細波の下・18
早乙女の報告を聞きながらも総士は茶せんを動かす手を止めることもなかった。
「国元の狩谷の息がかかったもの全て国外に放逐あるいは亡き者にと」
「それは父上の…?」
「はい、すでに真壁の指示により遠見、溝口両名が手の者を連れて出立いたしましてございます」
差し出された茶碗に困惑したような視線を投げ、それでも一礼して手に取る。
「それより一足先に生駒様の下にも連絡が行っているはず」
早乙女の言葉に総士はわずかに唸った。
自分でも判っているつもりだったが、それ以上に知らないところでさまざまな動きがある。
「兄上は…」
総士は言葉を切った。
真壁史彦はこちらに残っている。その意味するところを考えると体が震える。
「そのように憎しみを育ててどうなる」
小さく呟く。早乙女に聞こえたものかどうか、彼はちら、と目を上げただけだった。
道生とそれに連なるものたちを全て葬れば、禍根を残すことはない――― あるいは、父はそう考えたのかも知れぬ。
しかし、道生に長く仕えた家臣たちはどうするのか。
さらには頑として京に戻ろうとしない姫君は。
まさか彼女まで手にかけるわけにもいかないだろう。
「では」
早乙女が器から顔を上げる。そこに幾分、安堵の色があるのを見て取って、総士は小さく笑った。
「面倒だが私の名代として父に面会を―――
兄上を何としても助けたい。間違っても害されることがあってはならない。
いや。一度はこちらが助けられたのだ。借りは返さねばならぬ。……それに」
言葉を切り、膝に乗せた手を見る。
「それに……長く父のもとにいて政を教わった兄上にこれからも助けてもらいたい。
私はあまりにものを知らぬ」
それが本心かもしれなかった。
そして、道生に対する嫉妬と羨望がその下に押し隠されているのも、総士は自覚していた。
「急げ。馬を使え」
「は」
一礼すると早乙女は飛び出していった。
と同時に、総士の後ろの壁、もう一つの茶室に繋がる入り口から二つの影が現れる。
一騎と僚だった。
「僚。お前は先回りしろ」
「は」
短い返事と同時に、僚の影は消える。
総士は一騎を見た。
「お前は……」
「俺はお前のそばを離れないぞ」
きっ、と目を上げる。
きつい眼差しから目をそらすことが出来なかった。
「この前狙われたばかりだ。こことて安心は出来ぬ」
「…そうだな」
ふっと総士は笑った。
「それでは……お前にも茶を」
そういうと新たに茶を点て始めた。
由起枝はあまり部屋から出ることがなくなった。
いつかの事件のことを聞いたのかもしれない。
総士を襲撃しようと畳の下に潜んでいたものは、狩谷の手のものだろう。
そのあたりの調べは適当なところで打ち切られた。
もとより、すぐに調べがつくような者を畳の下に潜ませるようなことを光弘がするはずもない。
襲撃のことも皆城低では硬く口止めがされていたものの、由起枝には誰かが知らせたのだろう。
もしかしたら、公蔵が由起枝を封じるための手として遠まわしに伝えたのかもしれない。
親父殿ならやり兼ねぬ。
畳に寝そべり、天井を眺めながら、琴の音に耳を澄ます。奥の方の座敷から聞こえてくる。
騒動はおそらくは姫の耳にも聞こえているのだろう。
琴の音は自分を慰めてくれているかのようにも聞こえた。
外がいきなり騒がしくなった。
思わず身構える。
と、女の悲鳴が聞こえた。
「……なんだ…?」
庭先を掃除していた中間も首を傾げる。
「さあ? なんでしょう。見て参ります」
あたふたと中間が駆けてゆく。
女の悲鳴はますます大きくなった。泣き叫び、許しを乞うているように聞こえる。
「お許し下さい、ほんの出来心で…通りがかっただけでございます……!」
「何をいうか!」
声からして、そう若い女のものとも思えない。
道生は立ち上がり、庭に下りた。
「おい、なんだか知らんが女に乱暴は止めろ」
「若様、怪しい女が」
中間が走り寄って来た。
女が引き立てられる。
両腕をつかまれた女は粗末な着物に小さな荷物を背中に括っている。旅の者かあるいは――― と観察していてはっとした。
その顔に何か――― 揺り動かされる何かがある。
その時、奥から騒ぎを聞きつけたのか、老女が小走りにやってきた。
「何の騒ぎかえ」
やってきたのは由起枝に昔から仕える侍女の一人だった。
「は、不審なものがこの屋敷の周りをうろついていたので捕らえました」
警護の者の説明が終わらぬうちに老女はひっ、と声を上げ、腰を抜かしたかのようにその場にへたり込んだ。
「恵……恵じゃ……! しかし、死んだはず……!」
「恵……だと…?」
捕らえられ、俯いている女を見、へたり込んでがくがくと震える老女の腕を捕まえた。
「どういうことだ?」
「……川に……死体が浮かんでおりました……」
「顔は見たのか?」
老女は震えながら首を振った。
「盗人に襲われ血だらけで……恐ろしや」
顔を両手で覆い、今にも泣き出しそうな老女の細い肩を揺する。
「おい、しっかりしろ! 落ち着いてわけを話せ!」
苛立ち、今にも殴りそうになるのを懸命に堪えていた。
老女は激しく動揺していた。
「お顔は見ておりませぬ…なれど着物も持ち物も間違いなく……成仏できなかったのか」
念仏を唱え始めた女の方を捕まえたまま、庭を見る。
「口に何かかませろ!」
とっさに叫んでいた。
本当に恵かどうか、本当に怪しいものなのか、確かめねばならない。自害されては元も子もない。
抑えていた者たちもすぐに意を察したのだろう、道生の言葉が終わるより早く女の口に布切れを押し込んでいた。
真壁史彦の店の離れに、公蔵の姿がある。
史彦がすぐ横に座り、そして公蔵の前には要誠一郎が平伏していた。
「……恵が……逃げたと……?」
唸るように低い声を発したのは史彦だった。
誠一郎はさらに頭を下げる。
「面目ない……こちらの不手際です。
堂馬の到着が遅れた、僅かの隙に……」
「ふむ……」
史彦は腕を組み、ちらり、と公蔵を見た。
公蔵は盃を傾けながら、ふふ、と小さく笑った。
恵の想像したとおり―――
堂馬が恵を始末する手筈になっていた。
信濃に残しておいてもきっと抜け出す。
そう判断してわざと連れ出し、熊谷に留め置こうとしたのだった。
しかし、宿のものからの連絡によると要たちが宿を立った、その夜のうちにひっそりと抜け出したという。
「なんの。恵を女と侮ってはならぬ。良いだろう、大方の行方は見当つく」
「いかがなさる」
「ふむ」
盃を眺めながら首を傾げる。
「どうするかな」
長い沈黙の後、公蔵はぽつりと、
「無理に殺めることもあるまい」
誰にともなく呟くように言った。
上屋敷の奥座敷では、道生が老女と向かい合って座っていた。
老女の方はまるで呆けてしまったかのようにぽかんとして座っている。
道生は怒りに体を震わせていた。
調べていくうちにさまざまなことが明らかになっていった。
りんという娘がいたこと。
その娘は狩谷の家から遣わされた者で、聞いていくうちに由起枝を見張り、かつ、恵の様子を探っていたらしいこと。
二人は一緒に神社に出かけて帰らなかった。
やがて、袈裟懸けに切られ、無残に殺されたりんの遺体と、川に浮かんだ恵によく似た者の遺体があったこと―――
恵によく似たもの、は、着物や持ち物は恵と同じだったが、顔は判別がつかなかったという。
ただ、体格も似ていたので恵も襲われたのだ、と思った、という。
老女の記憶が確かなら。
それはすべて、仕組まれたことではないのか?
りんという娘は確かに顔も確かめたという。しかし恵の方は判別も出来ず、そして、今、老女が恵だと断言する女が現れたのだ。
だとしたら、恵は誰かにすり替わり、死んだことにした、ということになる。
何故、そんなことをする必要があったのか。
道生はそこにいた中間に老女を見張っておくよう、言いつけると恵を押し込めてある座敷へ向かった。
恵らしき女は口を封じられ、手足を縛られて床に転がっている。
足音に気付いたのだろう、僅かに顔を上げ、すぐに伏せた。
「……お前……本当に恵か? 俺の……乳母だった……」
答えはない。が、すすり泣く声がした。それが答えだった。
「何故だ。何故……死んだように見せかけてまで俺のそばを――― 」
言いかけて、唐突に――― まったく唐突に、母のもとにあった、光弘からの文を思い出した。
母でさえ見抜けなかった、巧みに拵えられた偽者の文。
何故、文のことを思い出したのだろう。
道生は懸命に繋がりを考えようとした。
自分でもよく判らない。しかし、どこかに繋がりがあるような。
「手荒い真似をしたな。お前ももう若くないというのに。すまなかった」
手首を縛った縄を解き、その両手首を捕まえたまま、じっと顔を見つめる。
間違いない。
記憶の底から懐かしい乳母の顔が浮かんでくる。
「どれほど会いたかったことか。どうか約束してくれ、自害などせぬ、と。そうでないと戒めを解くわけに行かぬ」
自分でもどこか口調がたどたどしい。
乳母に会えて嬉しいのはもちろんだったが、それ以上に疑惑が多すぎて、どうにも素直に喜べない。
頭の隅で、必死に文のことを考えていた。何故、あんなことを思い出したのか、それがどうしても判らなかった。
John di ghisinsei http://yokohama.cool.ne.jp/gisinsei1129/
2009/01/26