旋律なく・2
アルヴィスの廊下を歩きながら、一騎は自分の両の掌を見つめていた。
こほ、と軽く咳払いをしてポケットに手を入れようとして思い留まった。
「どうしたんだよ?」
横を歩く剣司が不審そうに声を投げる。
「あ…いや…なんでもない…」
剣司の頬は、紫色に変っていた。
「あの…ごめんな」
その痣に触れようとして、慌てて手を引っ込める。
剣司はふん、と軽く鼻を鳴らした。
「…かまわねぇよ…それよか、顔、真っ赤だぞ、一騎」
「え」
自分の顔に手を当てようとして、これまた、出来ずに指を遊ばせる。
剣司の呆れたようなため息が聞こえた。
「何やってんだ、お前」
「あ…や…あの」
再び、掌に視線を落す。
…遠見先生ったらあんな時に出て行っちゃうんだもんなあ…。
責任転嫁して気持ちを落ち着かせようとしたが、空しかった。
総士が帰って来てからすでに半月が過ぎていた。
その間、綿密な検査が行われたらしい。そして、異常は認められず、今日になって父から面会の許可が出た、という話を聞き、まだ呼び止める父の声を無視してアルヴィスに駆けつけたのだ。
剣司も同じだったらしい。
一騎がメディカルの手前に差し掛かった時、ドアが開いて千鶴と弓子がファイルを手に、何かを話しながら出て行くのが見えた。
呼びかけようとしている間にも、二人の姿はエレベーターの中に消えてしまった。
二人ともいないのに入っていいものかどうか、ドアの前で逡巡していると、剣司が走ってきた。
「総士、会っても大丈夫だって? 要先生から電話があって飛んできちまった!」
息を切らせ、一騎の肩を叩いてくる。
「なんでこんなとこでぼうっとしてんだよ? 中、入ろうぜ」
「あ、でも」
その時、すでにドアは開いて、剣司は中に入ってしまっていた。
総士がいるのはメディカルの奥だ、ということは聞かされていた。
「…総士?」
恐る恐る、呼びかける。
「…一騎か…?」
掠れた声がした。間違いなく、総士の声だ。
「総士!」
一騎は嬉しくなって声の聞こえた、カーテンの方に飛び込んでいた。
そこでは、総士が寝巻きのようなものを着て、ベッドに半身を起こしていた。
「…そ…総士…帰って…」
あとは言葉にならなかった。
胸が詰まる。
夢にまで見た、総士が帰って来る、という日が、現実に訪れるなんて。
まさに総士に抱きつこうとしたその瞬間、背後からのオットセイのような泣き声に我にかえってしまった。
「…剣司…」
剣司がおいおいと声を上げて泣いている。しゃくり上げ、むせび泣く声は本当にオットセイのようだ。
「俺…よかっ…そ…」
「剣司…何言ってるのか分かんないよ…」
頭から冷水を浴びせられた気分だ。すっかり冷静になってしまった。
「総士、もう…体の方は大丈夫なのか?」
一騎は泣き続ける剣司は無視して総士を見た。総士は頷き、体をずらせた。ベッドから降りるつもりらしい。
「総士、大丈夫か? 立てるか?」
「ああ…昨日も立てた。大丈夫だ。着替えようと思って」
すらりとした、美しい足が短い検査着の裾から伸びている。
「……?」
何となく違和感を覚え、しかし具体的にどこに、なのかも説明できないままに一騎は黙って見つめていた。
総士の指が検査着の紐にかかる。躊躇いもなく紐を解こうとしている様子を見ていて――― 一騎は違和感の原因を悟った。
とっさに、横にいた剣司を殴り飛ばしていた。
「ってっ…! 何すんだよ!」
「あ…ご、ごめん」
思わず謝っていた。
「だからなんで!」
「いや、あの」
説明のしようもなく混乱しているうちにも総士はばさっと検査着を脱いでいた。
ふっくらとした胸がある。一騎は慌てた。
「総士っ!」
慌てふためき、思わず両手でその胸を覆う。
「一騎、何をする」
非難めいた声を上げたのは総士だった。
「だって総士、胸……!」
「お前こそ手を離せ!」
怒鳴られて、びくっとして手を離す。と、また可愛らしい胸がむき出しになり、一騎は慌て、またも手で覆っていた。
「一騎っ!」
ばしっと衝撃が来る。総士が眦を吊り上げて睨みつけていた。
「手を離せと言っているだろう!」
「だって…」
手を離したら見えてしまうし、と頭の中でいいわけをしながらも、今、総士に平手を食らったのだ、ということに気がついて激しくショックを受けてもいた。
「何をやってるの!」
部屋を震撼させる怒声に全員、凍りついた。弓子が仁王立ちになっていた。
「一騎君! 何てことするの、このスケベ!」
手首を掴まれ、引き離される。
「す…」
投げつけられた言葉にまたもショックを受け、呆然としたまま、部屋から引きずり出されていた。
思えば、総士の着ていた服をまた着せれば良かっただけのことなのに、あまりに衝撃が大きかったのと、何故か剣司に見られたくない、という気持ちが強くて、まったく頭が働かなかった。
挙句、総士には叩かれ、弓子にはスケベと罵られ。
「………」
一騎はまた、掌を見た。総士の胸に触れた、あの柔らかな感触がまだ残っているような気がする。
だから、その手でどこにも触れたくなかったのだ。
「…けど、なんで教えてくれなかったんだろうな、父さん…」
知っていれば、このような馬鹿なことはしなかったのに。
「…もしかしたら、って思うんだけどさぁ…言おうとしたんじゃね?
俺、要先生の話し、途中まで聞いただけで飛び出して来ちゃったんだ。待ってって言われたけど、待ってらんなくて。…お前んとこももしかしたらそうじゃねえの?」
「あ…」
言われてみれば、父から呼び止められたのに、無視して来たのだ。
あの後、弓子から少し聞いたところでは総士は完全な女性の体になっている、ということだった。
――― ように思う。
あまりに衝撃的で、また、そのようなことが起こり得るわけがない、と頭では必死に打ち消していたためか、ろくに話が飲み込めていなかった。
「なあ…総士、本当に…その…女の人、になったのかな」
「お前、胸触ったろうが」
「………」
言われるとどきどきしてくる。顔から火が出そうだった。
「一騎…」
剣司の呆れた声がする。
「大丈夫か?」
「…ああ…でも…眩暈が…」
気付けば血が垂れている。鼻血を出していた。
「おいっ! 大丈夫じゃねぇじゃん!」
通路の横のベンチに投げ出され、鼻の穴にティッシュを押し込まれた。
「少し横になってろ。けどなあ…総士がなあ…」
呟きつつ、剣司は少し顔を赤らめた。
しばらく休んだ後、二人は目的の場所に着いた。
先日、総士が落ちてきた自動販売機が保管されている、ドックの一部だ。
「コーヒーとメロンジュース…ジンジャーエールにリンゴジュース…」
剣司は厳重にロープが張り巡らされた一角にある販売機を見ながら呟いていた。
「…ウーロン茶もないな…。一騎、人間の身体ってそういうので構成されてるんだろうか」
「は?」
ティッシュを詰め直しながら聞き返す。剣司は指でくい、と自販機を指した。
「だってあれの中身が消えてて、代わりに総士、ってことはその消えた中身が総士になったんだってことかも、って。…思ったんだけどな」
「それは…ないと思う…」
「…ん…けどさ」
剣司は腕を組んだ。
「総士、がっかりするだろうな。あいつが好きな微糖のコーヒーはこの自販機しかないもんな」
「…そういえばそうだな。あとは無糖か甘いやつばっかだし」
言いながら、何を馬鹿なことを言い合っているのだろう、と落ち込んでくる。
どうも、衝撃から逃れようと必死らしい。
それにしても、衝撃とはいえ、場合によっては嬉しい方向に転がるかもしれない、と、早くも一騎の頭の中では春爛漫の未来図が描かれようとしていた。
John di ghisinsei http://yokohama.cool.ne.jp/gisinsei1129/
2007/03/19