SONATINA・2
Procyonの六原様に捧げて。
頬に痛みを感じて、一騎は目を覚ました。
きぃきぃと耳障りな声がする。
どちらともに、最近、馴染みの深いものだ。
「うるさいなあ…もう…」
再び、頬をかりかりと引っかかれる。
胸に乗ってきたものを跳ね除けようとして体を起こしたその時、目覚ましが鳴った。
猫のかずきは、計ったように、毎朝この時間に起こしに来る。時々、起きる時間を知っていて、さらに、時計の見方も知っているのでは、と思うことがある。
それほどに、正確だった。
隣に寝ている総士を揺り起こす。
「おい、起きろ、時間だぞ」
「…ん…」
ころん、と寝返りを打って、再び、寝息を立てる。
まあ、いいか。
あくびをしながら台所に下りる。猫のかずきも、すとすとと降りてくる。
そして、きちんと自分の茶碗の前に足をそろえて座った。
「うん、お利口だな、かずき」
こういう時だけは、行儀がいい。
食事の支度をしているうちに、父も起き、総士も起き出してきて、やがて、賑やかになってくる。
猫が来てからというもの、いつも家の中は賑やかだ。
前はあれほど静かだったのに。
賑やかなのはいいが。
洗濯物を干しながら、一騎は、首を傾げた。
洗ったはずの靴下が、片方しかない。
確かに、両方そろえて洗濯に出したのは覚えている。
洗濯機に入れる時に落ちたのだろうか。
そう思って、洗濯機の周りを探してみても、それらしいものはなかった。
…かずきか…。
土間で寝そべっている猫を見る。
ふう、と、小さく息を吐いた。
最近、よくこういうことが起こる。
小さなものがやたらになくなるのだ。
そして、とんでもないところから出て来る。
どうしても、理由が分からなかったのだが、ごく最近、猫のかずきが総士の靴下でじゃれている現場を発見した。
どうやら、洗濯場から銜えて来たものらしい。
散々弄ばれたその靴下は、かずきの鋭い牙で穴が開いてしまい、使い物にならなくなってしまった。
「おい、かずき」
寝そべっている猫の傍らに腰を下ろし、その首を掴む。
「俺の靴下、どこに持ってった?」
かずきは、何を言ってるんだ、と言わんばかりに大きくあくびをし、首をつかまれたまま、目を閉じてしまった。
「のんきな奴だな、おい。…おい、俺は怒ってるんだぞ?」
そのまま揺すってみても、ゆらゆらと揺れながら眠っているだけだった。
…まあいいか。
相手が猫では。
そのうち、どこかから出てくるだろう、と、諦め、猫を放り出した。
ほんと、猫っていたずらだよな。
しかも、その猫が自分と同じ名前だから何ともやりにくい。
やがて、買い物に出ていた総士が戻ってきた。
「総士、こいつがまた俺の靴下、どっか持ってったぞ。
あとで探しといてくれよ」
「ああ? 何故俺が」
「お前の猫だろ。きちんと躾けとけよ」
総士は、足元にじゃれ付く猫を見下ろした。
「俺の猫、と言われても。確かに連れてきたのは俺だが」
そして、かがみこんで猫を抱き上げ、微笑みかけた。
「かずき。お前、ご主人の靴下、どこに持っていったんだ? 一騎の靴下、くさいぞ。鼻が曲がるぞ」
楽しそうに、猫を抱え上げ、頭を撫でてやりながら言っている。
とても、叱っているとは思えない。
「…面白がってるだろ」
総士は、くす、と笑った。
「そう怒ることもないだろう、一騎。
猫のやることだ、すぐに出てくる。
では…探すとするか、かずき。お前も手伝え」
猫のかずきは総士の足元で、首を掻いたり、顔を洗ったりしている。
のんきな風情だった。
やがて、土間の方から、あったぞ、と言う声がした。
茶碗が置かれた棚の片隅から、それは出てきた。
あまり使うこともなく、目立たない場所だ。
今日、見つからなかったものだけではなく、今までなくなったものも、そこにあった。
「父さんの靴下もある…」
「俺のスカーフもだ…」
さすがに、総士も呆然としていた。
制服のスカーフがなくなった時には、それは大騒ぎをしたのだ。
二人で、どこに片付けた、触ってもいない、と、ほとんど喧嘩になったものだった。
その後、新しいスカーフを支給してもらったものの。
「もうこれは使えないな。かずきにやるか」
牙と爪でぼろぼろになったスカーフを見る。
「でも、それをおもちゃに上げちゃったらスカーフでは遊んでもいいものだ、って思い込むと思うぞ」
「…そうか…」
足元に擦り寄ってきたかずきの首を捕まえる。
「こら、かずき! 駄目じゃないか、俺のスカーフで遊んじゃあ!」
「……総士…」
一騎は、思わず顔を背けた。
いつもの事ながら、自分が叱られている気分になる。
「ここもまめに片付けないと駄目だな…」
父の領域だったから、あまり手をつけないようにしていたのだが。
そうも言ってられなくなった。
靴下に穴が開いてないことを確認して、洗濯機に入れる。
なんとか、猫に洗濯物を持って行かれないように出来ないものだろうか。
蓋つきのかごでも買うしか、ないかも知れない。
猫にとっては、悪戯も、仕事の一つなのだろうけれど。
ため息をついて、一騎は台所に向った。
こんな騒ぎは、毎日のように繰り返される。
「あれ。油揚げ…」
一騎はすぐ脇にあったはずの油揚げを取ろうとした手をそのままに、呟いた。
味噌汁に入れるために冷蔵庫から出したと思ったのだが。
そう思っただけで、実は忘れてるのかな、と思って冷蔵庫を開けてみても、やはり、油揚げはない。
「…?」
気のせいかな?
何しろ、慌しくいろいろなものを出したり入れたりしたこともあって、記憶がはっきりしない。
変だな、と思いつつも、他の具を入れて味噌汁を作り、次に、煮物に入れるはずだったちくわがないことに気が付いた。
「総士。…お前、まさかちくわ、つまみ食いしてないよな?」
「するはずがないだろう。お前、俺をなんだと思ってるんだ」
「いや…悪かった」
…ちくわも気のせいか?
「おかしいな…」
呟きながら、まあ、それでもちくわはなくてもいいし、と、思い直した。
総士は、見ていたテレビから視線を外し、膝の上の猫を見た。
「かずき。お前…どこにやったんだ?」
小声で、猫に問いかける。
もちろん、答えがあるはずもないが。
かずきは、丸い目を上げて、ひげを動かす。
それは、まるで、何を言ってるんだ? と言っているかのようだ。
総士はかずきを抱き上げてそっと階段の方へ向った。
そこには、総士だけが知っている、かずきの隠れ家がある。
階段の下の、小さな隙間だ。
懐中電灯を手に、そっと、覗いてみる。
案の定、そこに、油揚げも、ちくわもある。
いつのものか、かじりかけのかまぼこや、クッキーのかけら、するめなども、ある。
「かずき…見つかったら怒られるぞ、お前」
かずきは、きょとん、と丸い目を上げるだけだった。
見つかる前に、と、そうっとそれらを袋に入れ、こっそりと捨てる。
その手元を見る、かずきの目が、どことなく寂しそうなものに思えた。
そっと、額を撫でる。
「かずき…これは駄目なんだ。悪いが、捨てるぞ」
可哀想な気もするが、仕方がない。
居間に戻ると、一騎は不思議そうに、
「どこに行ってたんだ?」
と聞いてきた。
「ああ…少し外を見てただけだ。かずきの散歩だ」
「いきなりいなくなるからびっくりしたぞ」
「すまなかった」
一騎は、そのまま、夕飯の支度を続けている。
総士は猫の頭を撫で、その顔を覗き込んで、小さく笑った。
「黙っててやるからな。安心しろ」
一騎に聞こえないように、小声で呟いた。
その隠し場所も、程なくして、一騎に見つかった。
ちょうど、かずきがパンを銜えて行ったところを一騎に目撃されたのだ。
現場を押さえられては、致し方もない。
「総士…もしかして、前からここ、知ってたな?」
「え? いや…」
一騎は、くすくすと可笑しそうに笑った。
「…下手な嘘は止めろよ。その猫を怒ったりしないからさ」
「いや…怒るのは仕方ないが…」
「今から怒っても駄目だろう? 動物はその場で叱らなきゃ」
「…あ…ああ」
それよりも、かずきの、せっかくの隠し場所がふさがれたら可哀想だ、と思ってしまった。
しかし、それもまた、一騎は分かっていたらしい。
「ここもそのままにしとくから」
パンのかけらを、ゴミ袋に入れながら言った。
「だから総士。…お前、責任持ってここ、時々掃除してくれよな」
「…分かった」
「お前のおかげで俺は掃除当番だ、かずき」
板の間で平たくなって眠る猫のひげを引っ張ってみる。
かずきは、目も開けない。嫌そうに口元を震わせただけで、相変わらず、眠り続けている。
でも。
なんだか、楽しい。
「かずき」
眠っている猫を呼ぶ。
居間にいた一騎が振り返ったのが視界の端に入って、総士は小さく笑った。
「かずき、起きろ」
つんつん、とひげを引いてみる。
飼い慣らされて、警戒心をなくした子猫はまったく関心なさそうに薄く眼を開け、すぐに閉じた。
「こら、かずき。踏むぞ」
何度呼んでも、起きそうにない猫の名を、さらに呼ぶ。
何度でも、呼んでいたい名前だ。
どうしてこの猫がこの名前になったのか、を、一騎は、おそらく知ることはないだろう。
言うつもりは、ないから。
いつも、名前を呼んでいたかったから、なんて。
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John di ghisinsei http://yokohama.cool.ne.jp/gisinsei1129/
2005/05/30
あと一日なんて。寂しいですーっ(泣)
前から書きたかった、猫かずき。
…うちの猫たちのやってることを書いただけのような(汗)
2005/06/01
Procyon様閉鎖されました…(泣)