細波の下・20
総士が跡目を継ぐことに関してようやく許しが出た。
将軍家もまた、この問題をこれ以上長引かせたくなかったのだろう。
仮にも将軍家が、このような小さな藩を相手に卑劣な策略を巡らせたなどということを知られたら天下の笑いものとなるだろう。
「瀬戸内の海は穏やかだったな」
庭を眺めながら道生が呟いた。
「凪いだ時はまるで鏡のようだと」
史彦がにこやかに答えた。
史彦はあくまでも商人の顔でにこにこと対している。
今日は国許へ帰ることが許された道生への見舞いと称し、さまざまな品物を持ってきている。
「おお、お前も伊予を知っているのか?」
道生は嬉しそうに振り返った。
「いえ、手前の亡くなりました家内がもともとは伊予の出身でして。もっとも家内も幼い頃に数度行ったきり、ということでしたが」
「そうだったのか」
「海は穏やかなれど、潮の流れは速く、水は冷たく。
それゆえ、瀬戸内の魚は身がしまって美味しいとか」
「……なるほど」
苦笑し、再び庭に目を移す。
「表面は穏やかに見えても水流は激しいのだな。
まるで……」
口を噤み、小さく笑った。
どこか、ほっとしたような笑みだった。
国に帰るのは弓の出産を待ってから、ということになると史彦は聞いている。
伊予の館内で、ほぼ軟禁生活に近い形になるだろうことは間違いない。
それでも道生は満足しているようだった。
日野恵も一緒に暮らすことになっていた。
身の回りの世話をするものが必要、という名目だったが、事のすべてを知っている彼女を殺さず、なおかつ自由にさせないためにはこれが一番良い方法だろうと思われた。
むろん、見張りはつく。侍女の名目で弓についている咲良と、さらに今度は剣司がつくことになっていた。
ここまで来るのに、早乙女柄鎖の必死の説得がなければならなかった。
生きていられない、という恵を涙ながらに、時には怒鳴り声を上げて説得した。
曰く、決して道生様を騙したわけではなく、結果として救ったのだ、と。
もしあのままになっていたら遠からず狩谷家の者たちにこの家は食い物にされていただろう、と。
道生に対してもいかに乳母が道生を想っているかを説き、公蔵たちには今、道生たちを亡きものにしてしまうことがどれだけ総士にとって損失になるかを説いて回っていた。
早乙女がいかに心を砕いたかは、その後、三日も熱を出して寝込んでしまったということからも知れようというものだった。
「甘くはありませんか」
そう言ったのは溝口だった。
「大丈夫だろう」
公蔵は答えた。
「確かに亡き者にしてしまった方が簡単には違いない。
だがこれからの世を作るのは私ではない。総士だ。
あれが生かしておいてくれと言ったのだ。どの目が出るにせよ、あれに任せるしかないであろう」
その横で史彦は静かに一人で酒を飲んでいる。
紅音が命を懸けて守ったものが、今、芽吹こうとしている。
総士は着流し姿で柱にもたれ、庭を眺めていた。
あまり馴染みのない、上屋敷の庭。
障子の陰から一騎が道生の様子を報告している。耳をそばだてないと聞こえない、低い声でのそれを総士は黙って聞いていた。
宿下がりをしていた弓が子供を産んだのは夏も終わりの頃だった。
女の子で、せり、と名づけられた彼女は、翔子の元で育てられることになっている。
道生は一度だけ、対面を許された、という。
せり、と名づけたのは、野にあって目立たぬ草ながら、香りはよく人々に愛されるから、という。
そのように人に愛されるような子になって欲しい、との祈りをこめたものか。
「少納言の姫様もお乳母殿もそれはもう、指折り数えてお子様をお待ちしているとか」
総士は僅かに目を細め、微笑んだ。
「そうか……いずれ、彼女にもどこぞ良い婿を探すこととしよう」
武家の娘と生まれた以上は、自由な恋愛など望むべくもない。小さな藩に生まれた娘はそれなりの相手しかいないものだ。
ゆえに姫に預けることにしたのだった。
これは完全に総士の独断だった。
養母が少納言の姫であれば、いくらかは箔がつくだろう、との判断によるものだった。
父が反対しなかったのは道生に対する負い目なのか、それとも父もまた、同じように考えたのか。
そこまでは判らない。
娘と対面してからは全て吹っ切れたかのように、僅かな警護の者だけを連れて国に向かった。
総士も密かに僚に警護を命じている。
弓は体が整ってから伊予に向けて発つことになっている。
「瀬戸内、か」
道生は何を思って海のことを話したのだろう。
瀬戸内の海は穏やかだった。
総士の幼い頃の記憶にある瀬戸内は、夕暮れの光が水面にきらきらと光っていて美しかった。
その美しい海の下、潮流は早く、水は冷たいのだ、と聞いた。
徳川の世になり、刀を持って戦うことはなくなった。
代わりに静かな謀略によって人を追い落とす戦いが始まっている。
穏やかな海の下で激しく渦を巻く流れがあるように。
血を流すことは少ないが、人の心に残す傷は深いように思う。
そうしなければ子々孫々残せないものとはなんだろう。
残してゆかねばならないものとは何なのだろう。
庭から部屋の方に視線を移す。障子の影に片膝をついて座る一騎の姿が見える。
「一騎」
僅かに顔を上げることで答える。
「お前の役目はなんだ? お前は父になんと言われた?」
一騎はきょとん、と目を丸くしていた。
ややあって軽く瞬きをする。
「若をお守りすること――― 皆城の家を守ること」
「それだけか」
つい、と手をついて一騎は続けた。
「お家を守るということは藩を守ること、国に暮らす領民たちを守ることだと。
そう父に言われた」
総士は苦笑した。
「早乙女も同じことを言っておった。もう耳にたこじゃ」
小さく息をついて再び庭を眺める。
綺麗に掃き清められた玉砂利は海のようにも見える。
瀬戸内に面した小さな地。そこに暮らす、決して多くはない人々の、ささやかな生活。
小さな、それでも大切な一つ一つを守ってゆく、それがどれほどに大切で、そしてどれほどに困難なことか。
海のような玉砂利から目を上げ、濃い緑の梢を揺らす松を見る。その向こうに江戸の空が広がる。
穏やかな空。平和な町。
もう戦国の昔を知るものはいない。総士もまた、言い伝えでしか、知らない。
矢玉が飛び交い、馬の嘶きと人々の怒号、悲鳴、刀や鎧のぶつかり合う音が響く戦場はもうない。
代わりに道を行く飴売りの声、子供の笑い声が響くこの世の中の、どこかで―――
穏やかな細波しか見えぬ瀬戸内でも時に人を呑むほどの大渦が巻くように―――
何かが、これからも起こるのだろう。
気を緩めればすぐに呑まれてしまうのだろう。
全てが終わった今になって、総士はかつてない大きな、重いものを背負ったような。
そんな気がする。
総士は小さくため息をついた。
「私に出来ると思うか……? 一騎」
一騎の密やかな笑い声がした。
「大丈夫だ。お前一人じゃない。俺たちをみんな…手足と思ってくれていい。そのために」
言葉を切る。振り返った総士の目に、一騎の真摯な瞳が映った。
「そのために俺は今、ここにいるんだ」
総士は頷いた。
日は傾き、海のようになだらかな線を描く砂利に薄い影が伸びていた。
完
John di ghisinsei http://yokohama.cool.ne.jp/gisinsei1129/
2009/02/10