細波の下・9
扇を開き、また閉じる。
開くたびにそこに描かれた、鮮やかな牡丹色が広がる。
それは狩谷家の養父から贈られた扇だった。
由起枝は扇を眺め、また閉じるとふっと息を漏らし、庭を眺めた。
最近では狩谷家から、早く公蔵を隠居させろ、と煩く催促が来る。
公蔵を隠居させ、道生を一日も早く藩主の座につけてしまえ、というものだった。
向こうでもやはり、総士の存在を恐れているのだろう。
万が一、ということがある。
由起枝とて早く公蔵を隠居させてしまいたいが、当人がなかなかその気にならぬ。
あまり下手に突付くと逆に怪しまれる。
どうにも出来ずに苛立ちだけが募っていた。
侍女の足音に顔を上げる。
「どうかしたのか?」
「はい、新しく奉公に参ったものが」
「ああ……行儀見習いの娘か」
「はい」
つい先ごろ、出先で公蔵が熱を出してしまったことがあった。その時に世話になった町医者が、遠縁の娘を奉公させたい、といってきた、というのだ。
何を物好きな、と思ったが、公蔵がいいといってしまったのだ、もうこちらに置くしかないだろう。
「娘を連れてきたのか」
「はい」
侍女は手招きした。
庭の隅に入ってきた娘はその場に平伏した。
「顔を見せい」
おずおずと顔を上げる。十五、六であろうか。
可愛らしい、ごく普通の娘だった。
「名はなんと言う」
「お弓と申します」
侍女が答える。由起枝は頷いた。
「良い、分かった。連れてゆけ」
「はい」
特にかける言葉もない。さして興味のある問題でもなかったのだ。
りんに似ているな。
何年か前に死んだ、りんという侍女を思い出していた。
恵とともに殺された、あの女。
……殺された……?
何かが引っかかって、由起枝はしばらく扇を口元に当てて考えていた。
あの二人は……物盗りに殺されたとか。
当時は深く考えもしなかった。道生の動揺が激しく、それを宥めるのに躍起になっていたせいもある。
りんは狩谷家から送り込まれた娘。
確か、りんを連れて来た者の話では腕は立つ娘、ということだった。
そのような者が。
簡単に物盗りなどにやられてしまうものか?
そして、恵の方は水死体で、顔の判別もつかないほどだったというが、体格や着ている物から判断して間違いなく恵だと言っていた。
自分で確かめるのだった。
思わず唇を噛む。
そこへ、先ほど弓を連れてきた侍女が戻ってきた。
「あの娘……素性は調べたであろうな?」
「はい。間違いなくあの遠見という町医者の縁者、上総の方でしばらく暮らしていた由にございます」
「そうか。分かった。下がれ」
「はい」
侍女を下がらせ、一人になって考えてみる。
りんは恵を探っていたのか?
道生の周りをかぎまわっているであろう、皆城の家のものを警戒して送られてきたのだろうと思っていた。
「……分からぬ」
口に出して呟いていた。
りんが誰と繋ぎを取っていたものかも、自分にはまるで知らされてはいないのだから、これ以上は考えても分かるはずもない。
由起枝は考えることをやめた。
昔に起こったことでもあるし、見ていたものがいるわけでもないのだ。
雲の間に切り立った薄緑の山が見え隠れしている。
白馬だった。
夕陽に山肌が光る。
恵には何度見ても見飽きない光景だった。
ここに来て、何年になるだろう。
洋治のことはここに来て最初の冬に、雪を掻き分けてやってきた使いのものに知らされた。
洋治と紅音、その二人が失われたことの衝撃は大きかった。
特に、洋治とはいつかまた夫婦として暮らせる、そう思って何年も耐え忍んできたのだ。
まさか、このような事になっているとは。
あの時に、自分も本当に死んでいればよかった、と嘆き、澄美に諌められたことを、山影を撫でてゆく雲を見つめ、切なく思い出す。
「冬が来る前に屋根を直さねば」
背後の声に振り返る。要澄美が屋根を見上げて呟いていた。
「この冬は雪が深くなりそうじゃと村の長老が言っていた」
「そうか」
夫の誠一郎が唸る。
「村から誰か呼んで直してもらうか」
ここは村はずれにある、古い家屋だった。
自分たちであちこち修理したものの、直せないところなどは村の青年に直してもらった。
澄美に連れてこられた、産婆の西尾行美も以前と同じようにこの村でも産婆を務め、おかげで村人に慕われている。
今、西尾行美は縁側に出て縫い物をしている。
恵の視線に気がついたのか、顔を上げ、皺の深い顔をさらに皺だらけにして笑った。
本来ならば、すぐさま西尾も伊予に連れて行くはずだった。
しかし、公蔵からの、待てという命令にこの村でしばらく過ごすことにしたのだった。
時が来たら、西尾にも証言してもらわなくてはならない。
西尾行美は確かに、月満ちて生まれた子供を取り上げた、といっていた。
「間違いないよ、この年まで何人取り上げたと思ってるんだい。あの子はちゃんと十月たって生まれたんだよ」
行美は断言した。
さらに、その時に由起枝にもらったという反物や茶道具の類もまだ持っていた。
「わしらのようなものには余りに上等すぎて使いようものうての」
といって、からからと笑った。
行美は当時、それがどの家の、どのような身分の婦人なのかも知らなかったという。
要澄美から聞いて、初めて知ったと言っていた。
茶道具などを入れた箱に一つだけ、小さく家紋がついたものがあったのだ。
由起枝も周りの女たちも、出産時で見逃してしまったのかもしれない。
ともあれ、それらは動かぬ証拠となる。
さらには、恵が洋治に託した密書もある。
あれは無事に公蔵の元へ届いたということだった。
しかし、そうした、自分たちの働きが報われる時というのは。
同時に、道生の失脚の時でもあるのだ。
恵は再び山を見た。山は今は茜色に輝いている。
もう、日は落ちようとしていた。
弓の当面の仕事は台所の下働きだった。
薪を運んだり、食材を蔵から持ってきたり、あるいは茶碗を洗ったりという、その程度のものだった。
茶碗ももちろん、お殿様の茶碗を洗えるわけではない。
自分も含め下働きの女たちの使うものを洗っている。
それだけのことでも、この屋敷の者たちがつましい生活をしていることは弓にも分かった。
贅沢は好まれないというのは本当だったんだ。
茶道具なども高価なものを持っているらしいが、どうも買ったわけでもないようだった。
おそらくは贈り物が多いのだろう。
「お弓、何をしているの。蔵に行きますよ」
「あ、はい」
慌てて年配の下女のあとを追う。
裏庭にある、大きな蔵にはある程度保存の利く食材などが入れてある。
小者が下女に言われた食材を運び出す。
「大根は五本でようございますか」
「しいたけは積んだか」
「へい」
積み込まれた食材の少なさに、弓はいつも驚かされる。
実際、ここで初めて食事をした時には驚いてしばらく膳を眺めていたものだった。
雑穀の混じった飯、汁物とめざしと、少しばかりの香の物だけだったのだ。
お殿様はきっと豪華なんだ。
そう思った。が、他の女たちから殿様まで全部同じだと聞かされて余計に驚いた。
真壁のおじさまの所の方が何倍か豪華だわ。
内心、ため息をついたものだった。
参勤交代や寺社の修繕など幕府から言いつけらればいつでも応えねばならない。
そのために外様大名たちは出来るだけ普段の出費を抑えているとは聞いてはいたが、ここまでとは思っていなかった。
「おい、大根が落ちたぞ」
「え?」
荷車を押していた弓は後ろからの声に振り返った。
青年が大根を手に、立っている。腰の刀を見て、ここに詰めている藩士だろうか、と思った。
「あ、すみません、ありがとうございます」
礼を言って受け取ろうとして、年配の下女に頭を押さえつけられた。
「申し訳ございません、若様……!」
下女は平伏し、弓にも座れ、と目で促す。
弓は慌てた。
「え? あの」
「何、構わん。俺の方がここに来ちゃいけないことになってるんだ。いいから立て」
立てと言われて立てるものでもなく、弓はただ畏まって座っていた。
「お前は? 見ない顔だな」
「最近入りました者です。お弓と申します」
弓の代わりに下女の方が答えていた。
「ほう……ゆみ、か。お前、お手玉は出来るか?」
「……お手玉、でございますか。はい、出来まする」
「おお、そうか。では後で遊びに来い」
そして、隣の女に向って、
「いいな、後で連れてこいよ」
とわざわざ念を押すと、くるりときびすを返し、またぶらぶらと歩いてゆく。
弓はぽかんとしていた。
自分の役目は分かっていた。分かっていたが、当人がいきなり目の前に、しかも、このような形で現れるとは思っても見なかったのだ。
無論、顔を知っていたわけでもない。遠目でちらりと見たことがある程度で、その時は目鼻の区別もつかなかったのだ。
「あの方が……若様……?」
ぼんやりと座ったまま呟く。年配の下女は困惑したように首を振った。
「やれやれ。変わり者の若様だからね。なんでかね、お手玉がお好きでね」
「お手玉が」
再び荷車を押しながら繰り返す。前を行く女は頷いた。
「お前、気に入られたんじゃないかい? うまく行っておそばに上がれるようになるといいね」
「そんなご冗談を」
最初からそれが狙いではあった。
あまりにうまく運びすぎて、逆に焦っていた。
背中を冷たいものが伝ってゆく。
うまくやらねば。
これ以上に、慎重に立ち回らねば、と弓は気を引き締めていた。
John di ghisinsei http://yokohama.cool.ne.jp/gisinsei1129/
2008/11/11