受け継がれるもの






 
  朝顔の種を取っている美久の足元に、小さな、今は花をつけていないスミレの葉が揺れている。
 日向は、首をかしげた。
「どうかしたの、日向」
美久に声をかけられて、日向は、一瞬ためらい、小声で言った。
「お姉ちゃん…お友だちとお話してもいい?」
美久は種を取りながら、いいわよ、と言った。
「じゃ…お姉ちゃんこれからお買い物だけど、日向、一人で留守番、してる?」
「うん」
「もうじき、お兄ちゃんも帰るから、お風呂、洗うように言っておいてね」
「うん、分かった」

 種を紙袋に入れて家に入った姉を見送り、日向は、縁側に座りなおして庭を見た。

 友人は、いつものように、そこにいる。
ただ、今日はもう一人、いる。

「お友だちを連れて来てくれたの?
こんにちは、初めまして」
軽く挨拶をしながら、日向は、それでも初めて会う人ではないな、と思った。
 どこかで、会った気がする。

 「ねえ、私、あなたとどこかで会ってるかな?」
兄と、似た年齢の少年。
はっきりと姿形が見えるわけではないが、脳裏にそのイメージは浮かんでくる。
茶色の髪と、美しい目をしている。

その瞳は、どこか、寂しそうにも見えた。
寂しげで、でも、優しそうな瞳をしていた。
 いつ、会ったのだろう。
前から知っていた気もするのだけど。


 「…島を守ってくれていたの?」
友人からの、わずかな言葉を拾い上げ、それをそっと口にしてみる。
少年は、頷いたようだった。
「そうなの…ありがと」
何となく、嬉しくなってぺこり、と頭を下げる。
少年が微笑んだのが分かった。



 何故、急にいつものお友だち以外の人が現れたのか、日向には分からなかった。
友人も、それについては何も語ってくれない。

 少年は、もっと、何か語りたい様子だった。
また、日向も、もっと聞きたい、と思った。
けれども、すぐに空気は揺らめき、少年も、友人も消えてしまっていた。

「あ」
思わず、声を上げる。
「もうお終いなの…もっとお話したかったのに」
落胆して呟く。その声が、友人のもとに届くことを、日向は知っていた。





 サイレンが響き、慌しく人が行き来する。
祖父は次々と指図を出し、それに答える声が響き渡る。

 緊迫した空気の中、日向は動かずにドアの横に立っていた。
「日向ちゃん。避難命令が出たぞ。シェルターに行くんだ」
溝口が肩を押す。
日向はそんな溝口を見、ドアを開けて、シェルターとは反対方向に駆け出していた。
「日向ちゃん!」
行く先は分かっていた。

 もしかしたら。
ふと、この前の少年は、今日のことを知らせにきてくれたのではないか、そんな気がした。
彼は今、島の反対側にいる。
 何故か、分かる。
島の反対側で、彼もまた、戦っている。

 一度は戻った溝口がまた追いかけてきていた。
肩には大きな銃を下げている。
「日向ちゃん、どこ行くんだ!」
「お姉ちゃんたちのとこ!」
それだけ答え、海岸に出た。


 この海岸からでは、目で見ることは出来なかった。
それでも、十分だ。
 傍らの木に手をかけて呼吸を整える。

 海の色はいつもと変わらなく見えるのに。
空の色も、変わらないはずなのに。

 空気の色は、明らかに変わっていた。

慶樹島のかなたに、薄く煙のようなものが見えた。

 やめて。そこはお姉ちゃんの好きなところなんだから!

悲しくなって、心の中で叫んでいた。
姉は、あの島を見るのが好きなのだ。
その景色を、壊されたくない。

 急に、日向は木に掴まっていた手の感覚が薄れてゆくのを感じた。
 どうしたのだろう。
感覚が、神経が ――― 体の細胞の一つ一つが、空気の中に溶け込んでゆくような気がした。





 「祐哉、無理しないで」
それ、の姿をうかがいながら、美久は短く言った。
確か、あれは前にも資料映像で見たことがあるように思う。
似ているだけかもしれない。
どちらにせよ、危険な敵であることには間違いない。
しかも、今回は初めての実戦だった。
 「分かってるよ、姉ちゃん」
祐哉の静かな声は、それでも、いくらか緊張している。

 それ、は、まだ動かない。
海岸線から、わずかに離れた海上に浮かんでいる。

美久は、栄治との距離を測り、栄治に軽く合図をしてから空を飛んだ。
すかさず、援護に回った栄治の銃が火を噴く。

 美久は、上空からそれの姿を確認しながら、ふと、すぐ傍に日向がいることに気が付いた。
日向の目を通して、祐哉の視界が見える。
祐哉は、銃撃を受けたそれが、栄治の方に向いた瞬間、地を蹴った。
土煙を上げて、山が崩れ、岩が転がり落ちる。

 白い、祐哉の機体は大きく跳躍し、両手に構えた剣がそれを突き上げる。
 「お姉ちゃん、もっと早く」
日向の声を受けて、美久は加速をつけ、急降下し、剣を構えた。
祐哉の剣と、栄治の銃撃によってめくれ上がったそれの中に、狙いのものは、見えた。

「美久ちゃん!」
栄治の声がした。

美久は、さらに、ぐん、と加速をつけ、山に沿って飛んだ。ごう、と、山の木が唸る音が耳元で聞こえる。

 いやよ。ここは私の場所なんだから。
体勢を整えながら、美久はそれのコアをしっかりと見た。
睨みつけていた。
 父と母を、最初に引き離すことになったそれ、に良く似た、今の敵のコアを。



 ――― 重かったな、と思う。
あの日、小さかった美久には、日向は重かった。
ベルトをして抱いていたけれど、祐哉も抱いて上げねばならず、両手で支えることが出来なかった。

 でも、父や母が抱えていたものは、もっともっと、重かったのだろう。

 それまで泣いたことのなかった母が、父が、カプセルに入れられることになった時に、初めて、泣いた。
手を離そうとせず、祖父が、困惑したように立ち尽くしていたことを覚えている。

やっと手を離した母は、今度は床に泣き崩れた。
それを、ただ見ていることしか、出来なかった。

 ごめんね。
母は、そう言った。
 泣いてしまって、ごめん、と言うことか、日向を抱かせたことを謝ったのか。


 お母さん、謝ること、なかったのに。
私、何も出来なかったのに。
 

 すぐ目の前に迫ったそれに、正確に狙いを定める。
「お姉ちゃん!」
日向の声を合図に、閉じられる寸前のそれに、思い切り剣を突き立て、トリガーを引いて、後は振り返らず、爆発寸前のそれから、全速力で上空に逃れる。

同じように、祐哉も、栄治も大きく飛び離れ、爆発から逃れていた。


 青い空を見つめながら、美久は、今の自分は、多分、泣いているのだろう、と思った。
 お母さん。
本当に、謝ることなんか、なかったのに。
 
「大丈夫だよ」
日向の声が、薄れながらも、はっきりと聞こえる。
「その時じゃないと出来ないこと、ってあるもん」
今、自分が思い出した光景は、そのまま、日向にも見えていたのだろう。
「…そうだね…ありがと、日向」
笑ったように見えた日向の影が、ゆっくりと薄れ、やがて、消えた。






 木に触れていた手の感覚が戻ってきて、日向は思わず、手のひらを見た。
つい今しがたまで、空から見ていた島は、今は目の前の海に、静かに横たわっている。

 すぐ横に、溝口が銃を構えて立っていた。
「…おじちゃん…」
「あ…」
溝口は一瞬、ぽかんとしてから、大きく息をついた。
「…日向ちゃん…頼むから勝手に飛び出したりすんな。おじちゃん、寿命が縮んだぞ」
「あ…ごめんなさい…おじいちゃん…怒るかな…」
叱られるかもしれない。
日向は小さくなって溝口の顔を見た。
「そりゃ…ちっとは叱ってくんないとおじちゃんの方が困るな。…いいよ、一緒に叱られてやるから。
早く戻ろう」
「おじちゃんは叱られないでしょ? だって大人の人だもん」
「大人だって叱られるんだぞ?」
溝口は大きな声で笑った。

日向はそっと辺りを見た。
先ほどまで、すぐそばにいた友人は、もういなくなっている。
もしかしたら、溝口の大きな笑い声に驚いたのかもしれなかった。




 祐哉が、救護室にいる、と聞いて、美久は慌てて飛んでいった。
 怪我をした様子はなかったのに。
もし、戦闘中に何かあったなら、自分や栄治が気づかないはずはなかった。

 祐哉はベッドの上で半身を起こし、ジュースを飲んでいる。
「…なんか…なんともなさそうだけど…どうしたのよ?」
祐哉は曲げたままの腕を目で示した。
「肘。捻ったみたい」
「へえ。なんだ。頭でも打てばよかったのに。
そうすればもう少し利口になったかもよ?」
「姉ちゃんこそ、顔でもぶつけりゃ、良かったのに。
もっと美人になれたんじゃねえ?」
「何を言ってんのよ。第一、いつそんな怪我したの?
分からなかった」
「いつだっていいじゃん」
くす、と笑う声がして、美久は振り返った。
栄治が立っていた。
「祐哉、コックピットから出る時に転んだんだよ」
「なにそれ。馬鹿じゃないの?」
安心したのもあって、思わず大声で言っていた。
「そんなドジ、初めて見たわ」
初めての実戦だから、無理はないかもしれない。
きっと、緊張しきっていたのだろう。
それでも、この弟はいつもの訓練と変わらない働きを見せたのだ。
自分は、どうだったのだろう。

 祐哉は、相変わらずジュースを飲みながら窓際に置かれた鉢植えの花を見ている。
 
 自分が泣いたことも、この弟は知っているだろう。
日向も、知っているだろう。
そう思うと、少し気恥ずかしい。

 「祐哉。少し休んだら帰るのよ。私、先に帰ってご飯、作ってるから。おじいちゃんにもそう言っておいて」
「分かった。それとさ、姉ちゃん」
「うん?」
祐哉は、気難しそうに額にしわを寄せた。
「日向に出るなって言っといて。
俺、気が気じゃなかった」
「当然よ。じゃあね」

部屋を出ると、そこに祖父が立っていた。
「…おじいちゃん…」
「美久…よく…」
それきり、黙って抱きしめてきた。
 途端に、祖父の想いが、あらゆる想いが、どっと流れ込んできた。
 
 それは、喜びであり、安堵であり、悲しみ、やるせなさだった。
 どう言えばいいのだろう。
こんな時、どんな言葉が役に立つのだろう。

 「おじいちゃん…心配かけてごめんね」
美久には、その言葉しか思い浮かばなかった。
 いつも、こんな想いだったのだろう。
「…おじいちゃん。祐哉の馬鹿が怪我、したんだって」
気を引き立たせたくて、美久は努めて明るく言った。
「聞いた? コックピットから出る時に転んだって。
…きっと…怖かったんじゃないかな…」
最後の言葉は、本当は違う言葉を言うはずだった。
ドジだって言ってやって、と言いたかったのに、どうしても、言えなかった。
「祐哉を…ほめてやって…」
「…ああ…」
「じゃ、私、ご飯作ってる…」
「疲れてるだろう。無理はしなくていいぞ」
優しい祖父の言葉に、髪を撫でる大きな手の温かさに、涙が零れ落ちる。

 でも、今はもう、泣いてもいいのだ。
美久は、そっと、祖父から離れ、手を振って日向の待つ休憩室へと向かった。

 日向のもとで、また、自分は泣いてしまうかもしれない。
でも、それでもいい。
 今しか、泣けないことだってあるのだから。

















John di ghisinsei http://yokohama.cool.ne.jp/gisinsei1129/

2005/09/12