細波の下・2






 
 家に帰った史彦を、若い女中が迎えた。
「お帰りなさいまし、お客さまがお見えです」
「客?」
「はい、溝口様です」
「おお…そうか、では酒の用意を頼むか」
「かしこまりました」
女中はぺこ、と頭を下げると奥に駆け込んだ。



溝口はいつもの洗い晒した紺の小袖によれた袴という浪人姿で火鉢に手をかざしている。
部屋は良く暖められていた。あの女中が気を遣ってくれたのだろう。

酒も肴も溝口の分はすでに用意してあり、ひとり手酌で飲んでいたらしい。



「殿にお会いなされていたとか」
盃を仰ぎながらの言葉だった。
史彦は頷いた。
「お子が生まれてたいそう喜んでおられた。ますますお盛んな様子で安心した」
「それは何より」
溝口は何度も頷き、そしてにやり、と笑った。
「おぬしのお子も達者だぞ」
「そうか」
「おぬしがお子のことなど忘れているのではないかと紅音殿が嘆いておられた」
史彦は苦笑して火箸で軽く灰を突付いた。


「忘れるも何も」
 まだ生まれたばかり、顔を見たのも一度きりで、そもそも自分の子という実感すら薄い有様なのだ。
一騎と名付けたものの、その名前すら、時に忘れる始末だった。

「忘れる前に思い出すこともないか」
くすくすと笑う溝口に返す言葉もない。



静かな足音に溝口は開きかけた口を噤んだ。
女中が新たに酒と肴を用意して来ていた。
「そこに置いてゆけ。もう寝ていいぞ」
「はい、ありがとうございます」
この寒さだ。女中も早く休みたかったのだろう。
声が幾分弾んでいた。
「近頃の若い娘は素直だ」
溝口はからかうように言った。
「今宵は特別冷えるからな、風邪など引かぬよう、私が温めてやっても良いぞ」
「まっ」
顔を赤らめ、首をすくめる。史彦は、これ、と溝口をたしなめた。

「酔っ払いの戯言に付き合わんでもいい、早く休め」
「はい、では」
若い女中は頭を下げると逃げるように去っていった。


「奉公に出たばかりの若い娘をからかうな、馬鹿者」
「ああいうのを見るとつい、な」
首をすくめて笑う。悪びれた様子はさらになかった。


史彦はため息をつき、娘が置いていった盆を引き寄せた。
「ちょうど良かった。私からもお前を呼ぼうと思っていたのだ」
「は」
溝口は改まって盃を置き、手を付いた。
「何用で」
「いや。なに、そろそろ日野に連絡を取ろうと思ってな」


日野恵、洋治の夫婦はそれぞれ、別方向から由起枝の近辺を探っている。

恵の方は早くから由起枝の侍女として実に献身的に仕え、今ではかなりの信頼を得るようになっていた。
道生の守り役も任されたというから相当なものだろう。

故に、同じ組織で働くものであっても、ここ何年も連絡は取っていない。下手に繋ぎなどつけて万が一にも関係が疑われるようなことになっては一大事なのだ。



洋治の方は江戸面に置ける皆城家の馴染みの庭師、ということになっている。
仕事柄、年に二、三度くらいしか屋敷には行くことはない。


この夫婦は、めおとでありながら顔をあわせることもなく何年も過ごしていた。



その二人に繋ぎを、という。
溝口はしばらく盃を回し、揺れる酒を眺め、
「分かりました。誰ぞ適当な者を探しましょう」
というと、盃を干し、唇を舐めた。
「時に」
「なんだ」
「その道生君のことで……ご婚礼の話が持ち上がっているのだが」
「なんと」
これには史彦も驚いた。公蔵もそのような話は何もしていない。

「いや、まだ本当に内々の話でな。狩谷の家のものが数人動いているというに過ぎぬが」

狩谷の家を探っていたものがかぎつけた、という。
「まだお相手も生まれたばかり。姫が生まれたというので、それではいよいよ、となったのではあるまいか」
「……生まれたばかりというと」
溝口は天井を仰いだ。
「一騎殿と同じ頃…かな」
「赤子ではないか」
「確か少納言…羽佐間家の姫と聞いた。羽佐間家と狩谷家は何かと縁が深いからその繋がりでは」
「……」

武家の婚姻には様々な制約があった。
なのにこのような話が出るからには、おそらく由起枝の背後にいる狩谷家は相当に早くから動いていたのだろう。
位は高くなくとも、公家の姫、というだけで箔はつく。

「狩谷の家からの話であれば殿も無下にはできますまい。はなからそれを見越してのことかと」
「……男の子が生まれた、というのはもう?」
「いや。まだそこまでは」
「……そうか。男の子と分かったら急いで話を進めるだろうな」
急いで由起枝の息子の地盤を固めようとするだろう。

「やはり日野に連絡を取らねばなるまいな」
腕を組んで呟く。溝口が静かに頷くのが見えた。

今は療養のために国元に帰っている由起枝たちも春にはまた、江戸表に戻るだろう。
その頃までに、と考え、慌ててひとり、首を振った。

急いてはことを仕損じる。
焦る必要はない、公蔵にそう言ったのは自分ではないか。

婚約の話などを聞いたために少し焦ったらしい自分に苦笑して、史彦は冷えてしまった酒を飲み干した。






 いつにない大雪に見舞われた江戸の冬も終わり、木の芽も煩いほどに伸び、景色を塗り替えてゆく。
冬の間は灰色に沈んで見えた江戸の町並みも華やいでくる。

町を行く娘たちの嬌声、物売りの声が響き渡り、一段と活気を増したようだ。


そういった音の一切が届かない、屋敷の中の小奇麗な庭に子供の声が響く。
甲高い声に遊んでいた雀が驚いて飛び立ってゆく。

「あっ! そちらは危のうございます!」
女たちの高い声と、子供の小さな叫びが重なった。

凧揚げに興じていた道生は、落ちてしまった凧を追いかけ、危なく池に落ちるところだったのだ。

「お怪我がなくて何より」
低く、良く通る声に、道生はきょとん、と自分を支えてくれた太い腕の持ち主を見上げた。
たまに顔を見る、庭師の一人だった。

にこり、と笑いかけたその顔にどう答えてよいのかも分からずに駆け寄ってきた侍女の膝にすがりつく。
「これは。礼を申します、ありがとうございました」
ふくよかな侍女は道生を抱き締め、軽く会釈をした。
庭師はそこに蹲ったままだ。もとより話が出来る身分でもない。

彼は低く頭を垂れたまま、女たちの集団が行き過ぎるのを待っていた。
視界に映る女たちの草履の影が遠くなった頃にやっと頭を上げる。
女が振り向くのが見えた。
もう何年も話もしていない、自分の妻が子供を抱いて軽く笑いかけてきた。

 それだけで洋治は救われる思いがした。
もう離れ離れになって何年たつだろう。思い出すことも困難になるほどの年月を離れて暮らしていた。



 道具を片付け、仲間と一緒に屋敷を出る。
すでに夕暮れだった。
「早く帰って飯を作らなくちゃなあ」
ぼんやりと呟くと、仲間の一人が肩を突付いてきた。
「なんだよ、お前、まだ嫁もらってないのか」
「ああ。どうしてかな、女に縁がない。寂しいもんさ。
じゃあ、またな」
「ああ、メシ、手抜きするなよ、しっかり食えよ」
笑って仲間に手を振る。
急ぎ足で長屋に帰る途中、ざる売りがやってくるのが見えた。
「ざるはいらんかえ」
たくさんのざるをぶら下げた天秤棒を担ぎ、よろめくように近づいてきたざる売りを追い払おうとして―――
「ざるを見せてくれ」
つい、声をかけていた。
ざる売りの持つ、売り上げを入れる籠の中に、不恰好な茶碗を見つけたからだ。
無骨な茶碗だった。ごつごつとして、厚さも大人の親指の太さくらいはあるだろう。
「面白い茶碗を持ってるな」
ざる売りは、へい、と頭を下げた。
「売り物になりませんで、こうして銭入れに」
言いながら、ざる売りは洋治を見た。その目が、鋭く光る。
「なるほどな。…こんなものを作る男は江戸に一人しかいないだろう」
軽く笑って男を見る。男は僅かに頷いた。
「ちょうどいい、ざるが壊れて困ってたんだ」
「そうですかい。これなんかどうです、何でも使えますぜ」
平たい、大き目のざるを手にする。
洋治は頷いた。
「じゃあ、それと、あとこの小さいのも」
「へい、ありがとうごぜえます」
ざる売りはへこへこと頭を下げた。その目はすでにごく普通の商人のものになっていた。



 粗末な長屋が寄り添うように並ぶ一画に、洋治は道具とざるを二つ、小脇に抱えて入っていった。
井戸の周りでは女たちが野菜を洗っている。
「あら、洋治さん、おかえり」
かしましいお喋りの中から飛んでくる声に、愛想の良い笑みを返し、がたぴしと建て付けの悪い戸を開けた。

道具を狭い土間に放り出すと、ざるを手に、板の間に腰を下ろした。


 いよいよ、か。

自然、口元が引き締まる。
体中の筋肉が緊張していくのが分かる。

竹ざるのふちを軽く弾く。
くるくると巻かれた、薄い竹が僅かに隙間を覗かせる。
洋治はその隙間に、慎重に小柄の先を入れ、弾き上げた。中に、蝋で巻かれた細いものが見えた。

 そっとため息をつく。
蝋をはがし、細く巻かれた手紙を取り出す。
 振り返って笑った、妻の顔を思い出していた。




















 
 

John di ghisinsei http://yokohama.cool.ne.jp/gisinsei1129/

2008/10/20