細波の下・4
毎日のように神社に詣でるのも、その帰りにたまに市に寄るのも、日野恵の長い間の習慣で、江戸屋敷にいるものは皆、知っていた。
供は連れていないこともあれば時に連れていることもある。誰かが供をしましょう、といえば恵はそれを拒んだことはなかった。
そして、参拝の途中で町人に出会うことも、これまでにもたびたびあったことで、特に珍しくもない。
その中に洋治がいたら―――
その時は行動に移す時だった。
といって、すぐに何かをしたわけではない。
恵は相変わらず、のんびりと道生と遊びながら日を送っている。
準備はすでに整っていた。
あとは機会を待つだけだった。
りんを連れ、いつものように神社に詣でた恵は帰りに市に寄ってみた。
「今日はいつもより人が多うございますね」
「ほんに。芝居小屋でも来たのかしら」
言い交わしながら出店を見て歩く。
あまりの人の多さに歩いていてもあちこちにぶつかってしまう。
「もうし、そこのお女中様」
「はい?」
「これを落しなすったよ」
振り返ったりんに、老人が匂い袋を差し出した。
りんは首を振った。
「いいえ、私のではありません」
「あら。私のものです」
恵は懐を探った。
「何故落ちたのかしら、嫌だわ」
「あ…紐が切れています」
りんが手の平に乗せて差し出した。
「よく拾うてくれました。礼を申します」
「いやいや、なんの」
老人は何度も頭を下げながら人ごみに消えた。
「紐を付け直さないと」
恵は呟き、匂い袋を懐にしまった。
りんは老人の消えた先を見ている。
「どうしたのです、行きますよ」
「あ、はい」
りんは恵の後を追いつつ、また振り返った。
老人の姿は人ごみの中にまぎれてしまっている。
あの男。
りんの勘が告げる。
あれは。
変装している。
勘に狂いがなければ、今の老人は先日、神社わきで平伏していた男に違いない。
とっさにりんは身を沈め、人ごみの中に隠れて走っていた。
「本当に今日は賑やか…」
言い掛けて恵は辺りを見回した。
「……おりん?」
と、人波を掻き分けてりんが走ってくるのが見えた。
「どこへ行っていたのです」
「申し訳ありません、余所見をしてお姿を見失ってしまいました」
肩を弾ませている。恵のすぐ横に来て、はあ、と大きく息をついた。
「ああ、追いついてようございました。本当に申し訳もございません」
「何かあったの?」
「ええ、きれいなかんざしが。恵さまにも見ていただこうとお声をおかけしてもいらっしゃらなくて」
慌ててしまいました、と首をすくめるりんの横顔を恵はじっと見詰めていた。
先刻、老人の後姿をずっと凝視していたりんの目つきは、常人のそれではなかった。
この娘…殺めねばならぬやもしれぬ。
そっと胸の中だけでため息をつく。
恵は穏やかな笑みを浮かべた。
「はぐれなくて良かったこと。早く帰りましょう」
「はい」
りんは額に軽く浮いた汗をぬぐって笑った。
瀬戸内の海は穏やかだった。
日の光に煌く水面に大小の島々が散っている。
そのどれもが、夏の日差しを受けて濃い緑を緩やかな波間に映す。
山間のうねるような道を農夫がてくてくと歩いている。
史彦だった。
笠の影から穏やかな海を見る。
江戸も、このように穏やかであればいいのに。
今、江戸表に流れる不穏な空気は、町の人々は知らないであろう。
江戸城の奥で成されていることの多くは町人たちの与り知らぬことが多い。
この春にはこちらへ寄越すはずだった紅音と一騎を江戸に留め置き、店を番頭の手塚に任せて史彦が江戸を離れたのは、江戸城の奥での異変を察知したからであった。
出来るだけ早く本国の皆城公蔵に知らせねばならぬ。
そう思い、ひとりでこの伊予までやってきたのだ。
ここは本国でありながらも敵国に等しい。
狩谷家からの間者が蝿のごとく入り込んでいる。
油断はならなかった。
皆城の屋敷に近い辺りで山道が二手に分かれる。
史彦は海の方に抜け、海岸沿いに出た。切り立った崖が続いている。
波を被る岩山の間を抜け、再び山に入る。
今度は道は通らず、そのまま藪を抜けた。姿も変わっている。もう農夫姿ではなくなっていた。
藪から深い森に入ったところで史彦は木の陰に腰を下ろし、夜を待つことにした。
日が沈むと同時に、鼻の先すらも見えないような闇に包まれる。
深い森の中は夜の動物たちの物音に満ちていた。
その中でしばらく様子を伺い、そっと木陰から滑り出る。
そのまま風のように森を抜け、屋敷に近づいた。
何度も忍び入ったことのある屋敷で、内部は手に取るように分かっている。
史彦は迷うことなく公蔵の寝所の上まで来た。
そのまま、寝入っている公蔵の枕元に降り立つ。
「殿」
密やかに声をかける。
「ん……真壁か…? 江戸から参ったのか?」
「はい。じかにお耳に入れたいことがございまして」
「なんだ」
公蔵が身を起こし、手を叩いた。
「これ。誰ぞおらぬか。酒が飲みたい」
「はい」
隣室から侍女の声がした。
すぐに灯が用意され、酒が出る。
ここにはさすがに史彦のことを知らない者もいない。
枕元に人がいるからとて騒ぎ立てるものもいなかった。
「お前がこうしてくるからにはよほどのことだろう。
なんだ。言ってみよ」
史彦は静かに頭を下げた。
「家督の件にございます」
静かに言葉を発するとじっと公蔵の瞳を覗き込む。
「今、日野洋治、恵ともに動いておりますが…殿には今しばらくご辛抱を頂きたく」
「どういうことだ」
「はい……」
今年に入って間もなく、一つの藩が消滅した。
「そして今ひとつ、まだ公表はされてないが取り潰されようとしている」
幼友達の頃の口調に戻っていた。
「どちらも名家、そしてどちらも原因は」
言葉を切り、目を閉じる。
「跡目相続を巡る争い」
「むぅ……」
僅かに公蔵は深く唸った。
ここ、江戸から遠く離れた伊予まではなかなか中央の情勢は伝わってこない。
まして今度のことは江戸詰めの大名たちの中でも知っているものはまだ少なかった。
それほど内々に進められていることであった。
「日野から何か言ってきたか」
「間もなくと存じますが…何かありましても殿には動いて頂きたくない」
「というと」
公蔵は盃を片手に顎をしゃくり、促した。
「はい……日野恵は前々から証拠を握っていたようです。間もなくそれがこちらの手になるでしょう。
しかし今、この時は堪えていただきたい」
「総士を跡継ぎにというのはまずいのか」
「はい」
史彦は頷いた。
どのような確証があろうとも、相手は将軍家である。
それでなくとも、この小さな藩を吸収したくて仕方がないところへ、僅かなことで騒ぎ立てればたちまちお家騒動を起こしたとされてひねり潰されてしまうだろう。
「今しばらく道生ぎみが跡継ぎということで治めて置いていただきたい。
お上は機会を伺っておりまする」
「そうか……」
「今はまだ総士様もご幼少、また、道生君も幼くてあらせられる。今はこのままでもよろしいかと」
「総士が大人になるまで待てというのか」
「はい。今、ことを起こし万一御家中で騒ぎが起これば一大事」
「…ふむ」
表向きは道生が嫡男であり、譜代の家臣たちの間にさえ、道生が公蔵に疎まれていることを不満に思う輩はいる。
総士がまだ赤子にも関わらず道生を廃嫡しようとなれば騒動になるのは必至であろう。
そうなれば得たりとばかりに幕府が介入してくるだろう。
大大名であれば知らず、外様の、しかも僅か二万石ほどの陣屋大名では太刀打ちは出来ない。
即座に改易の憂き目を見るだろうことは想像に難くない。
総士が大人になるのを待ち、さらに狩谷由起枝以下、狩谷家から送り込まれた者どもを一気に囲い込み、騒動となる隙を与えずに叩き潰す。
それしかない、と思っていた。
今この時に動くのは危うかった。
将軍家はこれからも難癖をつけてくるだろう。
しばらくの間は柳に風と受け流すしかない。
「時を待ちましょう。必ずその時が来る」
語気を強める。公蔵は盃の中を見つめていた。
やがて、言った。
「…あれは体が弱いのだ」
沈んだ声だった。
「子供を生むと強くなる女と弱くなる女がいるというが…鞘は弱くなる方であったらしいの。
総士を跡目にすえることであれを喜ばせたかったが……」
公蔵でもこのような顔をするのだ、と、史彦は新たな驚きをもって主の顔を眺めていた。
皆城家江戸屋敷ではつつじがいっぱいに咲いていた。
中間の一人が落ちた花を箒で集めている。
丸く刈り込まれたつつじのあちこちから細い新芽が吹き出ていた。
庭に降り立った恵を見て、中間は慌てて跪いた。
「そろそろ庭師を呼ばねばなりませんね」
恵は飛び出した新芽を眺めながら呟いた。
「へい」
男は跪いたまま答える。
柔らかい新芽を、爪の先で千切りながら、
「そういえば…どこだったかしら。赤坂の方だったかしら、腕の立つ庭師がいるとか」
屋敷の方で道生と遊んでいる侍女たちには聞こえないとは思うがそれでも恵は声を低めた。
「そう、確かその辺り……西尾といったかしら」
「へい、早速に連れてまいります」
「頼みますね。虫がつきますから」
その時、りんがやってきた。
「いかがなされました?」
恵は穏やかに微笑み、中間を見た。
「庭師を呼ぶようにいったのですよ。ほら、虫がつくでしょう」
言いながら素早くりんの方を見る。
僅かに頭を上げた中間は、へい、と再び平伏した。
「かしこまりました、早速に手配いたします」
中間はじりじりと平伏したまま後ずさり、女たちが去るのを待って再び箒の手を動かし始めた。その顔はいつかのざる売りの顔であった。
忘れぬよう、小さく呟く。
赤坂の西尾。
そしてもう一つ。
今、恵は明らかにりんを殺すよう、指図していた。
あの小娘も狩谷の間者か…。
人手が要りそうだ。
中間になりすましていた男は堂馬量平といった。
いわゆる忍びではあっても屋敷に忍び込んだりという仕事はしない。もっぱらこうした繋ぎの役割を担っていた。
遠見の姐さんに相談するか。
堂馬は胸の内で独りごちた。
遠見千鶴は町医者で、彼女もまた間者としての仕事はしない。
繋ぎの者たちの指図に当たったり、彼らから集めた情報を史彦の元に送ったりするのが仕事だった。
中間は屋敷を出るとすぐさま手配りにかかっていた。
一方、りんの方も動いていた。
市の時にりんから連絡を受けたかんざし売りの男が恵と接触した老人の後を追っていた。
John di ghisinsei http://yokohama.cool.ne.jp/gisinsei1129/
2008/10/31