細波の下・19
恵の口に押し込められた布を取ってやろうとして――― そこで、やっとのこと道生は気がついた。
実に簡単な事に。
恵の肩を抱いたまま、道生はしばらく動けなかった。
今までの彼女の行動は全て、おそらくは父に命じられて、のことなのだろう。
そうだとしたら、あの文を盗んだのが恵だという事は容易に察しが付く。
あれは、重要な証拠になりうるものだ。この自分を廃嫡するために、この上なく効果的だろう。
恵はおそらく、何らかのきっかけでその文の存在を知ったのだろう。
もしかしたら、それより以前から探っていて嗅ぎ付けたものかもしれない。
いずれにせよ、それほど以前から――― 自分が生まれて間もない頃から父はすでに動いていた、ということだ。
それほどに前から。
道生は呆然とした。
めまいすら覚える。
何十年もかけて周到に、この自分を陥れるためにあらゆるものが動いていたのだ。
道生は恵の肩を突き放し、その顔を見つめた。
「婆。俺はお前を信じていた。
……しかしお前は……俺を裏切るためにずっとそばにいたのだな……」
「……」
恵は激しく首を振った。手を振りほどき、口に詰め込まれた布切れをむしりとると言葉もなく泣き伏す。
「……俺は……お前が大好きだったのに……」
呆然と立ち上がり、ふらふらと座敷を出る。
涙も出なかった。どこを歩いているのかも判らない。
このどこまでも暗く、深い縁が、絶望と呼ばれているものなのだろう。
呆然と歩いていて、いつの間にか、部屋に戻っていた。
狩谷の家のものはこの自分を利用して皆城の家を乗っ取り、天領にしようと画策していた。
父が動いていたのは知っている。母がそのために奔走していたのも知っている。
信じていた乳母までもが。
唯一、信じていたのに。
部屋の中央に座る。
お弓。
弓は何とかして助けたい、と思う。
しかし、今のままでは彼女も危ないだろう。
道生はすらり、と刀を抜いた。
他に、道は考えられなかった。
切っ先を自らに向けようとした時。
その手首を強い力でつかみ、刀を取り上げるものがあった。
「何やつ!」
思わず怒鳴る。薄闇の中から落ち着いた声がした。
「お待ちくだされ」
「……」
そこにいたのは、いつだったか、果林という少女のそばについていた小姓だった。
「……お前は」
少年は軽く一礼した。
「将陵僚と申します。若のおそばに従うもの。
……思いとどまってくだされ、道生殿。あなた様は良くても、弓殿をいかがいたす」
「……しかし……このままいても同じことであろう。
いずれ父は私を殺すであろう」
僚は静かに首を振った。
「若がそのためにただいまあちらこちらと動いておられます。あなた様お一人の命にあらず。お弓の方様ややがて生まれるお子様、家臣たち。
その者たちの間にむやみに恨みを育てることは若の本意ではありませぬ」
僚は実際、そのように総士に言われたわけではない。
それでもなんとなく総士の思うところは理解できているつもりであった。
「お弓も……殺されるであろうの……」
力なく呟く。
僚は軽く頭を下げた。
「そのようなことは決して。どうか主を……貴方の弟君をお信じくださいますよう」
「弟を」
道生が苦笑する。薄闇の中、影はひっそりと頷いた。
僚は軽く安堵の息を漏らした。
ともあれ、この人は死なせてはならない。
公蔵が重臣たちを集め、突然の病による道生廃嫡を発表したのは、そのひと月後のことだった。
狩谷光弘もその場に呼ばれている。が、首の後ろに汗を光らせながらもひと言も発することが出来ずにただ、押し黙って聞いている。
公蔵は何も言わない。しかし、光弘にはもうわかっていた。
以前、由起枝に出した文が残っていたこと。
その文こそ、もう何年も前に恵がひっそりと盗み出し、恵から洋治へ渡り、紅音が溝口に託したものに違いなかった。
巧妙に擦り返られた文は、恵が長い時間をかけて写したもので、これらの証拠を探るために、恵は道生のそばに仕えることになったのだった。
恵が怪しい、と思った時にはすでに遅かったのだ。
さらには、産婆の存在も明らかにされていた。
むろん、居場所などは知らされていない。しかし、その産婆がいる、と知っただけで光弘と由起枝は敗北を悟った。
それらの証拠がある限り、公儀もこの跡目相続に口をさしはさむことは出来ないだろう。
「急な病ということになったらしい」
小さな茶室でしゃかしゃかと茶を点てながら総士は呟くように言った。
総士と一騎、早乙女の三人だけがこの場にいた。
しばらく茶を点てる総士の手元を見つめる。
その手が止まった。
総士はただ、宙を見つめている。
「兄上には……できればそばにいてもらいたいのだが。
こういうのは傲慢だろうか」
眉を寄せ、幾分苦しげな声だった。
「……どこぞの三文芝居のようで嫌じゃ……しかし父上の下に置いたら間違いなく兄上は……」
いつか、殺される、と呟いた。
「それだけは避けたい。出来れば…私のそばに」
「お手元に置いていかがなされる」
早乙女の口調には探るような響きがある。
総士は目を伏せた。
「判らぬ……まだ考えてはおらぬ。一騎、どうしたらよい?」
「さ……」
一騎は口ごもった。
自分などが口をさしはさむ問題ではない。
「では」
早乙女が膝に手を置き、軽く頭を下げた。
「その一件、私めにお預け願えませぬか。
きっと何とかいたしましょう」
「……」
「しかし」
口元を引き締めたまま、じっと主を見据える。
「道生様を江戸に留め置くことは私は反対です。
のちのちどう転ぶか判ったものではありませぬ」
「……お前も兄上を疑うているのか」
「いいえ、そうではなく。……人は弱いものでございます。
今は良くても、これから先、何があるかわかりませぬ。
狩谷のものが黙っているとも考えられぬ。何か仕掛けてくることも」
「……」
総士は軽く頷いた。
「……わかった。ではお前に任せる」
「は」
早乙女は一礼すると小さな入り口から後ずさって出て行った。
それを見送ると総士は大きく息をつき、一騎にもたれてきた。
茶碗の縁から茶筅が転がり落ちる。
もう茶のことなど、頭にない様子だった。
一騎は答えず、ただ、総士の体を受け止めていた。
やがて、静かな寝息が聞こえてきた。
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2009/02/03