細波の下・5






 新しい襁褓に包まれた赤ん坊は気持ち良さそうに、だあ、と笑った。

「大きゅうなられましたな」
手塚が目を細める。紅音は嬉しそうに赤子を抱き上げた。
「抱いてみるか?」
「いえいえ」
慌てたように手塚はぶんぶんと首を振った。
「そのように小さなお子は抱いたことなどありませぬゆえ…万一があっては」
紅音はほほ、と声を上げて笑った。
「それほどのことはありませんよ。
溝口、ちょっと頼みます」
「はい」
横に控えていた溝口に赤ん坊を預け、手塚に向き直る。
「……報告があったのですね」
「はい」
手塚は口元を引き締め、座りなおした。

ここは八王子の奥、森の間にひっそりと隠れるように数軒が軒を並べるだけの、小さな集落だった。
目の前は畑と、わずかばかりの田んぼがある。
集落の外れの小さな家を、溝口は何年か前に借り受け、繋ぎのための宿としていた。

周辺の住人には、紅音は妹ということにしてある。
その小さな家で、溝口は傘など張りながら紅音を警護していた。


初夏の蒸し暑さもここではそれほどでもなく、今も涼しい風が板の間に吹き渡る。

番頭の手塚は堂馬から連絡を受け、ここまで走り通しでやってきたのだった。


「赤坂の西尾。そう言ったのですね」
「はい、恵さまは確かにそのように仰っていたと堂馬が」

紅音の目が光る。
「産婆ですね。道生君を取り上げた」
「はい」
「そうか……突き止めたか」


由起枝の出産については、外出先で急に産気づいて、と言われていて、赤子の詳しい状態まで知る者は少なかった。
付き添っていたのは僅かな侍女だけ、それも由起枝の周辺に常に付き従っているものばかりだったのだ。

そのあたりの事情について、以前から恵は探っていた。
もし、道生を取り上げた産婆がいればその時の赤子がどのような状態で生まれたのか分かるだろう。
由起枝の言葉どおりに月足らずで生まれた子供であれば経験豊富な産婆ならばすぐに分かるに違いなかった。

その産婆の存在が突き止められたからには、一刻も早く連れ出さねばならない。

「誰をやるが良いか……」
紅音は目を閉じたまま、一人呟いた。

もしも産婆の存在に気づいたことを気付かれれば、向こうはすぐさま、産婆の口を塞ぎにかかるだろう。
それをさせてはならない。
こちらにとって重要な証人にもなり得る者なのだ。

やがて、紅音は静かに目を開けた。
「澄美に連絡を」
「……要澄美、ですね」
「今はまだ江戸にいるであろう。そして……伊予はまずいな」
「まずい、ですか」
手塚はきょとん、と丸い目を向けた。
「殿のところにお連れした方が」
「いや」
紅音はゆっくりと首を振った。
「かえって危ない……そうじゃ、信濃の方に宿があったの」
溝口の方を振り返る。溝口は頷いた。
「は。平井村の方ですな。誠一郎殿が守っておるはず」
「澄美の夫か。ならばなおさら好都合だな」
「ではそこへ」
「あとは千鶴殿に任せる」
「恵の方は…堂馬はどのように?」
「は、それは二人共々堂馬が」
紅音は深く頷いた。

「それで――― 春日井は?」
「はい、洋治から密書を受け取ったらそのまま…」
言い掛け、紅音の方を見た。
「ただ…」
「なんだ?」
「旦那様が今はあまり派手に動くなと」
紅音は頷いた。
「聞いている。だから……良いか、間違っても皆城様のお屋敷に近づかないように。これだけは守れ」
「はい」
当たり前のことと思っていても、紅音は改めて念を押した。
以前から何かと出入りのある商人でも、今は危険だった。

手塚はひっそりとまた江戸の店まで駆け戻っていった。




 洋治はあくまでも慎重に老人のごとく歩いていた。
つい先ほどまで、何者かが尾行する気配があった。
いくつか路地を行くうちに、その気配も途絶えた――― ように思う。


そっと懐の匂い袋を握り締める。それは、恵が落としたものだった。


恵はそれを落とし、洋治は素早く同じものとすり替えて連れの娘に渡したのだ。
ことの始めから見られていても気付かれぬように―――

匂い袋の中には小さく小さくたたまれた密書が入っている。
長い年月の間に由起枝の信を受け、身の回りを任された恵が探り出した、由起枝の不義の証しともなるものだった。

もっとも、洋治はその中身を知っているわけではなかった。ただ、そのようなものだ、ということを知っているだけでしかない。




自分の家が近づいてきた辺りで、洋治は道を変えた。
少しでもつけられた可能性がある以上、家に戻るのは危険だった。
当初の予定では一度、家に戻り、それから庭師として春日井の家に、と思っていたのだ。


 さて。どうするか。

春日井の家はもう、すぐそこだった。

道端の、積み上がった木桶の間から質屋を営む春日井夫婦の家の裏口が見える。

草履を直す振りをしながらしばし、辺りを伺った。

浪人姿の男がそこから出てくるところだった。
裏口から出てくるのは驚くには当たらない。浪人たちの多くは裏口を使っていた。
草履を軽く叩き、よっこらしょ、と声を上げて立ち上がる。

あくまでも老人の態で洋治は春日井の家に向った。
すれ違いざまに、浪人に頭を下げる。僅かにこちらを見た浪人の顔に、覚えがあるような気がした。

しかし、あのような男は。

「ごめんなさいよ」
浪人の後ろを行き過ぎようとした時。
抱いた違和感に気付いて、思わず身構えていた。

こちらが身構えれば、その気配は相手にも伝わる。
それは分かっていても、どうにもできなかった。

 しまった……!

市にいた、かんざしを売っていた男だった。その男が浪人姿となり、自分たちの仲間であるはずの春日井の家から出てきた――― これはもう、偶然ではありえない。

その間、僅か、一瞬のことだった。

洋治が飛び上がったと同時に浪人が動き、春日井は家から飛び出してきた。
屋根に飛び上がった洋治は肩の痛みに気がついた。
しかし、構ってはいられない。とっさに棒剣を投げつけると屋根伝いに走り出していた。


 やはり。

あのような場合に、少しでも迷いが生じたらそこからすべてが狂う。
今の場合がそうだった。浪人姿の男に違和感を覚えたあの時に、もっと慎重になっていれば。

しかし、今はとにかく手元の密書を誰かに渡さなければならなかった。
夕闇が町を包む頃には、洋治は町外れに出ていた。

肩の辺りにしびれるような痛みがあったものが、今はさらに広がって、片腕の感覚がほとんどなくなってきている。

 さては毒。

自由が利く方の手を回して、どうにか刺さっていたものを引き抜く。細い剣だった。

このまま、血が流れて毒を流してくれればいいが。

しかし、そのようなわけにも行かないことは、洋治もよく知っていた。
吸い出すなり何なりすれば別であろうが、肩となるとどうにも出来ない。


しばらく屋根の上で休み、再び体を起こした。
こうなったら八王子の宿まで行くしかない。
そこには溝口がいるはずだった。






 夜更け、溝口はただならぬ気配に目覚め、体を起こした。
「どうしました」
すぐ隣から紅音が声をかける。が、次の瞬間には紅音も異変を察知したのだろう、赤子を抱き寄せ、身構えた。

誰かが外にいる。
溝口は刀を手に、そっと戸の隙間から外を伺った。外はまだ暗い。暗いが、そこに人が倒れているのは見て取れた。

「洋治…!」
老人に見えるが、それが洋治であることは溝口にはすぐに分かった。
慌てて戸を開け、倒れている洋治を引き入れる。
「あ…溝口……すぐ…これを持って逃げろ…」
「洋治殿、どうしたのです」
洋治は眼を見開いた。
「あ、紅音殿まで……!」
「おい、どうしたんだ」
ぐったりとした洋治の体を起こそうとして、背中がべったりと濡れている事に気がついた。
血で真っ赤に染まっている。
明けかけた薄明かりの中にもどす黒く不気味に浮き上がって見えた。

「おい、しっかりしろ、どうしたんだ」
「これを」
懐から小さな匂い袋を取り出す。
「恵が…探り出したものが入っている……一刻も早う、お逃げくだされ、紅音殿、追っ手が」
「追われているのか?」
洋治は力なく頷く。
「春日井が…裏切った…申し訳ない……無様な失態を……」
溝口は全身を耳にして周囲を伺った。
確かに、追っ手がきている。


「……紅音殿。囲まれています」
声を低め、囁く。紅音は頷いた。
「溝口。一騎を頼みます」
「えっ」
溝口は耳を疑った。
「この子を頼みます。いいですか、私はここで連中を食い止める。お前はこの子を連れて殿の下まで逃げておくれ」
「いや、そんな役目はこの私が」
「なりません」
紅音の声は凛として迷いのないものだった。
「私がこの子を連れて逃げる方が危うい。もし私に何かあったら……お前が育てておくれ。旦那様のお言いつけ通りに」
「そんな」
真壁史彦からは紅音と一騎を守るようにときつく言われていた溝口は当惑した。

「私が戦います、紅音殿は洋治と一騎を連れて…」
「許しません」
「あ…紅音殿…」
きっぱりと叩きつけるような口調に、溝口は言葉を失った。
「洋治殿、あなたも覚悟は出来ていますね?」
優しく洋治に囁きかける。洋治は何度も頷いた。
彼も、もはや覚悟は出来ているのだろう。
この傷で、しかも追っ手を紅音の元まで引き寄せてしまったのだ。もう生きていようとも思わないだろう。

「申し訳ない、紅音殿まで巻き込んでしまうとは…」
「さ、溝口。早う行きやれ」
溝口は押し付けられた赤子を抱き締めた。子供はこの中にあってもすやすやと心地良さそうに眠っている。

だんだんと敵が近づいてきている。音は聞こえないが、気配が迫ってきていた。
「溝口、逆らうか」
「……紅音殿……なんと……この私は何を……」
悔しさに、言葉が出てこない。
紅音と一騎を守るように言われて、今、ここで紅音を見殺しにしたら史彦になんと言えばよいのだろう。

「大丈夫じゃ、私も死にとうはない。生きるためにやるだけやってみる覚悟でいる」
紅音はにっこりと微笑んで見せた。
「今のうちならば裏から出られる。早う」
「紅音殿……」
今度は、気配ではなく、音がした。
いきなり土間が明るくなった。
何者かが戸を破って入ってきたのだ。同時に、洋治の絶叫が響く。
半身を起こしていた洋治の首筋から血がほとばしるのが見えた。
「はよう!」

紅音の声に弾かれるように、洋治から託された匂い袋を懐深く収めた溝口は、赤子をしっかりと抱いて裏口から走り出た。
まだほの暗い藪の中を音も立てずに進み、森の奥深くに分け入る。
獣道をひたすらに走り、森を抜けた頃―――
今、抜け出た森の向こうから僅かに戦いの音が聞こえてきた。
紅音が、そして洋治が最後の力を振り絞って戦っている、その音に違いなかった。おそらく、他の住民たちも巻き添えにされたことだろう。


分かっていたのだ。
もしあそこで自分が戦っていたら、紅音だけでは子供を連れ、密書を携えての旅は難しい。
早晩、どこかで捕まっていたに違いない。

「それでもなあ…坊よ…私はどうしたらいい……」
うあ、と小さな声がする。
すでに日は昇りきっていた。明るい光の中で子供は泣き出した。
「…そうか…そうだな…腹が減ったのだな……」
雑草だらけの畑の脇に座り込んで溝口は一騎に頬擦りをした。
「けどなあ。もう母はおらんぞ……」
声に出して呟いた時、初めて涙が溢れ出た。
一度泣き始めると止まらなくなっていた。
溝口は乳を求める赤子を抱き締めて共に泣いていた。



















John di ghisinsei http://yokohama.cool.ne.jp/gisinsei1129/

2008/11/03