細波の下・13
茶の作法など、この場に来て一騎はきれいに忘れていた。
子供の頃から叩き込まれていたものも、極度の緊張の中にあっては何の役にも立たず、ただ湯飲みを抱えて飲み干し、菓子に食らいつく。
総士の口元に僅かに笑みが浮かんだ。
「相変わらずだな、お前は」
一騎はおずおずと顔を上げ、総士の顔を見た。
初めてまともに見たように思う。
長い髪を後ろで軽く束ね、前髪は下ろしている。
その下ろした前髪は目の傷を隠すためのもののようだった。左目のあたりを覆うように流れる髪。
「……総士……あの……目は」
入り口に控えていた剣司が僅かに視線をこちらに向けたのが分かった。
総士はふ、と笑った。
「見えぬ。見えぬが不自由はない。
むしろ…両目が見えていた頃よりもより様々なものが見えるようになった」
軽く笑い、菓子を口に運ぶ。笑ってはいるが、その声は僅かに震えていた。
もっとよく顔を見たかった。もっと近くで。
それでも、今はこれ以上は躊躇われた。
しばらく、そうして二人で茶を飲んでいた。
特に言葉はない。時おり向けられる総士の視線に戸惑い、ぎくしゃくと茶碗を持つ。
湯の沸く音だけが支配する小さな部屋の中で、時だけが流れてゆく。
二人の間には確かに張り詰めていたものがあったはずだった。
それが湯の沸く音とともに溶けていくような。
一騎だけの錯覚かもしれない。
それでも、確かに何かが緩んでいくのを感じる。
ようやく総士が口を開いた。
「お前はこれから真壁の二代目としてこちらへ出入りせよ。早乙女にもよく言っておく」
「はい」
俯いたままの総士の表情は読み取れない。
一騎はしばし、その横顔を見つめ、立ち上がった。
剣司も同時に立ち上がる。
「途中まで送ろう」
「……」
何か言いたげな剣司の顔にただ、頭を下げる。
屋敷を出るなり、剣司は大きく息をついた。
「この馬鹿野郎」
「……分かってる」
「分かってるなら……まったくこっちは苦労したんだぞ。若はあんなだし……」
「あんな、って?」
あの悪評のことだろうか、と思う。
総士についてはいい噂は聞かなかった。
剣司は表情を曇らせた。
「……まあ…そのうちお前も分かるだろうよ」
「それにしても若様…剣の腕は相当なものだな」
噂では遊んでばかりで剣術をやっているようなことは何一つ言われていなかった。むしろそういったものを蔑ろにしている、と批判されていたものだ。
それをいうと剣司は頷いた。
「人前では決して稽古なんかしないからな。
……お前がいないから余計にな」
じろ、と睨まれて一騎は項垂れた。
「……悪かった……」
「本当だ。これからはしっかりとお役目を務めてもらわないと」
そういうと剣司は足を止めた。
「この辺りでいいだろう。今日は真っ直ぐは帰るなよ」
「分かってる」
すぐにその意図を察して頷く。
あの屋敷はそこいら中に狩谷家の者が入り込んでいるのだ。
その中で、総士の味方は本当に少ない。
どのような思いで今までを過ごしていたのだろうと思うと今さらのように総毛立ってくる。
分かっていたのに。
幼い頃から側近くにいて、そのことは良く承知していたはずだったのに。
再び、あの音がする。
耳元を掠めた刀の、空を切る音。
一騎は首をすくめ、遠くなった屋敷の方を見つめていた。
今回が最初で最後になるかもしれない、と思いながら道生は翔子のいる部屋への廊下を歩いていた。
弓に何度もかき口説かれ、仕方なく翔子の元へと足を運ぶことにしたのだった。
「私を大事に思うて下さるならどうか姫様の所にもお運びくださいませ」
そのように泣かれてしまっては道生にもどうにも出来なかった。
実際、最近では由起枝に睨まれていることでもある。
女の泣き言に付き合うのは性に合わないが、役目と割り切れば出来なくもないだろう、と思うことにした。
やがて、先を行く女童が部屋の入り口で平伏した。
そこにはまるで雛人形のように愛くるしい少女が座っていた。
祝言の時以来である。
「……ご機嫌よろしゅう」
なんと言ったらいいのか分からずにそのような言葉を口にしてみた。
翔子はにっこりと笑った。花の咲くように笑う少女だ、と思った。
「ご無沙汰いたした。許されよ」
「いえ。若様はお忙しいと伺っておりますゆえ」
皮肉か、とも思ったが、そうでもないらしい。
少し下がったところに控えている少女の乳母を見る。
この乳母が、実は道生は苦手だった。
恵に似ている。
記憶の中で、もうはっきりした顔かたちも思い出せないでいる乳母に、雰囲気が似ているように思えてならないのだ。
「退屈はしておらぬか」
翔子はおっとりとあたりを見渡した。
そして、小首を傾げて微笑む。
「京はこのように賑やかではありませぬ。ここにはいろいろなものがあるのですね。
昨日は容子にお祭りに連れて行ってもらいました」
「祭り、ですか」
最近、祭りなどあったろうか、と考える。
市の出るあたりはいつも賑やかだが、祭りとは違うようにも思う。
「猿回しというものを見物して参りました」
「……はあ」
猿回し。すると芝居小屋か何かあって、その付近で何か市でも立っていたのだろう、と想像した。
「そのような場所は危のうござる。お二人で行かれたのか?」
「あら。そうなのですか」
本当におっとりとした少女だ。乳母も乳母だ。
「容子殿。今度からそのような時には母上に相談してくだされ。危険です」
「はい、申し訳ございません」
容子もただ、おろおろしているようで、この二人は江戸に来てからどのように暮らしていたのか、と眩暈がした。
自分にも責任はある。
放っておいたのは自分なのだから。
こっそりとため息をつき、部屋の中を見る。
「翔子殿はいつもは何をしておられる。時々琴の音が聞こえるようだが」
「はい、先ほども」
嬉しそうに微笑む。
「良かったら聴かせてくれぬか」
あまりに嬉しそうな笑顔に心にもないことを言ってしまっていた。
しかし不思議なことに、こうしていると心が穏やかになってくる。
翔子に対して、妻に対するような愛情は持てそうにない。むしろ、妹のように思えた。
このような妹がいたら楽しかったろうな、と思い、そして―――
弟のことを思い出していた。
おそらくは血の繋がりはないであろう弟。
幼い頃に見た弟はまだ生まれたばかりの赤子だった。
以来、会っていない。
今は下屋敷に暮らすというが、僅かの距離であるのに顔を会わせた事がなかった。
いつまでも会わないまま、というわけにもいかないだろう、と思う。
この正月には来て貰わぬとまずいだろうな。
仮にも弟が新年の挨拶にも出向かない、となれば弟のためにも良くないだろう。
琴の音を聴きながらそのようなことをぼんやりと考えていた。
暖かな光の差し込む部屋で、総士は文机に向っていた。
頬杖をつき、いかにも詰まらなそうに筆を動かしている。一応、論語の本が開かれていて、その姿を見た者は論語を写し取っているようにも見える。
その文机のすぐ横に置かれた衝立の内側に、一つの影があった。
「ほう。兄上がついに折れたか」
影に向って総士が呟く。影は頷いた。将陵僚だった。
「はい、咲良が知らせて参りました」
咲良とは弓についている侍女だった。史彦が差し向けたもので、弓との連絡係を務めている。
「さて。どうするかな」
総士は空に筆を遊ばせた。
「姫との関係がうまく行っても面白うない」
「ご心配には及びませぬ。道生殿は妹のようじゃと申しておられたとか」
「ならいいがな」
相変わらず筆を動かしながらの、ごく低い声での会話だった。
廊下に誰かいたとしても聞こえないだろう。
部屋の入り口にはいつものように剣司と衛がいるが、その二人にも聞こえてはいないだろう。
「堂馬殿からの連絡も気になりますな」
総士はちら、と僚の顔を見た。衝立の陰になっていてその表情までは良く見えない。
「何かあるとすればいつだと思う」
僚は、はて、と首を傾げた。
「私はこの正月頃だろうと思うが。さすがにこう何年も挨拶に出向かないのはまずかろうよ。
いくらうつけのお控え殿でもな」
目を細め、ふふ、と皮肉な笑みを浮かべる。
「すると新年のご挨拶には」
「おお、此度は行かねばなるまいよ」
僚は小さく息をついた。
正月はいくら小さな藩であってもそれなりに人出がある。どんな手でも使えるだろう。
こちらもそれなりに人を増やさなければどうにもならない。
「まあ良いわ。そのうち父上から何か言うてくるであろう。それからでも遅くはない」
筆を置く。僚はその机の上を覗き込んだ。
「……文は出来上がりましたので?」
総士はきょとん、とした顔で僚を見、笑った。
「これか。これはただの落書きじゃ。遊んでいただけのことよ」
僚はがっくりと肩を落とした。
「……若は悪戯がすぎる。私はそれをお届けするのかとお待ちしていましたに」
「それは」
くすくすと肩を揺らす総士を、僚は意外な面持ちで見つめていた。
以前はこのような笑顔は見せたことがなかった。
「よい、下がれ」
「はい。……若」
僚は改めて片膝をつき、頭を下げた。
「……一騎がこと。かたじけのうございました」
総士は答えない。ふと庭を見る。
次に視線を戻した時にはもう、そこには僚の姿はなかった。
John di ghisinsei http://yokohama.cool.ne.jp/gisinsei1129/
2008/11/24