細波の下・7
木々の緑の中、涼やかな音を立てて水が流れ落ちる。
川底の石の間に、魚の影が見え隠れする。
木漏れ日の中でちらちら光る川面に、一瞬、大きな影がよぎる。驚いた魚が逃げる間もなかった。
音もなく鋭い銛に突きたてられ、水を撒き散らしながら引き上げられていた。
その銛を手にした少年は満足そうに魚を見、腰のざるに無造作に放ると川原へ上がった。
石で囲っただけの簡単な炉の横に魚を刺した長い串を突き立てる。
あとは焼けるのを待つだけだ。
と、少年の目が鋭く光る。
背後の森から僅かな、小枝を踏む音がしたのを彼の耳は逃さなかった。
少年はそのまま、背後の木の上に飛び上がった。
大きく張った枝に身を伏せ、息を殺す。
やがて、そこに長い髪を背後でひとまとめにした少年が現れた。
炉を覗き込み、辺りを見回す。
「一騎、いるんだろう?」
木の上の少年は、小さく息を吐いて枝から飛び降りた。
「総士か。誰かと思った」
「魚を焼いてたのか」
「うん。取り立てだからうまいぞ。総士も食うか?」
「いいのか?」
「いいよ」
少年は嬉しそうな笑みを見せた。
「もっともお屋敷の食事にはかなわないと思うけど」
そう言ってすでにこんがりと焼けた魚を手渡す。
総士と呼ばれた童形の少年はふう、と息を吹きかけた。
「館ではこのように熱い物は食べたことがない。冷えものばかりだ」
「……そっか」
少年は納得したように頷き、新たに獲って来た魚の串を回した。
少年は真壁史彦の一子、一騎だった。
あの襲撃から後。
溝口はもらい乳などしながら旅を続けた。
尾行されていることも考えられるために、ある時は農家にしばらく滞在し、またある時は乞食たちの中に混じったりしながら、回り道をして伊予までたどり着いた。
そして忍び仲間たちの伝を辿って公蔵の侍女、近藤彩乃が子を生んだばかりと聞いて、ともに育ててもらうことにしたのだった。
歳が同じこともあり、また、特別に公蔵の信の厚さもあって、彩乃の息子、剣司とともに総士の遊び友達に選ばれている。
もっとも、忍びとしての修行の方がきつく、遊ぶ時間など、ほとんどないといってよい。
ほとんど物心つく前から修行をしていたようなものだったから、今、八歳にしてすでに一人で生きていくだけのすべは身につけていた。
総士は本来であれば江戸にいなければならないが、生来の体の弱さもあり、またすでに嗣子として道生が江戸にいることもあって、まだ国元に留まることを許されている。
しかし、それももう短いことであろうことはうすうす、聞かされてもいることであった。
今、江戸にいる公蔵が国元に戻る頃には、江戸に行かねばならないだろう。
焼きたての魚をうまそうに頬張っていた総士は、突然に肩を押さえられて抗議の声を上げようとした。
「しっ!」
耳元で一騎が囁く。その瞳は細く光っていた。
一瞬、総士は何が起こったのか、分からなかった。
一騎が大きく動いたのは見えた。次いで目に入ったのは川原の砂利だった。
かん! と澄んだ音が響く。
一騎の手には短刀が握られていた。
続けて空気が唸る。一騎の腕が一瞬、閃いたように見えた。
乾いた音を立てて何かが短刀に当たって跳ね返ったのが分かった。
棒状の細い剣だった。それが木の枝に深々と刺さっている。
「兄者であろう」
一騎は川の向こうに向って叫んだ。とたんに、弾けるような笑い声が響く。
森から静かに影が滑り出てきた。将陵僚だった。
同じ仲間で、一騎たちにとっては兄のような存在なので、兄者、と呼んでいる。
「兄者の投げる剣はすぐに分かる」
「なかなかやるようになった」
川に出た石の上を器用に飛びながら笑う。
続いて、溝口も出てきて、一騎は驚いた。
「溝口様まで」
溝口は楽しそうに笑いながら、これまた飛ぶように滑らかに川面を渡ってきた。
「若ぎみ、いけませんな、このようなところにお一人で」
総士はふい、と横を向いてしまった。
「勉強はもう飽きた」
「さようで。しかし、供の一人もつけずに……危ないですぞ」
「一騎がいるから大丈夫だ」
その一騎はせっかくの魚が川原に転がされてしまったことを怒っていた。
「兄者。若ぎみに差し上げた魚になんということをなさる」
僚は明るく笑った。
「なんの。すぐに新しいものを獲ればよい」
言うなり、川に向う。
しばし、その場で息を殺している。
完全に気配を殺し、動かないその影があたりの景色に溶け込みそうなほどになった頃。
ひょい、と軽く動かしたかに見えただけの手に、魚を持っていた。
「ほう。さすがじゃな」
総士は感心したように魚を見つめている。
「それは何か…術を使うのか?」
「いいえ」
僚は総士に微笑んで見せた。
「ただ自分の影をあたりの景色に馴染ませるだけですよ。そのうち、魚も油断します。その時を狙うのです」
「……そんなものか。私にも出来るか?」
溝口が楽しそうに笑った。
「若君はそのようなことはなさらずともよいのですよ。
必要とあればいつでも獲ってまいります」
「そうか。だが自分で獲るというのも面白そうだ」
僚は一騎に魚を投げ、一騎はそれを串に刺して新たに作り直した炉に立てた。
「溝口様、俺、行ってきましょうか」
火の具合を見ながら溝口に問いかける。先ほどの溝口の言葉に、一騎は少し不安を覚えていた。
「お屋敷に、若様がこちらにいらっしゃることをお伝えしなくてよろしいでしょうか」
「おお。そうだな。ひとっ走り行って来い」
「はい」
一騎は駆け出していた。
屋敷までは、一騎の足ならば本当にひとっ走りと言えた。が、総士ならどれほどにかかったろう。
ここは、それほどに深い山の中であった。
猫の額ほどの領土のどこにこのような場所があると思えるほどに、山深く、余人の入らない地であり、故に、忍びの修行にはもってこいの場所であるとも言えた。
その山間の中に埋もれるように一騎たちの暮らす集落はあった。
道などはない。皆、獣道を走り、わずかばかりの田畑を作って暮らしている。
一騎は父とも、まだ数えるほどしか顔をあわせていない。
それでも、一騎は今の暮らしを楽しんでいた。
自らに課せられた役目や定めといったものを理解出来るようにはなっていた。いくら幼くとも、徹底的にそれは頭に叩き込まれる。
ただ、それの重さを理解するにはまだ時間が必要だった。
江戸の上屋敷では、公蔵が苦虫を噛み潰したような顔で家臣からの報告を聞いていた。
家臣の方はそのあまりの渋面に、自分の方に何か落ち度でも、と思ったのだろう。
目は落ち着かず、しどろもどろに報告を終え、額を汗で光らせながら公蔵の方を伺った。
「よい、分かった」
公蔵は口を開いた。
「漁民どもも困り果てているのであろう。これまでより漁場周りの警備を増やせ。争いにならぬよう、気を配れ」
「はっ」
家臣は安堵したようにがば、と平伏すと退出していった。
「これ」
公蔵は脇に控えている道生を睨みつけた。
「身を入れて聞かんか」
「聞いておりまする」
憮然とした声が返って来る。
ふぅ、とため息をつく。
一応、大人しくはしている。しかし、上辺だけ取り繕っていることくらい、分からぬ公蔵ではなかった。
仮にも嗣子として立てた以上、家臣たちの目もあり、政務を教えるためにこうして脇に控えさせているのだが―――
政務がある時以外は侍女と戯れていたり、町をふらついたりしているらしい。
京から輿入れした姫の下へもまったく通っている様子はない。
そこで姫が怒るなら分かるのだが、この姫の方も毎日、琴など爪弾いたり、庭を歩いたりとのんきに暮らしている。退屈している様子も傷ついている様子もない。
由起枝一人が姫に恥をかかせたの何のと怒っている有様なのだ。
どうしたものか。
考えつつ、庭を歩いていると、中間が駆け寄ってきた。
「どうした」
「は。真壁様がお見えです」
「おお…ちょうど良い、通せ」
「は」
「酒の用意もさせておけ、ちょと話がしたい」
「かしこまりました」
ちょうど良かった。
僅かに安堵して部屋に上がる。
史彦と話せば何か案が浮かぶかもしれなかった。
廊下で史彦が平伏している。
公蔵は扇で中に促した。
「はよ、そのようなところにおらずに早う、中に入れ。
お前に相談したいことがあってな」
ここにいる家臣たちは真壁史彦がどのような人物であるかをよく知っている。
廊下に警備の者だけを残すと立ち去っていった。
「さて」
人がいなくなると公蔵は切り出した。
「……道生がまだ姫の下へも行っておらぬようじゃ」
「…ほ。それは」
少し驚いたように史彦は盃から顔を上げた。
「おなごは嫌いではないようだ。侍女たちには構わず手を出す。それも一人二人ではない。
その上に」
持っていた扇を開き、ぱちん、とまた閉じる。
「町に出るのは良いが酔って喧嘩をしたことも」
「なるほど」
「このままでは総士に譲るどころではない、その前に不行跡で藩を潰されてしまう」
「確かに」
「……落ち着かせるにはどうしたら良いかな」
史彦は唸り、天井を見つめた。
「…女性しかないでしょうな」
「女…か?」
不審そうに眉を寄せる公蔵へ、史彦は頷いて見せた。
「女性にもよる。心当たりがないでもない。探してみましょう。心優しい女性であれば落ち着かせてくれるでしょう」
「なるほど。落ち着かせる、か」
腕を組み、ふむふむ、と頷く。
しばらくして、ようやっと納得が行ったらしい。
「ふむ。女か」
繰り返した。
「では任せるとするか。……時に真壁」
「はい?」
「せがれには会うたか」
史彦は盃を持ったまま軽く頷いた。
「まだあれが四つか五つの頃…だったか。会い申した。
溝口が良く仕込んでくれているようで」
「お前よりは紅音殿に似ておるな」
「はい」
「江戸へ」
公蔵は肴を摘みながら言った。
「そのうち、総士とともに江戸に連れてこようぞ」
史彦の返事はなかった。
ただ、黙って盃を口に運んでいた。
John di ghisinsei http://yokohama.cool.ne.jp/gisinsei1129/
2008/11/04