細波の下・3
婚礼の話は水面下、静かに進んでいる。
由起枝の養父にあたる狩谷の家からの使いがつい先ほど届いたばかりだ。
侍女の一人はいつものように障子近くに座ったまま、由起枝の顔色を伺っていた。
常であればそろそろ雀が煩い、障子を閉めや、という甲高い声が飛んでくるところなのだ。
「若ぎみを呼びや」
「は」
予想していなかった言葉と穏やかな声に、とっさに言われた意味がつかめず、きょとん、とし慌てて両手をついた。
「はい、すぐに」
訝りつつも、奥に急ぐ。
奥の部屋では何かを縫っている恵の横に道生が寄り添っていた。
「何か?」
恵は手を止めて振り返った。
「はい、若様、お方様がお呼びです」
「なんじゃ」
道生は不貞腐れたように返した。
「今、お手玉というのを作ってもらっているのじゃ。
お前、知っているか?」
「はい、存じておりまする」
にっこりと微笑みかける。
道生は楽しそうな笑顔を見せた。
「そうか、知っているか。では一緒にやろう」
「はい、でも今はお方様が」
「どうせつまらない話じゃ」
ぷっと頬を膨らませ、恵の膝にすがる。
恵はその肩を軽く叩いた。
「いけませんよ、若君。困らせないでくださいまし。
私が叱られてしまいます」
「……」
道生はしばらく恵の顔を見ていた。
やがて、しょんぼりと俯く。
「そうか…乳母が叱られるのはいやじゃ」
「まあ」
素直な言葉に目蓋が熱くなる。
道生はそうと決まれば早く、といわんばかりに手を引いてきた。
「はよう」
「はいはい」
幼い頃から育てていれば我が子と変わらない。
手を、ぐいぐいと引く、小さな手を恵は愛しく見つめていた。
由起枝の部屋の前で、恵は控えていた。
庭で遊ぶ雀を目で追いながらも、耳を欹てていた。
公家の姫との縁組については恵は早くから知っていた。
もし羽佐間家に女の子が生まれたら、道生のもとに、という約束になっていた。
侍女の一人が顔を出し、続けて道生が不貞腐れた顔で出てきた。
「どうしました? 良いお話でしたでしょう?」
道生は黙って首を振る。
「おや。どうなされました」
黙ったまま、駆け出す。
追いかけようとして、由起枝に呼び止められた。
「恵」
「はい」
慌てて廊下に手を付く。
「もっと厳しく教育しなければなりませんぞえ。
姫が参られたとて恥をかくことのないよう」
「はい。……ではあの、お決まりに?」
分かっていても、一応確認してみる。
由起枝は僅かに笑っていた。機嫌の良い証拠だ。
ばさり、と着物の裾を翻し、部屋に戻る。
「いつまでもあのように反抗的では困る。あまり甘やかさぬように」
「はい」
静かに頭を下げ、その場から退出した。
廊下の先で道生は不安そうな顔をして立っていた。
「どうされました?」
「…叱られていたのか?」
「いいえ」
恵は首を振った。
「大事なお話があったのですよ」
「そうか」
ぱっと顔が明るくなる。
「なら良いのじゃ」
「心配してくださったのですね、ありがとうございます。それではお手玉を作ってしまいましょうね」
「うん!」
元気よく頷き、部屋に向って駆け出していった。
針を持ちながらも、ふっと現実が遠くなる。
侍女を相手に、すでに出来上がったお手玉で遊んでいる道生を見る。
縁組の話はおそらく史彦の耳にも入っているだろう。
遠からず夫から、あの庭師からの連絡があるに違いない。
「出来上がりましたよ」
五個目のお手玉を道生に差し出す。
こうして遊べるのも、もう短い間のことかもしれなかった。
まだ春になったばかりなのに、伊予の山々は夏のように緑に輝いている。
屋敷の中から見える緑の眩しさに、鞘は目を細めていた。
小走りに女童が駆け込んでくる。
ぱたっと敷居の手前で座ると、平伏した。
「お殿様お渡りにございます」
その言葉も終らぬうちに、公蔵の太い声が響く。
「鞘、今日は起きているのか」
鞘の髪を梳いていた侍女は慌てて後ろに下がり、平伏した。
「そのままで良いぞ。構うな、構うな」
侍女に声をかけると鞘の前に胡坐をかく。
「具合は。顔色は良さそうだの」
「はい、おかげさまにて」
公蔵の一子、総士を産んだ後、床につくことが多かった鞘も、暖かくなった頃から起きられる日が多くなった。食欲も増してきている。
「今朝は久方ぶりにお庭を散策いたしました」
「おお、そうか」
公蔵の嬉しそうな声につられ、鞘も微笑んだ。
「つつじが蕾をつけているのを見て驚きました。
……随分と長く伏せていたのですね…」
そして改めて頭を下げる。
「殿にもご心配をおかけいたしました」
「何の」
じりじりと膝を摺り寄せ、大きな手で肩を抱きこむ。
「つつじもおことの回復を祝っているのじゃ。
これからも無理はするな、養生しろ」
「はい」
優しい言葉につい、その手に体を預けていた。
半ば無理やりのような形とはいえ―――
こうしていると愛されているという喜びに体が震える。
鞘もまた、一人の女であった。
もともとは武士だった父が刀を捨て、学問の道に入ったのは鞘がまだ幼い頃だった。
母の内職と、父の開いた小さな私塾から得られる収入は微々たるもので、食卓にはいつもわずかばかりの菜のものがあるだけ、魚など、半年に一度くらいしか口に出来なかった。
そのような貧困の中、母は倒れ、帰らぬ人となり、父もまた病に倒れた。
その頃やっと十五になったばかりだった鞘の内職では父の薬を買うのもままならず、家財道具や着物のほとんどを質に入れてしまっていた。
そのような時に、公蔵に見初められたのだった。
何がきっかけだったのかは分からない。
家臣の小楯というものがあるとき、大金を持って古い長屋に現れたのだ。
「これは支度金に過ぎませぬ」
洗い晒しの寝巻きに、隣家の知人から借り受けた羽織という姿の父に、小楯は恭しく頭を下げた。
「殿がこちらのご息女を是非にと」
父は断ってくれる。
そう思っていた鞘の期待は見事に裏切られた。
父は頭を下げ、よろしゅう、と言ったのだ。
学問に生きる、そう言っていた父が、誰にも頼ろうとしなかった父がそのようなことを言い出した真意は分からなかった。
それでも、この身で父を救えるなら、と思った。
父の看護をしてくれるなら、という約束でこの家にやってきたのだった。
その父も、楽しみにしていた孫の顔を見ることなく儚くなった。
公蔵の肩にもたれ、庭を眺めながら父の事を思い出す。
公蔵は、約束どおり、父のために医師を付けてくれ、侍女たちは常に三人はついていただろう。
そのためか、一時は外を歩くことが出来るまでに回復したものの、昨年の夏、暑い日に突然に逝ってしまった。
「何を考えておる」
「父の事を思い出しておりました」
「そうか……」
ぎゅ、と力強く手を握られる。
励ましてくれているのか、と思うとそれでも嬉しかった。
あまり器用とは言えない公蔵の、精一杯の表現の仕方なのだろう。
「お前の息子は幸せにしよう」
公蔵は言った。
「お前の息子こそがわしの跡取りじゃ。道生には跡目は譲らぬ」
「そんな……」
不安になって公蔵の指を握り締める。
「鞘は今のままで幸せでございます。どうか…このままで…」
よそから伝え聞く跡目争いなどというものに我が子を巻き込みたくなかった。
「大丈夫だ」
大きな手が肩を叩く。
「何も心配することはない。お前は自身の体のことだけを考えよ」
抱き込まれて息が止まりそうになる中で、鞘は言葉を発することも出来ずに、ただ、僅かに首を振っただけだった。
この暖かさ。
公蔵の広い胸と高い体温は江戸から遠くはなれたこの土地の暖かさを思わせる。
土地は狭くとも、領土はそれなりに豊かだった。
その豊かさ故に争いが起きる。
江戸の華やかさはないが、温かい素朴な人々、抜けるような青い空にも似た、人々のさわやかで優しい心根は何ものにも換え難い。
何もいらないのに。
暖かさの中でまどろみながら鞘は思った。
子供と暮らせる。
それだけで、充分に幸せで、これ以上のものなど、望みたくなかった。
恵はいつものように神社に参るため、早朝屋敷を出た。りんという、女童を連れている。
最近、屋敷に仕えるようになった娘だった。
神社までさほど遠くはない。
まだ起き止まぬ町を抜け、静かな森の中にある、小さな社に入っていった。
「このようなところがあるなんて」
りんは感心したように辺りを見回している。
「古いお社ですからね。この辺りのものは昔から親しんでいるのですよ」
「そうですか……」
社の柱も古びて白くなっている。
「あ、人が」
「あら」
恵は立ち止まった。
「ご近所の方でしょうか」
「そうでしょう」
向こうでも気がついたのだろう。恵たちの服装に、慌てたように道の脇に体を寄せて平伏する。
どうやら、朝早くに神社にやってきた町人のようだった。
二人は町人の前を行き過ぎ、神社に詣でた。
帰りには姿は見えなくなっている。
「……」
恵は頭巾の影から素早く目を走らせた。
あの町人は間違いなく、洋治だった。
呼吸を整え、いつものように町の茶屋などで寄り道をしながらも、鼓動は高くなってゆく。
そろそろだとは思っていた。
あの道に洋治が姿を現す、その時のために、恵は長く由起枝に仕えていたのだ。
John di ghisinsei http://yokohama.cool.ne.jp/gisinsei1129/
2008/10/24