細波の下・16






 上屋敷に様子を伺いに行った僚が戻ったのは、明け方近くになってからだった。
すでに総士も寝ている。剣司と一騎だけが宿直の間に詰めていた。

「……遅かったな」
心配していたのだろう、剣司の声には安堵の響きがあった。膝でにじり寄る。
「大丈夫だったか?」
「危なかった」
僚は短く答えた。その顔色からしても、尋常ではなかったことが窺い知れた。
「危なく囲まれるところだった。うっかりといつもの調子で行ったのだが……狩谷の家のものが次々にやってきている。警戒も厳しい」
「そうか……」
燭台の灯の中で、僚の瞳が鋭く光る。
「計画はそう動かす必要もないと思う。
おそらく……危ないのは館の中だ」
剣司が息を呑むのが分かった。

「明日にでももう一度相談しよう。果林とも改めて」
剣司の言葉に一騎も僚も無言で頷いた。





 それよりも少し前。
寒風吹きすさぶ中山道を行く、四人の旅人があった。
この時期に特有の乾いた、強い風にみな、綿の入った肩掛けの襟元をきっちりと締めている。
老婦人がいるせいか、その足取りはゆっくりとしたものだった。

 旅籠では加賀の呉服問屋の後家が息子夫婦と娘を連れ、江戸に住む孫に会いに行く、と言っていた。

「それは遠くからお疲れでしょう」
旅籠の女将は愛想良く迎え、早速温かい甘酒などを振舞った。
「ゆっくりお休みくださいね」
お辞儀をして出て行った女将を、後家はにこにこと見送った。

「さあさ、お義母様、熱いうちにどうぞ」
甘酒を差し出した嫁に複雑な笑顔を向ける。
「何だか悪いね。私なんかにこんな」
嫁は口元に指を当て、くす、と笑った。

嫁は要澄美であった。西尾行美を江戸まで無事に連れて行くために、夫と日野恵とともに信濃を出てきたのだった。

恵は窓の外の寒々とした風景を眺めていた。
葉の落ちた木々や背を丸めて歩く人々の影が雪国の風景よりもより寒さを感じさせた。

 道生殿はどうしておられるだろう。

西尾行美を江戸に呼び寄せることの意味が分からないわけではない。
道生がどうしているのかと、そればかりを考えていた。

「恵さん」
澄美の声に振り返る。
「あなたのお気持ちは分かりますが……良いですか、決して道生殿の前に姿を現してはなりませぬ。お分かりですね?」
「……」
恵はただ頷いた。もとより死んだものとされているのだ。会えるはずもない。
ただ、遠くからでもいい、ひと目会いたい、と、無理に同行したのだった。

「承知いたしております。……今さらどの顔でお会い出来ましょうや」
ため息とともに呟き、懐からお手玉を取り出した。
昔、道生に作ってやったものの一つで、これだけはどうしても手放すことは出来なかった。
 我が子同然に育ててきたのだ、どうして忘れられよう。
自らの役目を思えば会うわけにはいかない。
それでも元気でいるなら、遠くからでもその姿を見たかった。







自室で目を閉じ、神経を四方に巡らせる。
いつもの正月とは違う何かがある。

道生は静かに目を開けた。


正月を前に、狩谷の家のものが何人も来ていた。
表向きは挨拶、と言っているが狙いは総士だろうことは何も聞かずとも分かる。

 この屋敷内で狙うとはいい度胸だ。

仮に屋敷内で誰かが暗殺されたとしても公になれば公儀が乗り込んでくる。公蔵はそれを恐れ、ことを闇に葬り泣き寝入りするだろう。
実際に、今、騒ぎが起こって困るのはこちらの方だ。
それが分かっているから狩谷の者たちも大胆な手を打ってくるのだろう。

 日が沈み、部屋が暗くなってくる中で道生は宙を見据えて動かなかった。

 これは何としても総士を無事に帰さねばならない。

赤子の頃に一度、会っただけの、名ばかりの兄弟に過ぎない。それでも時おり、会いたい、とは思っていた。

 肩入れするわけではない。
 ただ、狩谷の者どもが気に入らない。

たまにしか会うこともなく、その時も滅多に口を利くことすらなかった狩谷の祖父よりも、身近にいた公蔵の方により親しみを覚えるだけのことに過ぎない。

あの祖父――― 狩谷の人間に傀儡として扱われるより公蔵に手打ちにされる方がましだとさえ思えた。

この皆城の領土が天領とされるまでの人形としか見られていない自分だった。
その人形が意志を持った時、どうなるか。

 思い知るが良い、祖父殿。

父だなどと思いたくない。
あくまでも祖父に過ぎなかった。

それぞれの思惑を乗せて、年は暮れようとしている。




 
年の瀬も押し迫った頃。
 
 上屋敷に向う、剣司を乗せた籠が下屋敷を出発するよりも一刻ほど前。
下屋敷の裏手から出てくる二つの影があった。
笠を目深に被った浪人で、その顔は見えない。
「だから止めよと言ったのだ、このような時に仕官など……無理に決まっておろうが」
「しかしこのままでは餅も食えぬ」
気落ちした様子で呟きながら二人は町中に消えて行った。

 町外れの神社に、再び浪人たちは姿を現した。
一騎と総士だった。
 「大丈夫だったか?」
そっとあたりを見回しながら総士が小声で尋ねる。一騎は頷いた。
「大丈夫だ。誰もつけた様子はない」
二人きりになるとやはり、昔の幼友達の口調になる。
笠の縁に手をかけて町を眺める総士の横で、一騎は日の動きを見ていた。

「そろそろ……だな。総士。いいか?」
総士は頷き、袴の裾を括り上げた。笠も取り、紐でしっかりと縛って抱え込む。
一騎もまた、袴の裾をきっちりと括り、さらに袖も短く畳み込んだ。
「では……行くぞ」
小声で囁くように言うや否や、総士の体を抱え上げ、木の上に飛び上がった。
そのまま神社の森を超え、上屋敷にほど近い寺の裏手に下りた。

すでにこの辺りは下調べがしてある。
一騎は慎重に辺りを伺いながら括っていた袴の紐を解いた。
無言で総士の腕を引く。しばらく藪の中を行くと、いきなり開けた場所に出た。

上屋敷の勝手口の方にあたる、小さな木戸を、一騎はほとほとと叩いた。





 正月は公蔵は登城することになっている。
そのために来客へのもてなしなどは小楯が一手に引き受け、あれこれと指図を飛ばしている。

その小楯が道生の部屋にやってきた。
「どうした。何ぞ起こったのか」
「は……ちょいとお耳を」
そばににじり寄り、耳元に囁く。
「なに……」
道生は驚愕を隠さなかった。
「弟御が。まことか」
驚くと同時に、喜びもまた、湧きあがってくる。

「どこに待たせているのじゃ、真っ直ぐここへ連れて参れ」
「は、それが」
小楯は言葉を濁し、目配せした。
「……」
狩谷の邪魔が入ったのだろう。
「よい、部屋に連れて参れ」
「は」
小楯は一礼すると部屋から出て行った。




通された部屋には果林が座っていた。
僚がその横に控えている。総士の替え玉としてこの部屋で案内を待っている風を装っているが、すでに総士の方は道生の部屋に向かっていた。



 総士を待たせてある部屋に行こうとした小楯は向こうから歩いてくる姿に驚いた。
慌てて駆け寄る。
「今お迎えに上がろうと。こちらです」
そのまま、小楯は何の疑いも抱かず、総士の前にたって歩いていった。



初めて対面する兄であった。
小姓姿の一騎を伴い、部屋に入る。
正面に座っていた青年は人懐っこい笑みを浮かべた。
「初めてだな、弟御。正月になるまで会えぬと思うていた」
「はい、私もです」
総士は思わず微笑んでいた。

道生は立ち上がり、すぐそばに来て座った。
「赤子の頃にお目にかかったことがある。
生まれたばかりであった。……ご立派になられた」
「は……お噂だけは伺ってました。いつかお目にかかりたいと」
「本当か?」
悪戯っぽく笑いかける。
総士は微笑んだ。
「はい、お会いしとうございました。どのようなお方かと」
「良い噂はないだろう」
そういうと豪快に笑い飛ばす。
ふと、笑いを収めた。
「時に総士。お前はお手玉は出来るか?」
言いながら、棚から何かを取り出した。お手玉だった。
だいぶ古いものらしい。色あせ、所々ほつれを繕ったあとが見える。
「お手玉…ですか。やったことはありますが……あまり上手では」
何故このような話が振られたのかも判らないまま、戸惑いながら答える。

そういえば道生の身辺を探らせていた者たちの報告の中に、誰彼なく同じ質問をしている、ということがあったな、と今になって思い出していた。
「兄者はお手玉がお好きで?」
「おう、好きだ。昔、乳母が教えてくれた」
「お乳母どのが」
「うむ」
お手玉を手の中で弄び、さらさらと音を立てるそれを見つめている。
「もう前に殺されたがな」
「……」
ちらり、と一騎を見る。一騎も軽く頷いた。

道生の乳母だった恵については史彦から報告を受けている。殺されたと見せて江戸を逃れ、信濃に落ちたはずだった。

「今でも忘れぬ。羽佐間の姫も嫌いではないが姫の乳母殿がな。恵に似ている」
そう言って苦笑した。
「どうしても恵を思い出す。だから姫には悪いと思っているのだが……通う気になれなくてな」
「……」
そういうことだったのか。
総士は意外な面持ちで兄を見た。
もっと他の理由を想像していた総士は少なからず驚いていた。
同時に兄の別の一面を見た気がする。

 兄者はこのようなお人だったか。

乳母を慕い、懐かしむ。ごく自然な感情ではあれど、それは兄に似つかわしくないように勝手に思っていた。

「……兄者は……お優しいのですね」
「なんの」
道生は照れたように笑い、お手玉を棚の小箱にしまいこんだ。

「どれ。せっかくお前が来てくれたというのに。茶の支度も出来てはおらぬ。野点には寒いな。
…そうだ、庭を案内しよう」
総士が何か言いかける間もなく立ち上がる。

手入れの行き届いた庭は、今は山茶花がいっぱいに咲いていた。
ほとんどの草木が枯れている中で華やかな紅白の山茶花は庭に彩りを添えている。

「見事なものですな」
歩きながら呟いた総士に、道生は、
「こちらを」
と、さらに奥に行く道を示した。
「こちらに池がある。なかなかに深い。大きな鯉がおりますぞ」
持っていた扇子で池の方を指しながら小声で、
「あの小姓……ただの小姓ではあるまい?」
と囁き、一騎の方に視線を走らせる。
「え……」
道生の横顔はこちらを見ていない。池の鯉を見ている。
鯉の泳ぐ様を見ながらさらに小声で囁いた。
「逃げよ」
「兄者」
「この池に沿って奥に行け。裏の森に出る。そこから逃げよ。狩谷の者が狙っている」
「……」
「この鯉は」
道生は朗らかに語り続ける。
「わざわざ越後の方より取り寄せたものとか。爺様よりの贈り物じゃ。もっとあちらへ行こうか。庭石も見事なものがある」
そう言ってさりげなく奥の方に連れて行こうとしている。
道生の従者たちはここまでは入ってこられないことになっている。家族だけの場所でもあるのだ。

「さあ、行け」
繰り返し、小声で囁く。
総士は一騎を見た。ずっと総士の刀を持ってついてきていた一騎は道生に軽く一礼すると、総士の体を抱きかかえ、宙を飛び、裏庭から屋根を越えていた。
まだ果林が屋敷に残っている。そちらは僚が守ってくれるだろう。
今は総士だけでも少しでも早く屋敷から逃れさせる必要があった。



















John di ghisinsei http://yokohama.cool.ne.jp/gisinsei1129/

2009/01/01