蝉時雨






 
   振り向きざまにかけられた声。
「暑いから気をつけて」
出掛けにかけられた――― もしかしたら自分がかけたのかも知れない。

 どちらからだろう?





 汗が首筋を伝う。
着ていたTシャツで首を拭う。肌を刺すように汗をかいたあとが痛む。

 一騎はゆっくりと体を起こし、捲り上げたシャツで顔を覆った。
汗に濡れた肌を、明け方の風が冷やしてゆく。
遠くの山から蝉時雨が聞こえてきていた。


――― 暑いから気をつけて。

再び、あの声とともに茶色の流れるような長い髪が目の前をよぎる。
振り向いた薄紫の瞳。わずかに瞬いて頷くように細められる。

そしてそこに交差する自分の影。

すれ違いざまに声をかけたのは自分だったか、それとも、総士の方だったのか、今では思い出せない。


滲む汗をシャツで吸い取りながら、遠くでなく蝉の声が現実のものなのか、夢の続きなのか、分からなくなってきていた。

 あれは、いつのことだったろう?
制服を着ていたから、おそらくアルヴィスの中での出来事だったのだろう。
何度も、良く見ている夢だった。そして、その度にこうして目を覚ます。

――― でも、良くあることだ。

日常の、ごく普通の出来事だった。






 土間を掃く箒の先に、ぼやけたものが映る。
それが靴の先だと気付くのに時間がかかった。
「行って来るぞ」
父の声だ。一騎はようやく顔を上げた。
「ああ……気をつけて」

瞬間、またあの長い髪が目の前を過ぎる。

――― 気をつけて。

「ああ、お前も」
答えた父の声に、またも交差する自分の影。


 暑いから気をつけて。
 ああ、お前も。


良く交わした会話だったのだろう。

いつだったのか、どこで交わしたのか―――
いつでも、どこででも交わしたものだったのだろう。
もう思い出せないほどたくさん。


 この島が急に変ったあの日から、三度目の夏を迎えていた。




 父の姿がぼんやりとした影になって石段に消えてゆく。
石段も、ぼやけた筋にしか見えなかった。

 同化現象でほとんど見えなくなった目も、今ではだいぶ回復している。
それでも、まだアルヴィスに戻ることは出来ないでいる。何よりも、遠見医師は一騎がファフナーに乗るのをひどく恐れていた。
この状態で今一度ファフナーに乗ったら同化現象は一気に進むだろう、と遠見千鶴は心配しているらしい。

「緊急事態となったら乗ってしまうかもしれないわ」
遠見千鶴は史彦にそう洩らした、と人づてに聞いた。そのために、今はアルヴィスに行くことも禁じられていた。


 確かに、千鶴の判断は賢明だったかも知れない。
サイレンが鳴り響くたびに、衝動的に駆け出したくなる自分を思い出して、一騎は苦笑した。






 足先で覚えた勘で石段を降りていた一騎の背に、明るい声が響く。
「一騎くん! お買い物?」
「……遠見……」
目に馴染みの深い赤い髪。良く通る、明るい声や、軽い足音。

「途中まで一緒に行こう、一騎くん」
「あ…でも、遠見も買い物じゃ……」
「うん、一騎くんとこ、行こうと思ってたからいいの」
「うちに? なんで」
「これ」
手にした、丸いものを掲げてみせる。
ぼんやりとではあっても、それがスイカであることはすぐに分かった。
「一騎くんとおじさんに食べてもらおうと思って。
暑いから」

暑いから。

 ――― 暑いから気をつけて ―――
あの言葉は一体。



くらり、と目が回って、一騎は石段の壁に手をついた。
「大丈夫? 一騎くん、気分、悪いの?」
「いや……大丈夫だ、ありがとう」
「大丈夫じゃないと思う……ね、私の手、握って。家まで送っていく」
否やを言わせず、手を握ってくる。

 独特の少し鼻に掛かった話し方、手の平の感触。

一騎はその握りこんでくる、自分より少し小さな手を見た。


同じことがどこかで。



「気をつけて」
遠見真矢の声に総士の面影が重なる。

何度も何度も頭の中で繰り返される言葉、繰り返される映像。


 気をつけて。
そう言ったのは、自分だったのかもしれない。
答えたのは総士の方で。

どちらなのか、もう分からない。



 蝉の鳴く声が頭の中にまで入り込んでくる。
それらは音の渦となって巡り、形を成してゆく。



「じゃ、これ切っておくね」
台所から響く遠見真矢の声の明るさに、変らない島の景色に。

何もかも、本当はなかったことではないか、と思うことがある。


総士がいないのに以前と変らなく過ぎてゆく時間。
そこに安穏と暮らしている自分。

このまま、さらに日は過ぎてゆくのだろうか。


「スイカ、ここでいい?」
冷蔵庫の一画を指差す真矢の影。
「……遠見」
「なに?」
返ってきた、弾んだ声に一騎は問いかけようとした言葉を飲み込んだ。

「なんでもない」


 総士。お前は確かにいたよな。

けれども、島の誰もが彼のことは口にしない。
少なくとも、一騎は聞いたことがなかった。


しかし、彼は確実にいたのだ。夢でもなんでもなく。

 一騎は背中に掛かる真矢の声を無視して外に飛び出した。
ファフナーに乗れば分かる。
あそこなら、総士を感じられる。


「一騎くん! 待って、どこ行くの?
一騎くん!」

真矢の声は日が落ちても止まない蝉時雨に溶け込み、渦の中の一つの音となってゆく。

アルヴィスへの近道は自分が一番良く知っている。
きっと、マークザインは待ってくれているだろう。
総士と一緒に。

そこだけが、今では自分と総士をつなぐ、唯一の場所であるように一騎には思えた。


















 





John di ghisinsei http://yokohama.cool.ne.jp/gisinsei1129/

2007/08/11