総士






 
  どこまで広がっているのか分からない、虚無の世界。
そこでは、自分の体がどうなっているのかも、分からなかった。果たして体があるものかどうかも、見当も付かない。
 ないのだろう、と思う。
それでも、時間は、確かに流れている。

 美久。祐哉。日向。
繰り返し、呼び続ける。
 愛しさに駆られて、呼ばずにいられない。

 美久。
祐哉と日向に指図しながら食事の支度を急ぐ美久の後姿を、総士は微笑んで見ていた。

 おそらく、微笑んでいるだろう、と思う。
自分の表情が見えるわけではないけれど。

 

 自分に、『その時』が訪れた時 ―――
総士は、心の中でとっさに乙姫を呼んでいた。
 子供たちを、妹に託したかったのだろう。
ここを離れている間、頼む、と。

 ずいぶんと長いこと、離れているように思う。
その間、ずっと見ていた。

 こんなにも愛しいものがあったなんて。
誰かを愛する、それが、こんなにも、心を穏やかにしてくれるものだったなんて。

 今は彼らを包むすべてが愛しい。
彼らの周りにあるものすべて、今、自分のいる、この空間さえ。

 



 美久の姿は、そのまま、かつての自分を映しているようだった。
 肩肘を張って、精一杯、背伸びをして。
弟や妹を守ろうと、必死になっている。

 そんなに頑張らなくていいよ、美久。
近くにいたなら、そう言って上げられるのに。


 鏡の前で、美久は髪を梳いていた。
これから、栄治と出かけるのだ。
梳いて、後ろに纏め上げた髪を、茶色の髪留めで止めている。
ほつれた髪が頬にまでぱらぱらと掛かってきている。
 
 あの髪を、この手で梳いてあげたかった。
きれいに、美しく纏め上げて、そう、可愛らしく、もっときれいな髪留めを付けて。

 想像の中で、総士は美久の後ろにたち、ほつれた髪をそっとかき上げた。
美久には、きっと分かるだろう。
 美久は、はっとしたように動きを止めた。
やはり、分かっているのだろう。
自分の存在が、目には見えなくとも、感じられるのだろう。

 なんと美しくなったことだろう。
総士は嬉しくなって、その頬に手を当て、そっと撫でた。
 顔立ちは、紅音に似ていた。
一騎に似たのだろう。一騎は、母親似だったから。

 きれいになった。
そう言ってやりたかった。

 美久の手が、大きく震えた。
「…お母さん? お母さん…?」
見る見るうちに、大きな目に涙が溢れ、零れ落ちる。
総士は今度はそっと、その肩に手をかけた。
鏡を見つめたまま、肩を震わせていた美久は、やがて、わっと声を上げて泣き出した。
堰を切ったように、これまで、心に押し込めていたすべてを吐き出すように。

 総士はその背中を撫でた。
そう。
泣いていい。そのために、今、傍に来たのだから。
泣くことも、時には必要なのだ。
 
 総士の目は、ここにいてもあらゆる方向の出来事を捕らえていた。
二階にいた祐哉は、驚いたように立ち上がり、それでも動かずにしばらく自分の指先を見ていた。
そして、再び腰を下ろし、静かに模型の続きに掛かっている。
 
 祐哉も分かってる。
総士はまた、微笑んだ。
 祐哉にも、分かっているのだ。
姉には、泣くことが必要だ、ということを。
いつも、無理をして突っ張っている姉を彼なりに思いやっているのだ。

 アルヴィスから帰ってきたところだった史彦も、玄関先で立ち止まり、しばし躊躇っている。
やがて、史彦は走ってくる栄治を見つけるだろう。
 美久を迎えに来て、途中でその泣き声に気付き、血相を変えて走ってくる栄治の姿を見るだろう。
そして、そのまま、栄治を迎え入れるだろう。

 栄治も、いい男になった、と思う。
顔立ちは咲良と剣司の、ちょうどいいところだけを取ったようで、剣司よりもいい男じゃないか、と、少し可笑しくなった。
でも、剣司が咲良を想っていたのと同じように、美久を想うその一途さは、確かなものだろう。
一騎も、知っているだろう。
一騎は、あるいは苦々しく思っているかもしれない。
でも、許してやって欲しい、と思う。

 美久には、すがる相手が必要なのだ。
それは、少しも恥ずかしいことではない。
美久の背中を撫でてやりながら、そうすることで、少しでもその肩の荷が軽くなったら、と思う。

 玄関先で、史彦は立ち尽くしたままでいる。
俯いたその顔に、以前よりもさらに皺の深くなったその顔に。
 総士は、頭を下げた。
ありがとう。
 おそらく、美久を一番良く理解しているのは、この義理の父だろう。

 ありがとう、ここまで育ててくださって。
本当に、声が聞こえればいいのに。


 一騎もきっと、自分と同じように、愛するものを見つめているはずだ。
 本当に、どれだけ愛したことだろう。
どれだけ、愛していたかったことだろう。
 胸の奥深くから突き上げて魂を揺さぶるもの。
それは、この空間さえも明るく照らしている。
 すべてが愛しかった。
すべてを、抱き締めたかった。

 無の空間。
そんなものは、おそらく、ないのだろう。
 総士は思った。
何故なら、すべて今、自分が抱き締めているから。
この想いのすべてをこめて、優しく抱き締めることが、今は出来るから。
















John di ghisinsei http://yokohama.cool.ne.jp/gisinsei1129/

2005/09/27