細波の下・8
川を渡る涼しい風に、柳の細い枝が揺れている。
あたりに団子屋でもあるのだろう、そこここで娘たちが団子を手に笑いさざめいている。
道生はその様子を眺めながら、ぶらぶらと橋を渡り、どこへ行くともなくただ歩いていた。
背後に視線を感じる。
後ろにいるのは大きな行李を担いだ旅人らしき男、子供の手を引いた若い女、そして―――
道生は立ち止まった。
そのまま、もと来た道を真っ直ぐに帰ってゆく。
尾行していたものは慌てるだろう。誰があとをつけていたのかということには、興味はない。
ただ、このまま帰ってしまえば相手は気付かれたのかどうかも分からずに混乱するだろう。
知らないと思うてか。馬鹿者が。
以前から、自分を取り巻く奇妙な視線があった。
思えば、子供の頃からかもしれない。
ただ、当時は自分が感じているそれを、どう言い表して良いのかわからなかったのだ。
おそらくは父の手の者だろうな。
自分が父から疎まれているのは幼い頃から分かっていて、当時はそれがただ、悲しかった。
今にして、何となくではあるが、自分はあの父の子供ではないのだろう、と思っている。
ただの勘に過ぎないが、おそらく外れてはいないだろうと思う。
橋から降りて、そのまま街道を行こうとして、気が変わった。
橋のたもとから川原へ行く、細い道がある。道生はその歩きにくい坂を下りていった。
草の間に腰を下ろし、川面を眺める。
乳母が行きていれば、もっともっと、いろいろなことを相談できただろう。
当時、道生にとって信頼できるものといえば、乳母だけだったのだ。母すら、信頼できなかった。
今も、していない。
あの日のことは、今でもよく覚えている。
帰りの遅い恵とりんを探しに行った中間が血相を変えて戻ってきたのは、夕方近くになってからだった。
物盗りに襲われたらしい、という。
りんは無残に切り殺され、恵は近くの川で見つかった。
「……」
思い出して、つい、道生は歯を食いしばっていた。
草を千切り、噛み締める。苦い味が口の中に広がった。
会わせてくれ、と泣いてせがんでも聞き入れられなかった。
確かに、その時の女中たちや中間たちの判断は正しかったのだろう、と思う。
それでも、いつかは恵は帰って来るのだ、と信じて待っていたのだ。
くわえていた草を吐き出し、立ち上がる。
川の向こう、はるか遠くに小さく船が見えた。
ふと、伊予の山を思い出した。
今頃はあの国は暑いのだろうな。
船をしばし眺め、歩き出していた。
伊予の国の海から少し上がったところにある皆城家の屋敷の奥、家臣も限られた者しか入れない場所では子供たちの笑い声が響いていた。
細い竹が飛んでゆく。それを追いかける子供たちがいる。
わっと声を上げて一人が飛びついた。
剣司だった。
「俺が取った! 今度は俺が飛ばす」
くるくると竹を回し、ひょい、と投げる。それをまた、何人かが追いかける。
それだけのことに、皆、熱中していた。
常にここには何人かの子供たちがいた。
本来であれば総士一人のための屋敷であったが、同じ年頃の子供たち、それも、信頼の厚い家臣の子が選ばれてここにいる。
近藤彩乃の息子、剣司、小楯保の息子、衛もそうだった。
彼らはみな、総士の『影』だった。
総士が二歳になった春、鞘は一女を生み、その後間もなく亡くなっていた。
公蔵の嘆き悲しむこと、尋常ではなかった。
そのためもあるのだろう。
鞘の死は、単に産後の肥立ちが悪かったということではなく、毒殺ということもあったのではないかと疑っている。
以来、総士とその妹、乙姫の身辺に非常に神経質になっていた。
一騎もまた、影ではないがそれに近い。
今はまだ、その役目は与えられていないが、近い将来、総士の身辺を固める役を受けることになる。
剣司や衛も同じように総士を守るべく、幼い頃から剣術や武術を叩き込まれていた。
服装も似たようなものを着ている。
もともと、華美は好まない公蔵のこととて、総士は今も綿のさっぱりした小袖に袴姿で、とても藩主の息子には見えなかった。
「一騎、今度、もう一つ作ってくれないか」
総士は袖で汗を拭った。
「乙姫にも見せてやりたい」
「分かった。あ、乙姫様には人形を作ってきたんだ」
「人形?」
「うん」
そういってごそごそと懐を探る。
「あれ……さっき、転んだからかな、折れてる」
細く削った木の先に松ぼっくりを刺したものを組み合わせて作った、簡単なものだった。
「ほお」
総士は目を輝かせた。
「壊れてなんぞいない、本当に一騎は器用じゃ。乙姫に見せてくる」
嬉しそうに、廊下をぱたぱたと走ってゆく。
後に続いた剣司を追って、一騎や衛も走っていった。
奥の部屋では乙姫が部屋の中央に座っていた。
ちょこんと座ったその姿は、人形のように愛らしく、美しい。
すぐ横に蔵前果林がいる。
総士には乳兄弟に当たり、女でありながら、やはり総士の影を勤めている。
普段はこうして乙姫の世話をしているが、何かがあった時に総士として表に出るのは果林だった。
「何か」
果林は立ち上がり、部屋の手前で総士を押し留めた。
「何事ですか」
「竹とんぼを見せたいだけじゃ。あと、この人形を」
「……竹とんぼ?」
「果林も見たことはないであろう。飛ぶのじゃ。見事だぞ」
言うなり、庭に下りて飛ばせて見せる。
乙姫は目を輝かせ、歓声を上げた。
「どのような仕掛けになっておる」
果林は興味深げに竹とんぼをひっくり返したり、回してみたりしている。
一騎は竹とんぼの軸を指した。
「ここを持って回すのですよ。簡単です」
「このようなものが作れるのか。器用じゃな」
「総士と同じことを言いなさる」
剣司は声を上げて笑った。
「あとこの人形を。乙姫様に」
「松ぼっくりじゃな」
乙姫は嬉しそうに声を上げた。
「これは馬か?」
「そうですよ」
一騎は嬉しくなって何度も頷いた。
「お気に召したのでしたらまた作ってまいりましょう。
今度は違うものを」
「うん」
乙姫は元気良く頷いた。
その時、ヒューイ、と、高く鳶の鳴くような声がした。
「あ」
一騎は森を見た。
ややあって、また、聞こえた。
「もう帰らなくてはなりません。また今度、必ず作ってまいります」
「きっとだぞ」
「はい」
一騎は大きく頷き、その場を辞した。
裏口から出て、森に差し掛かる辺りで、一騎は指を口に含み、ひゅう、と鳴らした。
「遅かったじゃないか」
すぐそばで聞こえた声にぎょっとして飛びのく。
ツルの絡んだ大きな木の枝の上に僚がいた。
「すまぬ。遊びすぎてしまった」
「早く戻れ。溝口様がお怒りだ」
言うなり、その姿は消えた。一騎は慌ててあとを追った。
森の中を、滑るように駆け抜ける僚のあとを追いながら、一騎はしまったなあ、と反省していた。
屋敷で遊ぶのが楽しくてつい、長居をしてしまっていた。
それでも、そこはやはり子供である。
受けるであろう叱責のことよりも、次に行く時はどのようなものを作ろうかと、そればかりを考えていた。
このような時は、ずっと続くかのように思っていた。
公蔵と話をした翌日、史彦は店にも出ず、自室に篭り、部屋から見える小さな中庭を眺めていた。
皮肉なものだ、と思う。
道生廃嫡に向けて動いているはずの自分が、彼を落ち着かせるために、良き藩主とするために知恵を絞らねばならぬ。
道生をこのままにしておいて、不行跡の咎で藩を潰してしまっては元も子もない。
しかし、名君になってしまっても困る。
匙加減が難しいな。
事情を知る家臣たちの中にも、道生を押す声は高まりつつある。
このままで良いではないか、というのだ。
道生ぎみは良い藩主におなりになる。
なんと言っても総士殿はまだ幼い。今のままで良いのでは。
こうした囁きを耳にするたび、この者たち正気か、と思わざるを得ない。
道生が藩主になれば、すぐさま狩谷家が乗り込んでくるだろう。何やかやと口実をつけ、いずれ皆城の地は寸分残さず吸収されてしまうだろう。
暗くなってゆく庭を眺めながら、無精ひげが生えてしまった顎を撫でる。
しかし、今は落ち着いてもらわねば。
紅音が死んだあの年―――
戦国以来の名家だった加藤、池田両家が続けて改易となった。
そして、つい先ごろでは同じ四国の藩でもやはり、跡目を巡っての騒動が起こっている。
将軍家の信頼の厚い家だった事が幸いし、どうにか断絶は免れたものの、腹を切らされた者は多い。
将軍家に近い家でさえそうだ。
関が原で家康に逆らい、大身を削られて細々と生き残った毛利家を、将軍家は目の仇にしている。
その流れを汲むこの家が、少しの騒動でも見逃してもらえるとは到底、思えなかった。
あと少し、だな。
総士が元服する頃まで、堪えねばならない。
「旦那様、灯を」
灯を点けようとする手塚を押し留める。
「手塚」
「はい」
「風邪を引いたようだ。先生を呼んできてくれないか。
誰か…丁稚でも走らせろ」
これだけで、手塚は誰を指しているのか察した。
「は。かしこまりました」
やがて。
やってきた千鶴と、史彦は夜明け頃まで話し続けていた。
John di ghisinsei http://yokohama.cool.ne.jp/gisinsei1129/
2008/11/05