細波の下・6
神社の屋根が朝日に光る。
手を合わせながら、恵はそっと隣のりんの様子を伺った。
手を合わせて俯いていたりんが顔を上げるのに合わせて、
「さ。参りましょう」
と促した。
「今日も暑くなるのですね」
りんは光る屋根を眩しそうに振り仰いだ。
「そうですね。若様をどこか涼しいところにお連れしたいけれど」
何気なく呟いて、恵ははっとした。
道生さまをお一人にしてしまう。
やはり長く側仕えていれば愛しい。
離れがたいものがある。まして由起枝の元に残すのだ。
この先、どうなるのであろう。
勤めは果たしたけれど、その結果が道生に不幸をもたらすものであろうことが、恵には辛かった。
道生様。許してくだされ。
一瞬、目を閉じて胸の内で道生に頭を下げていた。
「恵さま?」
訝しそうな声に顔を上げる。
「何でもありませんよ。さあ。暑くならないうちに戻りましょう」
「はい」
りんが頷いた時。
いきなり、木陰から薄汚い浪人崩れらしい男たちが現れた。
「危ない!」
りんは叫び、懐刀を構えた。
「何者です!」
浪人たちは答えず、真っ直ぐにりんに切りかかって行った。
りんはひらり、と飛び、刀をかわす。
その身のこなしはやはり常人のものではない。
恵は悲鳴を上げながらおろおろと走り回り、刀を手に浪人の方にかかっていこうとしたりんに思い切り体当たりをした。
「あっ」
眼を見開き、恵を睨む。
「…やはり…おのれ…」
呻くような声を上げる。恵はりんの腹部に突き立てていた小柄を回転させ、引き抜いた。
崩れ落ちたりんを、浪人の一人がさらに袈裟懸けに切り裂いた。
りん。許せ。
僅かの間とはいえ、共に道生に仕えた仲である。心から憎かろうはずもなかった。
「恵殿、さ、こちらへ」
浪人の一人は千鶴であった。
見事に浪人の姿になりきっている。声音まで変わっていた。
「用意は整っています。急いで」
恵は頷き、神社脇のこんもりとした藪に入っていった。
そこには布をかけられた戸板が置いてあった。
恵は着物を脱ぎ捨て、千鶴が用意してくれたものに着替えた。
戸板の方から異臭がする。
「昨夜上がったものです」
それは、女の水死体だった。恵と体格、年齢ともに似通っている。
千鶴は仕事柄、こうしたこともやりやすい立場にいた。
「さあ急がねば」
吐き気を催して顔を背けた恵には構わず、千鶴は顔色一つ変えず、てきぱきと女に恵が脱ぎ捨てた着物を着せて行く。
「そこの川に沈めてこい。浮かぬようにな」
「はい」
浪人たちに化けていた千鶴配下の者たちは戸板を担いで裏の川に持っていった。
「あとは私が。あなたは一刻も早く江戸から離れ、信濃に向うように」
「はい」
恵は頷いた。その声に迷いが見えたのだろう。
千鶴は初めて微笑んだ。
「大丈夫ですよ、量平が案内します」
同じように浪人姿から行商人にすばやく着替えた量平が小さく頭を下げる。
行商人に化けた恵の前に、千鶴は片膝をついた。
「改めて申します。あなたはすでに亡くなられたお方。
こちらからの指図なしに江戸に来てはならぬ。
いっそ、ここのことは忘れなされ」
「……そうですね……」
忘れた方がいいのだろう。
神社から、こまこまとした街並みが見える。
洋治とも、役目が終わればやがてともに暮らせるようになるのだろう。
まだ見たことのない、冬には雪で覆われるという、信濃の山で、野菜を作り、田を耕して暮らすようになるのだろう。
恵は街並みに向って僅かに頭を下げ、量平とともに歩き出した。
江戸に戻った史彦は、店に入るなり手塚に袖を引かれた。
「旦那様、大変でございます」
「どうした」
手塚の顔は蒼ざめ、唇は震えている。
「何があったというのだ」
「……お……奥方様が……」
「紅音が?」
手塚はかくかくと壊れた人形のように首を動かした。
手塚は店の奥、誰も入ってはこない史彦の居室へ行くと、細く巻かれた紙を取り出した。
「使いが参りました。もう十日も前になりましょうか」
「……」
さっと開いてみる。
名はないが、その文字は溝口のものだった。
暗号を使って、簡単に事の顛末が記してあった。
「千鶴様にもすぐお知らせいたしました。申し訳ありませぬ」
手を付いた手塚に、史彦は首を振った。
この場合は致し方はないだろう。
「それで。千鶴はどうした。春日井は討ったのだろうな」
はい、と頷く。
「…紅音の…その……遺体は」
もし見つかったら、そしてこの店の者だということが分かったら大変なことになる。
しかし、そのあたりも千鶴は抜かりがなかった。
手塚は膝の上で拳を握った。
「……奥方様は……畑の中で息絶えておられました……その畑の脇に深く穴を掘りまして」
「埋めたのか」
「……」
頷く手塚の拳の上に、涙が零れ落ちた。
「千鶴さまは紅音様はまだお産から一年もたっておらず……それで体が思うように動かなかったのでは、と悔しがっておられました」
「……」
紅音はその腕にかけては誰にも引けは取らなかった。
おそらく、多勢に無勢、しかも一騎たちを逃すために少しでも長くその場に敵を釘付けにしようとしたのだろう。
溝口はどうやら追っ手から逃れた辺りで文を書き、使いを出したらしい。
どこに行く、とも書いていなかった。
ただ、一騎は命に代えても守る、とだけあった。
史彦はしばし、目を閉じていた。
溝口のことだ、やるといったらやってくれるだろう。
行く先を書いてないのも、おそらく万一のことを考えてのことであろう。
こういうことは知っていない方が良いこともある。
頼むぞ、溝口。
史彦は祈るような思いで文を睨んでいた。
「それで」
ようやく顔を上げる。
「他に千鶴から連絡があったであろう」
「は」
頷いて顔を寄せてきた。
「例の者でございます。突き止め、連れ去った、と」
それだけで、史彦はすべて理解した。
「うむ」
深く頷く。
手塚が立ち去った後も、史彦は動かず、部屋の中央に座っていた。
国元の若も危ういかも知れぬ。
紅音も一騎のことも気に掛かる。
紅音が埋められている場所に行ってみたかった。が、今はそれもかなわぬ。
恵も気落ちするであろうな。
まだ洋治のことは知らないはずだ。知ったらどれほど悲しむだろう。
これもお役目ゆえ。許せ。
町に刻を知らせる鐘の音が響き渡る。
今が堪え時だ。
国元の公蔵に言った言葉を自らに繰り返す。
いつか、時は来る。
その時が来るのを、待つしかなかった。
John di ghisinsei http://yokohama.cool.ne.jp/gisinsei1129/
2008/11/03