象徴
着替えを終えた美久が下に降りると、日向が鏡の前でしきりに髪を弄っている。
「どうしたの?」
「あ、お姉ちゃん…髪留め、うまく付かないの…」
そう言って、再び、鏡に向かう。
アルヴィス勤務と同時に切った日向の髪は、ようやく肩より長くなった程度だ。
付けにくいのだろう。
美久は日向の後ろに回り、ゴムで髪をまとめなおしてから、髪留めを付けた。
銀色の、橋が架かったような、少し変わったデザインのものだ。
小さな橋のように細い銀のアーチが掛かり、その間に、銀の鎖が絡まりついている。
ある部分では長く、ある部分では短く、その鎖は日向が動くたびにゆらゆらと輝きながら揺れる。
真ん中の、一番短い鎖の部分に、二つの指輪が通っていた。
もとは、母が身に付けていたネックレスだった。
祖父がそれを片手にぶら下げて帰ってきた時、美久は、日向にミルクを飲ませていた。
祖父は、何も言わずに鎖を見つめていた。
おそらく、泣いたのだろう、と、ミルクを飲む日向を見ながら思っていたことを覚えている。
何が起こったのか、は、もしかしたら理解できていなかったのかもしれない。
それでも、これからは、自分がこうして、日向に毎日ミルクを上げねばならないのだ、ということは分かっていた。
悪戯盛りの、体の弱い弟の面倒も、これからは自分が見なくてはいけない。
食事を作りに来てくれていた羽佐間容子も、カノンも、その時、泣いたような顔をしていた。
祐哉の服を着替えさせながら唇を噛んでいたカノンの横顔は、今でも良く覚えていた。
――― このお姉ちゃんだって泣きたいのに、きっと我慢してるんだ。
そう思ったら、泣けなかった。
「日向。出来た」
「ありがとう」
日向の弾んだ声に、少し、気持ちがすくわれる。
日向は嬉しそうに、手鏡で、髪留めをつけたあたりを見ようとしていた。
「大丈夫、可愛く出来てるから」
何度も鏡を覗き込む日向に、微笑みかける。
差し込む朝日に、銀色の鎖はきらきらと煌いていた。
美久が十歳くらいになって、髪を伸ばした頃、祖父が髪留めをくれた。
それが、あの時の鎖を加工したものだということはすぐに分かった。
だから、美久は、それを日向に上げた。
何故か、その方がいいように思えた。
自分は、まだ両親の事をいろいろ覚えている。
けれど、日向は何も知らない。
だから、せめて母のものだったそれは、日向がいつも身に付けていられるようにしたかった。
「姉ちゃん、日向! 何やってんだよ」
隣室から、祐哉の声が響く。
「朝飯、出来たぞ。先に食ってるぞ」
「あ。すぐに行く!」
日向は手鏡を放り出して駆け出した。
「あー、目玉焼き、壊れた!」
日向ががっかりした声を上げた。
「いいわよ、それ、私が食べるから。おじいちゃんは?
おじいちゃん、呼ばなきゃダメじゃない」
「呼んだよ、来ないんだもん」
祐哉の不貞腐れた声に、すまん、と作業場から声が掛かる。
「今、手を洗ってるとこだ、すぐに行く」
やがて、祖父がいつものようにタオルを首にかけたまま入ってきた。
すぐに、日向の髪を見て、伸びたな、と呟いた。
「またその髪留めが活躍する時がきたか」
「うん。これ、すごくきれいなんだもん」
日向は嬉しそうに笑った。
「美久もまた髪、伸ばすのか?」
「うん。伸ばすことにした」
軽く微笑んで答える。
髪を切って、美久は気付いた。
自分が、玄関に置いてある写真の女性に良く似ている事に。
だから、というわけでもないけれど、でも、他に理由も思いつかない。
「美久は? 髪留めはそれでいいのか?」
今、美久がつけているのはごく普通のプラスティックのものだ。
でも、それも、かつて母の使っていたものだった。
「うん、私はこれでいいの。どうせ訓練の時は外すんだし」
「栄治にプレゼントさせればいいさ!」
祐哉がはしゃいだ声を上げる。
「それもいいわね」
美久は笑った。
「うんと高いの、買わせようかな」
「こらこら、よしなさい」
「冗談に決まってるでしょ、おじいちゃんてば」
言いながらも、それも、悪くない、と、美久は思った。
感傷に浸るのは、好きではない。
思い出を失いたくはないけれど、そこに、いつまでも浸っていたいわけでは、ないのだ。
だから、いい。
「…そうね…祐哉。栄ちゃんに私の誕生日に髪留め、って言っといて」
祐哉は可笑しそうに笑い、祖父は苦笑した。
「それでなければ、指輪でもいい、って」
「指輪でも、ってなんだよ!」
祐哉は卓袱台を叩いて笑った。
指輪でも、髪留めでも。
それは、何かの象徴になるだろう。
おそらくは、未来の。
日向の髪に光る、髪留めの中央で揺れる指輪を見る。
銀色のそれに、父は、何を託したのだろう。
何を誓ったのだろう。
聞いておけばよかった。
ふと、美久は思った。
John di ghisinsei http://yokohama.cool.ne.jp/gisinsei1129/
2005/09/25