旋律なく・4
結婚といったものの、一騎は夫婦というものを良く知らなかった。
母親も物心つく前にいなくなっているし、したがって両親がどのような会話を交わしていたものか、その日常がどのようなものであったか、まるで見当がつかない。
想像してみても、あの父ではどうにも想像のしようもなかった。
目の前に自分と同じように座っている剣司を見る。
何故か彼はアルヴィスに行こうとせず、自分に付き合ってくれているのか、向き合って地面に座っている。
「なあ。お前、自分の親父さん、覚えてる?」
「いや。覚えてないよ」
「…そっか…」
では、剣司に聞いても分からないだろう。
「どうしたんだよ」
「うん…あの…なんていうか、総士と結婚する、っていうのが想像付かなくてさ」
総士のことをいろいろ思い出してみる。
命令違反で叱責されたことや、反省室でみっちりと締められたこと。
週番だったのに、それを忘れて帰って、総士から電話でくどくどと説教されたこともあった。
そこまで思い出してから、前に見たドラマを思い出してみる。
そのドラマの中で、夫たる人物は仕事から帰るなり何もせずにソファに体を投げ出し、新聞を広げていた。
そして、妻はその横で料理を作り、アイロンをかけ、夫にビールを出す。
ふむ、と首をひねる。
あの総士が、甲斐甲斐しくご飯を作って自分を待っていたり、自分の服にアイロンをかけていたり、さらにはそんな総士のそばでふんぞり返って新聞を広げる自分というものがどうにも想像がつかない。
「なあ…総士が俺にご飯なんか作ってくれると思う?」
何故、剣司がそこにいるのか分からなかったが、今はありがたい。
こうして話を出来る相手がいるというのは、今の一騎にはありがたかった。
「作るんじゃねえの? 最初は難しいかも、だけどさ」
「それが想像付かなくてさ」
そうかな、と首を傾げる。
「あの総士、だよ?」
「総士だけど、今は可愛い女の子だし。ちょっと胸は育ちが悪いみたいだけど」
「剣司、お前! 見たのか!」
「見えたんだよ!」
怒鳴った一騎に、剣司も怒鳴り返す。
「見えたもんはしょうがねえだろ! お前なんか触ったじゃんか」
「あ…」
かあっと頬に血が上った。
剣司は呆れたように盛大にため息をつく。
「総士だって別に同じだと思うよ、今は。
それにお前の母ちゃんだって父ちゃんの上官だったんだろ?」
「うーん…そうらしいけど。でもなんかかなり違う気がする…大体あの総士が飯、って」
「だったらお前が作ればいいじゃん」
「え」
それこそ、想像もしていなかった。思わず、剣司の顔を見る。
「だからさ」
剣司は繰り返した。
「お前、料理得意だろ。だからお前が作ればいいんだよ。今の時代、女が料理、男が仕事、なんて古いぜ。
女だってみんな仕事してるし」
「…だな」
そうだ。
何故、そこに気がつかなかったのだろう。
「そっか…だったら大丈夫か」
父と総士が入れ替わるだけだ。そう思ったら、何故か一気に納得できてしまった。
「だったらさ」
剣司が真剣な顔をして身を乗り出してくる。
「これからが大変だぜ、一騎。結納、用意しなくちゃ」
「……結納?」
「うん。婚約の時に用意するものだ。それを持って総士のとこ、いくんだ。それで婚約が調う、ってわけさ」
「…へえ…そうなんだ」
剣司はふふん、と胸を張った。
「ああ、モノには順序、ってのがあるんだぜ。俺も咲良の体が良くなったら正式にプロポーズしなくちゃだからさ、勉強したんだ」
「へえ。すごいな」
一騎は素直に関心していた。
「で…その結納、ってどんなもの?」
「あ。うん…えと、カツオ節とか」
「カツオ節?」
何の冗談だろう、と思う。が、剣司は極めて真面目な顔で言っている。
「カツオ節だよ、あとアワビ…と昆布か」
「なんか…食べるものばかり?」
「いいや、あと扇子とか。縁起のいいもの、ってことらしい」
「そっか…カツオ節はまだ何とかなるけど…アワビは高いよな…」
剣司はくい、と指で背後を指した。
「バカだな、ここは海に囲まれてんだぜ? 買わなくたって自分で獲ればいいんだよ」
「あ、なるほど」
海辺には漁船がいくつか繋がれている。
一騎は果たしてあれが運転できるんだろうか、と思った。
「な…漁船って免許とかいるの? 剣司、運転できるのか?」
「…運転ってか…適当に舵回せば動くんじゃねえの?
でなきゃ、誰かに頼んでもいいんじゃないかなあ」
言いながらも、早くも立ち上がる。
「善は急げって言うからな、一騎。行こうぜ」
「え」
戸惑いながらも、剣司に引き摺られるように海辺へ走る。
「あ、いるじゃねえか、漁師さん」
ちょうど漁船の脇で何やら作業中の漁師がいた。網を片付けているらしい。
「アワビだろう? 網で取れるの?」
「アワビだけじゃねえもん、イカとか」
「…イ…イカ?」
「そう、スルメイカ」
「スルメ?」
一騎は眩暈がした。
結納とはなんなのだろう、と真剣に思う。
そのようなものを贈られて、逆に怒られたり
はしないのだろうか。
「一騎!」
砂浜を走っていた一騎は、聞き覚えのある声に振り返った。
「父さん!」
父が砂浜に向ってくるところだった。
「一騎! 近藤君! 何をしてるんだ! 戻ってきなさい!」
「わ、やべえ」
首をすくめた剣司の手を引き、
「…まずいよ…いったん戻ろう」
といった。
まだ、欠席することも届けていなかった。
しまったなあ、と思いつつ、砂浜を上がってゆく。
父は眉尻を吊り上げていた。
「…二人とも、何故無断で休んだ。ここで何をしている」
「あ…あの…」
「ご婚約、おめでとうございます!」
なんと言おう、と口ごもる一騎の横で、剣司は勢い良く頭を下げる。
「あ?」
父は面食らったように剣司を見た。
「総士と一騎、婚約するそうで」
「…近藤君…」
「それで結納の相談してました!」
「……ゆ……結納……?」
「そ、そうなんだ、父さん」
剣司がここまで言ったのだ、自分が黙っているわけにはいかない。
「なんかいろんなものが必要なんだって?
アワビとかカツオ節とか昆布とか…それで…カツオ節とかはうちにあると思うんだ。昆布も出汁昆布でいいならあるし。でもアワビは高いし…だから…獲りに行こうか、って」
「……一騎…お前は本気で言ってるのか?」
父は額を抑え、低い声で呟くように言った。
「出汁昆布だと…? 家にあるカツオ節だと…?
……アワビが高いから獲りに行く、とは…お前は…」
「でも司令、それが一番…」
言い掛けた剣司を、史彦は睨みつける事で黙らせた。
「結納も何も…まず、お前は反省するべきではないのか? アワビなど、獲りに行ってる暇はないだろう」
「え…ものには順序が…」
と、剣司を見る。剣司も頷いた。
父の額に青筋が立ったような気がする。
次の瞬間、一騎は砂浜に叩きつけられていた。
「確かに、ものには順序というものがある。
まず、一騎は大いに反省するべきだ。それが先だ。
アワビの前に反省室だ」
拳をさすりながらの父の言葉に、一騎は頷くしか、なかった。
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2008/10/15