細波の下・14






 皆城邸を出た後、将陵僚はしばらく周辺の様子を見ていたが、やがて町に降りた。
一騎の家に行くつもりだった。


 一騎が座敷牢に押し込められているのは知っている。
史彦はまだ一騎を許したわけではないのだ。

 さすがに史彦の家に忍び込むのも躊躇われ、僚は勝手口から入り、手塚に案内を乞うた。


父にこのような場所に押し込められた理由は一騎にも分かっていた。
 いくら総士があのように言ったからとて、他の者の手前もある。
おいそれと許すわけには行かないだろう。
また、一騎もそれを望んではいなかった。


 こちらへ向ってくる足音に一騎は全身を緊張させた。
聞いたことのある音だ。一つは手塚だろう。
もう一つは。


からり、と戸が開いて影が滑り込んでくる。

「……兄者……」
「久しいな」
前と変わらない、柔らかな笑みに、一騎は頬に血が上るのを感じた。たまらず、頭を下げる。
「……すまぬ…」

ふふ、と薄闇の中、僚の笑う声が聞こえた。
「前と変わらぬな。……いや。逞しゅうなった」
「そうか?」
こくん、と頷く。

外から声がする。手塚だった。
火鉢と少しばかりの食事を持ってきていた。
「今宵は旦那様はお出かけです。
どうぞごゆっくりなされませ」
人のいい笑みを浮かべた手塚に、一騎は深く頭を下げた。


「本当にいい御仁だな」
僚は胡坐をかき、せっかくだから、と膳を引き寄せた。
「うまそうだな。どうした。一騎も食え」
「……ん……うん……」
膝の上で握り締めた拳が震える。

「若様……大丈夫だろうか…」
「大丈夫だ」
僚は軽く笑い、すぐにその笑いを納めた。

「今のところはな。若も何もご存じないわけではない」
そうして苦笑する。
「お前も聞いたろう? 若の噂は」
「噂……あの……」

確かに、聞いた。

「あれは俺たちが流した」
「…えっ……」
驚いて僚を見る。僚は漬物をつまんで口に放り込んだ。

「江戸に来る前から分かっていたんだ」

江戸に先行した溝口の報告を待つまでもなく、それ以前から何とか総士を亡き者にしようという動きがあることは知れていた。

そして、江戸に入ってからは肌に感じられた、という。

「何がどう、といえるものでもないが……若もお小さいなりに悟ったのだろうな。
うつけであればそうそう狙われもすまいよ」
「そうだったのですか」

あの太刀筋といい、鋭い視線といい。
巷で言われているようなうつけではないことは確かだ。
だから、今の僚の話を聞いて、自分の目は間違っていなかったのだ、と安堵もしていた。

「正月に挨拶に行かれるというが」
僚は一騎にも飯を勧めた。
「お前はどう思う?」
「危険だと」
一騎は答えた。
「お方様がどのように出られるか……」
僚は頷いた。
「そのあたりも若は考えておられるだろうな。
あのお方のことだ、不意打ちをかけるような気がしてならない」
何しろ悪戯がお好きだ、と付け加えて笑った。

「お前にも働いてもらわねばならぬ。
…江戸に来られて一番不安だったのはお前がいないことだったろう。
剣司や衛も腕は立つが…」
言わんとすることは分かる。

剣司たちもそれなりに腕は立つが、それよりも何かあったときに総士の身代わりとなることが中心だった。
総士の周りを探り、護るのは一騎の役目だった。

「俺はこれから上屋敷の方を探ってくる。
お前のお父上にも報告しておく。いずれ、何かしらの話があろう」









 「弓は良くやってくれているようだ」
史彦の酌を受けながら公蔵は上機嫌だった。


町をうろついたりやくざの真似事をしたり、ということが納まった代わりに、弓にべったりで離れようとしない。

道生擁護派だった者たちも、さすがに今のその様子には眉を顰めるようになってきていた。

何しろ政務にまで弓の意見を入れようとする。
反発が起こるのは当然であった。

「弓はよほどに扱いを心得ておるようじゃな」
「……」
それが芝居でなければいいが、と史彦は思っていた。

総士がそのようにして辛くも命をつないできたように、あるいは道生もなんらかを察してそう振舞っている、と思えなくもない。
道生もそれほど馬鹿だとは史彦には思えなかった。


「お前ももっと飲め」
史彦は勧められるままに盃を受ける。
「しかし殿、もしお子が生まれたらどうなさるおつもりで」
「うん? それは千鶴に言うてある。別に構わんよ。
なんなら養子という形で引き取っても良い」
「後々争いのもととならなければ良いですな」
「なに、それは大丈夫じゃ。場合によっては……どうなるか分からんが」
その鋭い視線に思わず頷いていた。

「どちらにせよ、そうなったら弓は今の役目から解く。
その方が良いだろう」
一人呟くように言って酒を飲む。
史彦はその俯けた顔をじっと見つめていた。


ふと思い出したように公蔵が顔を上げた。
「そうじゃ、真壁。お前は息子をまだ座敷牢に入れているそうだな」
「当然」
史彦は残った酒をあおった。
「そろそろ出してやれ」
くすくすと笑みを漏らしながらの言葉だった。
「子供じゃ。もういいであろう。もう二度とあのようなことはすまいよ」
史彦は黙っていた。

誰よりも、自分が一番に許してやりたかったのだ。

殿がお許し下されれば。

重いものが一度に降りた気がした。








 下屋敷には、実は二つの茶室がある。
一つはごく普通の茶室で、もう一つはそこから続く、隠し部屋になっている。
見た目は茶室と変わらない。
が、その壁は厚く、床下というものもない。

公蔵が秘密に作らせた、密談用の部屋だった。

総士がよく篭るのはそちらの方だということを知っているものは少ない。
剣司や衛、果林など、ごく近くに仕えるものだけだった。

その部屋で今、総士は絵地図を広げ、考え込んでいた。
地図を指でなぞり、腕を組み、またなぞる。
ところどころで指を止めて考え込む。

しばらくして小さく首を振り、明かりを消して部屋を出た。


早乙女が滑るように廊下を走ってくる。

「若。真壁が参っております」
「通せ」
「……は」

真壁一騎がようやくこの屋敷に出入りを許されるようになったのはここ数日のことだった。
正月も近い。
何かと商人の出入りの多い今のうちにまぎれて一騎を藩士たちに真壁の二代目として慣れさせておきたい、という、総士の強い希望によるものだった。



三方に乗せられた茶碗を手に取り、回してみる。
「ふむ。上物だな」
総士は茶碗を裏返し、遠目に眺める。
「この歪み具合。なかなか良い」
庭先に座った一騎は嬉しそうに顔をほころばせた。
「はい。銘はございませんがおそらくは埋もれたる名人の手によるものかと。
一昨日でございますか、近江商人から買い取りましてございます」
一騎はいかにも商人らしく手をすり合わせる。
「これ」
早乙女は苦々しげに総士を見、一騎を見た。
「そう若を惑わせるではない。それに――― 」
声を潜める。
「我が藩にこのようなものを買い取る余裕などないことはその方がよく存じておろう」
「はい、それは良く」
にこにこと笑いながらしれっと言ってのける一騎に早乙女は軽く舌打ちをした。

皆城の家が今、曲がりなりにも大名家として立っていられるのも、真壁家からの膨大な借財によるところが大きい。
むろん、それは主である皆城公蔵と真壁史彦の間のことで、史彦はこの家のためならいくらでも金を出したし、またそれを取り立てることもしなかった。

かといって、大名たるもの、町人にいつまでもたかっているような今の状態を良しとしているわけでもない。

「ご懸念には及びませぬ」
なおも一騎はにこにこと言った。
「良いものには違いませんが、銘がございませぬ。
それゆえ、破格にて買い取りましたもので」
「いくら破格とは申せ……」
早乙女は渋面を崩さない。
一騎は三方をさらに総士の方にずい、と押し出した。

「もとより御代を頂こうなどと思うておりませぬ。
これにて若様が茶の一服なりと楽しまれれば幸いと思いまして」
そのとぼけた口調と、総士のきつい視線に、早乙女は苦笑した。

なるほど。

要するに密談をさせろと言っているのだろう。

 しかし、ここは一応は言っておかねばならない。
早乙女は廊下を行く総士を追いかけた。
「若。ちょっとよろしいですか」
「なんだ」
「……若。若はあまりに気安う振る舞いが過ぎると存じます。真壁の場合はまあ……仕方ないとしましてもそれでなくとも家中には若を良く思わないものが多うございます」
「知っている」
僅かに口元に笑みを浮かべる。
早乙女は深々と頭を下げた。
「それでしたら尚のこと、どうかこの爺のこともお考え下され」
総士はそれこそ女のように扇で口元を押さえて笑った。
「考えているとも。爺も今日は同席するのだ」
「……は?」
「耳が遠くなる歳でもあるまい。同席せよと申した」
「……」
それでも早乙女は聞き間違いか、と総士の顔を穴のあくほど見つめていた。



そうして。
茶室の奥での話し合いは日が沈むまで続いた。














 
 


John di ghisinsei http://yokohama.cool.ne.jp/gisinsei1129/

2008/11/28