細波の下・15






 総士たちが下屋敷で密談をしている頃。
状況は大きく変わろうとしていた。



道生は廊下を急ぎ足で由起枝の部屋に向っていた。
その足取りは浮き立つように軽い。
実際、浮き上がりたかった。
弓が妊娠したのだ。
これ以上もない喜びに、思わず中庭を飛び越えたくなる。


由起枝の部屋の襖を開けようとして、足が止まった。
中から低い男の声がする。それに答える母の声もまた低く、なんと言ってるのかは聞き取れない。

道生は少し後ろに下がった。
あの声はどこかで聞いたことにあるような。

しばらくして襖が開き、男が出てきた。
廊下の隅にいた道生を認め、僅かに会釈する。
道生も頭を下げた。

 あの男、どこかで。

しかし、思い出せない。
 男が行き過ぎるのを待って母の部屋の襖を開けた。
「母上、今の―――」
「あ」
と、由起枝は慌てたように持っていたものをばさばさとたたみ始めた。
「……母上? なんです、それは」
「な、なんでもない…!」
「何を慌てているのです」
「お前こそいきなりなんです!」
金切り声を上げる由起枝から書状を取り上げる。

「これは…爺様の?」
眉を顰め、書状を見る。
「そ、そうです、父上からの書状ですよ。お前には関係はありません。さ、返しや」
「……」
その由起枝の様子からして、疑うな、という方が無理であった。

「母上、この書状は? そして今……」
言い掛けて思い出した。
あの男は、まさに祖父のところで会った男だ。
確か、伊戸という名前だったように思う。
爬虫類のような目をした、無口な男で、あまりいい印象は持っていない。

「あの人が何故ここへ?」
この書状と何か関係が、と思い、目を走らせて道生ははっとした。

「……母上……これは……」
「お前のためです!」
由起枝は居直ったように叫んだ。
「何もかも、お前のためにしたことですよ!」
「……母上……あなたという人は……」
書状を持った手が震える。

それは光弘からのもので、自分との間に出来た子供をうまく公蔵の跡取りとすれば由起枝たちの身分は生涯保証する、さらに、皆城の領地を天領とすべく努力すればお上の覚えも目出度いであろう、といったことが書かれていた。

 「……爺様が……私のまことの父上であったのか……」
呆然と呟く。
だとすれば、公蔵が自分に冷たい理由も分かる。
おそらく、公蔵は何もかも知っているのだろう。

最後に、この書状は読み終えたら処分するように、と書かれていた。

「母上、母上は何故これをすぐに処分せずに……」
母はふん、と横を向いた。
「何があるか分からぬ。そうなった時、逆にそれで光弘殿を――― 」
「……なんという……」
道生はこれまでの浮き立った気分がきれいに吹き飛ぶのを感じた。

「愚かな……なんという、愚かなことを、母上」
苛立ち、母の手を掴んで廊下に引きずり出した。
部屋では、誰に聞かれるか分かったものではなかった。

「何を……!」
「しっ!」
中庭にかかる小さな橋の上に立ち、あたりを見回す。
「……母上。この書状は偽ものですぞ」
「……偽物……?」
「花押が違います。お気付きにならなかったのか?」
「……」
日の落ちかけた、薄暗い中庭で由起枝は花押部分を覗き込んだ。
「よく似せてあるが違う。これは……すりかえられたものでは?」
「え……っ」
「誰か他にこの手紙の存在を知っている者は?」
「いるはずがない……」
呆然としたように呟く。
「……」

なんとなく、見当がつくような気がする。
誰、というのは分からない。分からないが、しかし、この書状の存在はおそらく、公蔵にも知られているのだろう。
もしかしたら、光弘もすでに知っているかもしれない。

もし、すりかえられていて、光弘が本物を取り返そうとしていたとしたら……?

背中に冷たいものが走る。

「母上、今日はお願いがあって上がったのです」
書状を小さくたたみながら言った。
「弓が身ごもりまして」
「……な……」
「それで宿下がりのお許しを頂きたく」
「生ませるおつもりか?」
道生は頷いた。
「当然です。母上にも喜んでいただきたい。孫が生まれるのですぞ。……今、これを見つけて」
手の中の書状に目を落す。
「……急がねばならないと思う……もしかしたら弓も狙われるかもしれない。そうなっては一大事。
よろしいですね?」
由起枝は放心したかのような顔でこくん、と頷いた。

書状が盗まれているかもしれない、その恐怖に弓のことなどももはやどうでも良くなっているのだろう。

「母上。これは私が預ります」
「……それは……もし、約束が守られなかったときは」
「まさかこれで爺様を脅すおつもりだったのではありますまいな?」
「……」
ため息しか出てこない。
「母上、そのようなことをしたらそれこそ破滅です。
私ももろともに殺されます」
「だからその書状を持って……!」
「まだ分かりませぬか」
焦れてくる。どうしてこの程度のことが分からないのだろう。

「母上のお考えなど爺様に判らぬはずがないでしょう。
爺様は母上よりも何手も先を読んできます」
ようやく分かったのか、由起枝は不安そうに視線を漂わせた。
「……どうしたら良い……」
「どうも」
暗くなってゆく庭を眺める。
「ともあれ、母上は今までと同じように振舞ってください。これは私が預ります」
言うなり、道生はその場からさっさと離れた。
忌々しさに叫びたいほどだ。


女の浅知恵とはよく言ったものだ、と思う。
本当にあの程度で光弘に勝てると思ったのか。

「……」
今まで祖父だと思っていた人が実の父だったのだ、ということに思い至って、道生は廊下で立ち止まっていた。

何となく、公蔵の実の子ではないのだろうことは分かっていた。分かっていても、やはり衝撃だった。

公蔵は一応は息子として自分を立ててくれている。
腹の底で何を考えているかは分からないが、それでも辛く当たられたようなこともない。
ただ、どこか空々しい、という印象を持ったことが何度かあった、というだけに過ぎない。

あれでも立派な父であったのに。
そうして、弟がやはり本当の弟でなかったことに失意とも寂しさともつかない何かが沸いてくるのを感じていた。





 正月に上屋敷に行くために、総士は風邪を引いたために籠を使う、と父のもとへ伝えさせた。
むろん、本当にその籠に乗るわけではない。
乗るのは、剣司だった。そして横に早乙女もつき従う。

 下屋敷から上屋敷への道には、一箇所橋を渡らねばならない場所がある。
いつもの茶室の奥に、総士は皆を集めていた。

「この橋は」
僚は畳に広げられた地図の上に印をつけた。
「だいぶ古くなっています。一騎の報告では事故に見せかけて、と言っていたとか、この江戸市中で事故に見せかける、というのは簡単ではありませぬ。
あるとすれば……」
「橋か」
早乙女が図面を覗き込む。僚は頷いた。
「ここを俺が通るのだな」
剣司も食い入るように見つめている。その顔は緊張に引き攣っていた。

「それともう一つ」
今度は少しそれた、細い道を指す。
「この道筋に呉服問屋がありましたが、先日の火事で焼け落ち、今、急ぎ再建しております。
この二つくらいでしょう。他にもし何かやるとすれば向こうも相当に覚悟をしなくてはならないはず、そこまでするとは思えませんが」

 確かに僚の言うとおりだろう。
公蔵も道生を廃嫡すると言い出したわけではない。
黙っていても転がり込む藩主の座のためにわざわざ自ら疑いを招くような事もしないだろう。

「あと一つ考えられるのは」
僚は懐から別の地図を取り出した。
上屋敷の見取り図だった。

「若がお屋敷に上がってから、ですな。考えたくはないが……」
早乙女は眉を寄せ、総士を見た。
「……若。どうあっても上屋敷に出向かれますので」
「行かねばこの先が大変であろう。父上もそのように望んでおられる」

 父からも、そろそろ挨拶くらいは、と言ってきている。いい加減、周囲の声も抑えきれなくなってきているのだろう。


「兄上にもお会いしたい。どのようなお人なのか、興味がある」
幼い頃から長く父のそばにいた兄への、抑えがたい嫉妬と羨望、同時に、純粋に興味があった。



「一騎」
僚に呼ばれて、地図を見ていた一騎は顔を上げた。
「お前は若をお守りいたせよ」
「……」
無言で頷く。

その時、入り口を見張っていた衛が早足で部屋に入ってきた。
「咲良から使いが」
そういって持っていた細い紙片を差し出す。受け取った総士はさっと読むと、早乙女に渡した。
「弓殿が懐妊したとある。これはもしかしたら上屋敷の方で何かあるやもしれぬ」
「それだけではありませぬぞ、若、由起枝殿が……」
総士は目を細め、頷いた。
僚の方を見、わずかに頷きかける。僚はすぐに意を察したように、頷き返し、部屋を後にした。


しん、と部屋に沈黙が下りる。
年の瀬とともに、見えない何かが近づいてくるのを誰もが感じていた。

















 



John di ghisinsei http://yokohama.cool.ne.jp/gisinsei1129/

2008/12/13