伝説






 
  鏡に向いながら、前は、こんなではなかったな、と、総士は改めて思った。
 以前。
まだ、自分が男だった頃。
 当時の記憶は、ほとんど消えかけているけれど、それでも、これほど頻繁に自分の顔を見ることはなかった、ということは、覚えている。

 やはり、女になって、容姿に気を遣うようになったのだろうか。


 「あかちゃん、おきた」
美久の声に、振り返る。
「あ、起きた? じゃあ、オムツ、替えてあげなくちゃね」
美久はすぐ傍らの紙おむつが入ったかごを開け、はい、と、差し出した。
「ありがとう、いつも手伝ってくれて」
美久は、嬉しそうに丸い顔を綻ばせた。

 オムツを替え、ミルクを作って飲ませているその間、美久は、先ほどまで自分が向っていた鏡に向い、何かをしていた。
「何してるの、美久」
「おかちゃんとおなじになるの」
「うん?」
何だろう、と思ってみていると、懸命に目をこすっている。
「こら、傷になるでしょう。止めなさい」
何とか、祐哉を抱いたまま、体の向きを変え、美久のスカートを引っ張る。
「こら、よしなさい、何をしてる」
言いかけて、はっとした。
美久は、一生懸命に左目の上をこすっていた。

「美久。本当に止めなさい。お父さんにお尻ぱんぱんしてもらうよ」
「え、やだ」
ちら、と台所を窺いながら、慌てて膝元に駆け戻ってきた。
 
美久は、左目の傷跡を、そっと指で指し、
「これ、いたいの?」
と、聞いてきた。
「痛くないよ。なんで」
「…ふうん。みくはなんでそれ、ないの」
「これはね、お母さんだけなの。いいでしょ」
笑いかける。
美久は、首をかしげて、いいな、と言った。
「美久も欲しい?」
「うん」
その瞳を見つめ、思わず、微笑んでいた。
「あかちゃんも、ないね」
祐哉の顔を覗き込み、また、丸い目を上げて総士の顔を見る。
「赤ちゃんにもないよ。これはね、もっと大きくならないとね」
「おおきくなったらもらえるの?」
「さあ? どうだろう?」

 大きくなったら、か。
元気良くミルクを飲む祐哉の顔を見つめ、小さく笑う。


 傷のことは、そう、詳しく覚えているわけではなかったけれど、自分がそれをとても重要なものと思っていた、と言うことは覚えていた。
 詳しいことは、だいぶたってから、一騎に聞いた。
話を聞いても、何となく、自分の身に起こった事としての実感がない。
ただ、衝動的な何か、が沸き起こるのは、感じられる。
 それは、おそらくは一騎と同化しようとした衝動であり、その傷によって一騎を繋ぎ留めようとしていたであろう、心の動きを、感覚として覚えているのだろう。
今では、それもあやふやで、まるで夢の中の出来事のようだ。
それでも、毎日、鏡を見るたびに、その夢のような出来事を何となくたどっている。

「おとうちゃん、おっきいのに、ないよ?」
美久の声に、現実に引き戻される。
「そうだね。でも、見えないのかもしれないよ?」
「あ」
見てくる、と叫んで、美久は台所に走った。


 台所から、何やら騒ぐ声がして、総士は小さく笑った。
「お姉ちゃん、賑やかだね」
祐哉に語りかける。
 祐哉は、美久に比べてひ弱な感じがする。
少し小さかったせいもあって、育つかどうかも、心配だった。
美久が逆に、生まれが小さかった割には順調すぎるほどに発育が良かったから、余計にそう思えるのだろう。
 不安は大きく、それが原因でなのか、母乳は三ヶ月くらいで止まってしまった。
以来、ずっとミルクで育てている。

 祐哉が首を振って哺乳瓶から口を離す。
「うん? もういいの? そうか。まだ夕ご飯もあるからね」
肩に抱き上げて背中をさすっている時 ―――
美久が、ばたばたと駆け込んできた。
「ねえ! きょうね、ばばやきなの!」
「え?」
嬉しそうに、顔中で笑っている美久の顔を、ぽかんとして見ていると一騎が入ってきた。
「何なんだ、こいつ。来るなり、人の顔、見せろってうるさいったら…」
「ああ…この傷」
目の傷を、そっと指す。
一騎は、はっとしたように目を見張り、小さく息をついた。
「これ、美久も欲しいって。だから大きくならないともらえないんだよ、って言ったんだ。
で? ばばやきってなんだ?」
黙って聞いていた一騎が、あ、と、声を上げた。
「ああ…蒲焼だよ、アナゴの。美久の好物だから」
「蒲焼のことか。驚いた」
「おとうちゃんももらってないんだね、おなじの」
「うん?」
「だから」
祐哉を寝かせながら言った。
「お前にはこの傷がない、って。そういうことだよ」
「……そうか。そうだね」
何を思ったのか、美久の手を取る。
「美久。少し散歩しよう。おいで。お母ちゃんは赤ちゃん、ねんねさせて上げなくちゃね」
何となく、そういった一騎の瞳が寂しそうに思えて、思わず呼び止めた。
「一騎…あの…」
「うん?」
「…気を遣わなくていいぞ」
どう言って良いのか分からず、そんなことを言ってしまった。
言いたかったのは、もっと他の言葉だった気がするのだけれど。

一騎は、小さく笑った。
「ああ…大丈夫。ちょっと美久と散歩したいだけ。家の周りだけね。すぐに戻るよ」
小さく頷いて、二つの後姿を見送る。
おもちゃを動かす祐哉の声に、ベッドの中を覗き込んだ。
祐哉は、手に持った鈴の付いたおもちゃを振って、甲高い声を上げていた。





 夕陽に、赤く染まった石段を、美久を抱いて慎重に降りる。
美久は、空を見ていた。
「とりさん、いないね」
「うん。もうおうちに帰ったんじゃないかな。
とりさんもそろそろご飯なんだよ」
 ふと、立ち止まり、美久を見る。

このような光景が、どこかで、あった。
 家にある、母の写真だ。
幼かった自分を抱く、母の、ただ一枚の写真。
ちょうど、こんなふうに、小さい自分を抱いていた。
 そのとき、母は何を思っていたのだろう。

小さな手が、肩を掴む。
この愛しさ。
この重みは、何物にも、代えがたい。
 そんな子供を残して行かねばならなかった母は、どんな気持ちだったろう。
 「美久」
美久を、地面に下ろし、その手を握る。
 母だけではない。
いなくなった友人たち。その、親。
皆、どれほどに、辛かったろう。

「おとうちゃ、おなかすいた?」
「うん? 大丈夫だよ? なんで?」
「うん…」
何か言いたげに、顔を撫でてくる。
「げんき、だして」
その言葉に、思わず苦笑した。
「おかあちゃんとおなじのがほしいの?」
「そうだね。うん、お父ちゃんも欲しいかな」
「おっきいのに、なんでもらえなかったの?
わるいこだったの?」
「そうかもしれない」
「おとうちゃ、わるくないもん!」
いきなり叫ぶ美久に、一騎は驚いた。
驚いて、続いて、笑みが漏れた。
「美久、大丈夫だよ。お父ちゃんはきっと、お母ちゃんのとは違うもの、もらったんだと思うから」
「そうなの?」
「うん、きっとね。…美久、お手て、出して」
美久は、首をかしげながら、小さな小さな手のひらをかざした。
その手のひらに、自分の手のひらを重ね合わせる。
 「美久のお手てが…ここまで」
自分の手の、指の付け根辺りを指す。
「ここまで来るくらいに大きくなったら…そしたらお話してあげる」
「なんのおはなし?」
「うん…いろいろなこと。どうしてお父さんは印をもらえなかったのかとか、あと…今、美久が立ってる、この地面が乗っかってる島のこととか」

 かつては、あらゆるものに、何の執着もなかった。
今は、逆だ。
 自分を包む、すべてに、執着があり、それぞれが、自分に、あるいは、それらに、自分が根を張っている。

 数分で、世界が変わったあの時からのこと、その前のこと。
それらを、いつか、美久に、また、祐哉に語って聞かせなければならない。

 「長いお話なんだよ。美久、途中で寝ちゃうかな?」
「ねないもん!」
「でも、孫悟空のお話より長いんだよ? 昨日、おじいちゃんが話してくれたとき、美久、寝ちゃったろう」
美久はむきになったように頬を膨らませた。
その顔は、総士が怒ったときの顔に、そっくりだった。
「みく、ねないもん!」
「そうか…じゃあ、いつか…お話してあげるよ」

 そっと、小さな頬を包む。
なんて、愛しいのだろう。
 「美久、祐哉のこと、好き?」
「うん! だってね、あかちゃん、かわいいんだよ!」
「そうだね。…じゃあね。二人でずっと、一緒にいるんだよ。仲良くするんだよ」
「うん。みくね、おとうちゃんもだいすきだよ?」
「ありがと」
小さな子供の、ただそれだけの言葉に、涙が出た。
それほどに、嬉しかった。

「おはなし、いつしてくれるの」
「美久のお手てが大きくなったとき、って言ったろ?
もっと大きくなってからだよ」
「あしたかな」
「あさってかな?」
くす、と笑いかけ、美久の手を取り、抱き上げる。

 石段を戻りながら、家の周囲を眺める。
この石段も、古い家も。
それを包む、木立も、すべてが、愛しい。

思えば、いつもそれらは自分を優しく迎えてくれていたのだ。
自分が、それを認めなかった。

 それらを認められるようになるまでの話を、この島に起こった出来事を、そして、総士と、自分のことを。
総士の顔の傷跡が、何を物語っているのか、を。
子供たちに、語って聞かせよう。
いつか、子供たちが、新しい物語を書き加えてゆく、その時のために。
 繰り返される喜びと悲しみと。
それらが織り成す人々の物語を。

それらは、これからも、ずっと書き連ねられてゆくのだろう。
今まで、そうしてきたように。




 



 









John di ghisinsei http://yokohama.cool.ne.jp/gisinsei1129/

2005/05/23
子供たちがもっと大きくなった話も書きたいなあ…