「冷蔵庫にあったからな。お前が帰るまでの繋ぎにと思って」
「……そうなんだ…」
台所は包丁が出しっぱなしで、ニンジンの欠片が散らかったままになっていた。
しかし、今はそれを責める気にはなれない。
父は彼なりに気を遣ってくれたのだ。だから総士も、今は大人しくしているのだろう。
大急ぎでブロッコリーを洗いながら、
「その壷は?」
と、声をかけた。それが史彦の作によるものであることは、すぐに分かる。壷なのか、花瓶なのか、正確にはわからないけれど、それに類する何かであることは確かだ。
「これは店から持ってきた。きちんと洗ったぞ。
一騎、お前も悪い。あのような皿ではこぼすなという方が無理だろう。これなら口が細いから簡単にはこぼれない。総士くんの手なら充分に入るしな」
「……」
そこは、自分でも反省していたのだから何も言えない。
洗ったブロッコリーを持って総士のところへ行くと、史彦はものも言わず、ブロッコリーを鷲づかみにして壷の中に放り込んだ。
そして、それをずい、と総士に差し出す。
「総士君。こうしておけば少しくらい君が跳ねたってこぼれないぞ。それは君に上げよう」
総士は嬉しそうに――― はっきりとそれと分かるほどに嬉しそうな顔を見せた。
嬉しそうに壷の中に手を入れて、中からブロッコリーやニンジンの欠片を出して食べている総士を見て、一騎は父に礼を言った。
「ありがと…」
史彦は軽くあごを撫でた。
「…子供に泣かれるというのは切ないものだからな」
表情を変えずに、ただ、総士を見ながら呟くように言った父の横顔を見た。
もしかしたら、母がいなくなったあと、自分を育てながら何度かそのような思いをしたのだろうか。
テレビの上に置かれた、なんともへんてこな形の人形を見る。自分のために、父が作ってくれた人形。
何か遊ぶものが欲しくて、あるいは、友人が持っているのを見て欲しがって泣いたことがあったのかもしれない。
余り泣かなかった、とは聞いていたけれど、まったくではないだろう。何度か父を困らせたこともあったのだろう。
すっかり散らかった台所を片付けていて、ふと、流しの横に妙な跡がついているのに気がついた。
なんだろ。
しばらく見ていて、それが総士の足跡だ、と気がついた。
その理由を考え――― 父がニンジンを切る間、ここに座らせていたらしいことに思い至った。
「……泣いてたもんな…」
その行儀の悪さには、今は文句を言うのは止めた。
きっと、余りに泣くので放り出しておくわけには行かなかったのだろう。
ありがと、父さん。
その父は今、総士と一緒にテレビを見ていた。総士は壷を大事そうに抱えたまま、史彦にもたれ掛かってうつらうつらしている。
少しずつ、少しずつ。
総士が家族になろうとしている。
一騎にはそれがたまらなく嬉しかった。
John di ghisinsei http://yokohama.cool.ne.jp/gisinsei1129/
2007/01/19