細波の下・17






 控えの間では果林が座っていた。
部屋の中央に座り、息を静かに大きく吸い、静かに吐く。
そうして全身で周囲の様子を伺っていた。
やや後ろに下がったところに小姓姿の僚が座っている。

 案内のものが二人をこの部屋に通した時、すでに総士は道生の部屋に向かっていたのだ。
そして、今はすでにこの屋敷にいないであろうことは果林も僚もなんとなく判っていた。

僚の視線がわずかに動く。果林は頷き、素早く小柄を抜くと座っていた畳の縁に軽く引っ掛けた。
そのまま宙に飛び上がる。小柄で引っ掛けられた畳が大きく跳ね上げられた。
同時に僚も動く。
めくられた畳の下の影に向かい、僚の手から細く尖った剣が放たれる。
影は声もなく沈んだ。

果林とて訓練は積んでいるが、さすがに死びとを見るのは慣れていない。
そむけた顔は蒼白だった。

「将陵どの、どうしやる」
声も、わずかながら震えている。
「他にも鼠はおるやも知れぬ。衛」
すぐにふすまが開いて衛が入ってきた。
「果林殿を」
言いかけて言葉を切って視線を走らせたとき―――
からりと反対側のふすまが開いた。
果林も衛もとっさに身構える。

「やれやれ……そう警戒せずとも良い」
道生だった。
相変わらず小太刀を構えたままの衛は無視して床下を覗き込む。

「狩谷の刺客か…」
ちぃっと舌を打ち鳴らすと僚を、そして果林や衛を見た。

「申し訳ないことをした。特にそこの……果林、であったか。怖がらせてすまなかった」
軽く頭を下げる。
「あとは俺がやる。狩谷の爺がやったことだろう。
お前たちは今のうちに……」
入り口を振り返る。そこには小楯が片膝をついて控えていた。

「小楯。今のうちに皆を連れ出せ。気付かれぬように」
「は」

「信用できるのか」
低い声で呟く僚に、道生は微笑みかけた。
「信用してくれ。総士ももう屋敷から出た。お前たちも早う」






 「思うていた人と随分と違っていた」
呟く声は梢をゆく風にかき消される。

 総士と一騎は屋敷からさほど遠くない、高い木の梢にいた。
一騎はわずか片手で木に掴まっている。もう一方の手は自分を支えているのだから、その膂力は驚くべきものがあった。

屋敷の庭に、人の動きが見て取れる。
剣司たち一行が屋敷から出るところだろう。


「兄者は……ああいうお人だったのか……」
「俺も…意外だった」
一騎も呟きを返す。



道生に関してはやくざ者であるかのような報告しか入ってこなかった。
それは、まったく的外れではなかったかもしれない、けれどそれは、総士を始めとする下屋敷の者たちが想像していたような、『苦労知らずの若殿様』の我儘ではなかったようだ。

お手玉の話を思い出しながら、そのようなことを思う。

木々の間に見え隠れする館の屋根を眺め、総士は道生が乳母のことを語った時の表情を思い出していた。

誰彼なく、お手玉は出来るか、と聞いているという。
恵が江戸を去った時、道生は八歳くらいだったと聞いている。
乳母の死は、幼かった彼の心にどれだけの傷を残したのだろう。

「少なくとも……兄者が敵でなくて良かった」
思わず呟く。
「俺も味方だよ、総士」
一騎が真剣な顔で見つめてくる。
「お前は当然だ」
一騎は声なく笑うと、手にしていた大小を改めて背中にしっかりと括りなおし、体を抱えてきた。

「このまま帰るぞ、総士。しっかり掴まっててくれ」
頷くと同時に視界が大きく変わった。耳元で風が唸り、木々は流れるように目の前を行過ぎる。

 兄者。もう少し早く会うていれば良かった。

胸の内で呟く。

振り返ってももう館の影は見えなかった。






 信濃から旅を続けてきた要澄美たちが熊谷の宿に着いた頃、ちらちらと雪が降り始めた。

「ここに来て降るなんて」
細く開けた障子から外を見、澄美はため息をついた。
「でも途中で降られなくて良かったこと」
「そうですね」
恵も頷いた。
「もし降られていたら難儀したでしょうね」
暗い空を見上げ、ため息をつく。

「さあ、お義母様、もう江戸まではすぐですよ。
お休みになってくださいませ」
「そうかい」
行美はにこにこと頷いた。
「じゃあ、先に休ませてもらうよ。足が痛うてたまらん」
「では足をさすって差し上げましょう」
恵は行美の布団の脇に座り、枝のように細い老女の足をさすった。

理由はなんでも良かった。
なんとなく、要夫婦のそばにいたくなかったのだ。
二人の、自分を監視しているかのような視線が痛かった。


しかし、その時間も行美が寝るまでのことでしかない。

「恵どの」
背中にかけられた要誠一郎の冷ややかな声に、一瞬からだが震えた。

「恵殿はこの宿に残りなされ」
「え」
驚いて振り返る。
「この旅籠に残っていなされ。じき、連絡のものがくる。そなたはここでつなぎを果たすのだ」
「……はい……」
頷くしか、なかった。

やはり、疑われているのか。
と、その時、今度は澄美が優しく声をかけてきた。
「疑っているわけではないのよ、恵殿。
ここにもうじき堂馬がきます。その時につなぎの者がいないと困るのですよ」
「……」
澄美の顔を見ても、その表情はどこまでも穏やかだった。

堂馬が今、会津の方にいるのは知っていた。
こちらを通るのだろうか。

「判りました」
こく、と頷く。
罠かもしれない、ということは深く胸のうちに留めておいた。

その可能性は充分にあるのだ。








いつもと変わらぬ庭の景色。
雀が踊るように尻尾を振り動かしながら庭石の上を跳ねてゆく。

雀の姿を目で追いながらも、道生の頭からはいつかの光景が離れない。

跳ね上げられた畳の下、倒れていた男。
果林の前に立ち塞がり、小太刀を構えていたあの男は、名はなんといったか。

果林は総士とそっくり同じ姿をしていた。
もう一人の少年も総士のものと同じ着物を着ていた。

彼女たちのような『影』が昔から総士の周りに何人もいたという。

「……」
今回のことにしても、下屋敷の者たちがみな、命がけで総士を守ろうとしているということが見て取れる。

 対して自分は。

自分の周りに、どれほどの味方がいるというのだろう。

無理もない。
父でさえ――― 敵なのだ。



 実際に総士に会って、随分と違うものだ、と思う。
上屋敷の者たちが口々に言い合っていたあれは、おそらく故意に流された噂であろうと思われた。

毎日茶の湯に現を抜かしている、器に目がない―――
そういった埒もない噂だ。

うつけであればわざわざ狩谷の者たちも命は狙わないだろう。
そういう意図の下、おそらくそれも総士か、その近辺のものが流した噂に相違なかった。

会えばそのような噂が嘘だということはすぐに判った。


 自分だけか、何も知らなかったのは。

否、知ってはいたのだ。
知っていたことの、何と浅く、判っているはずだったこの世の何と狭かったことか。


ころん、と畳に寝そべる。
弓に会いたい、と思った。
これほど寂しいと思ったことは、今までになかったかもしれない。





 公蔵が主だった重臣たちに集まるよう、命を下したのは一月も半ばを過ぎてからだった。

内容の想像は付く。
総士が来た時の出来事は全て、隠すことなく小楯を通じて報告させている。


いよいよ来る時が来たのだろう。


 とくに未練もなし。

寂しいといえば嘘になるだろう。
また、不安もないはずがない。

それでも、道生はどこかで安堵もしていた。
















 


 


John di ghisinsei http://yokohama.cool.ne.jp/gisinsei1129/

2009/01/24