細波の下・12






 屋敷に上がった弓の方は、何度か道生の相手をしているうちにすっかり気に入られ、今では屋敷内に一室あてがわれるほどになっていた。

それを知った由起枝が怒り狂ったのはいうまでもない。

公家の姫の許へも行こうとせず、日向に寝転んで弓に耳掃除などさせている。

怒ったところで、すでに公蔵も認めてしまっているというし、由起枝にはどうにか出来ることではなくなっていた。


 目を離すのではなかった。

たかが端女、と放っておいたのが間違いだった。
羽佐間家との関係がこじれたらそれはそれで問題にもなるだろう。

 こうなったら一刻も早く道生を藩主にしなくては。

「あの、お方様」
「なんじゃ」
「狩谷家からのお使いの方がお見えです」
「……」
由起枝はため息をついた。
どうせまた催促に決まっている。

「今行く。待たせておけ」
「はい」
侍女が下がったのを待って、由起枝は違い棚の隙間に隠してあったものを取り出した。
昔、狩谷光弘が寄越した文の一つだ。
道生出生を祝ってのもので、それがやがては狩谷家の繁栄に繋がってゆくだろう、ということが書いてある。
由起枝はそれを見ただけで満足して、元通りきちんと隙間に押し込み、隠した。

文の最後にはすぐに処分するように、と書かれていた。
それを処分しなかったのは、由起枝自身の保身を考えてのことだった。
これがある限り、狩谷家の方でも滅多なことは出来ないはずだった。

女の浅知恵とも言うべきもかもしれない。けれど、由起枝は由起枝なりに必死だったのだ。
万一の事があった時に、狩谷家からも見捨てられる可能性がある。
そうさせないために、必死になっていた。








 一騎は土間で平伏したまま、父の言葉を待っていた。

 父に会うのは何年ぶりだったろうか。
顔もはっきりとは覚えていなかった。
 川原で遊んでいる自分たちを、ただじっと見つめていた。
大きな人だ、と思ったことしか、覚えていない。

この江戸に来て、今日、初めて間近に父を見た。
話したいことは沢山あった。
しかし、ぴんと張り詰めた空気と、無言の父から発せられる、すさまじいまでの圧力に、潰されまいと姿勢を保つのがやっとで、口を利くどころではなかった。

 店の勝手口に当たる、小さな土間で、父の他には今は誰もいない。

「堂馬のところにいたそうだな」
「……はい」
全身の力を振り絞って答えた声は、蚊の鳴くようなものだった。

ふっと圧力が緩むのを感じた。
「殿に感謝いたせ。本来ならばこの父が手にかけねばならぬところをお構いなしと仰せられた」
「……」
「だが……若ぎみの方は知らぬ。覚悟しておけ」
「……はい」


そのまま、屋敷に上がることは許されず、勝手口の土間で寝た。食事も塩で薄く味付けをした粥だけ、およそ父が子に対するものではなかったけれど、一騎には充分すぎるほどだった。

実際、言葉を交わすことなく手打ちにされたとて文句の言える筋ではない。
忍びの者が子供とはいえ、姿を消していたのだ。裏切りと判断されて見つけ次第始末されるのが普通であろう。


一騎は土間に敷かれた筵の上に丸くなって目を閉じた。
視線を感じる。見張りは当然ついているだろう。
構わず、一騎は眠った。

粥を作ってくれたのは手塚という者だった。
父、史彦は食事のことなど何も言わなかったし、一騎もまた、食べられることなど期待していなかった。

家の中とはいえ、季節は冬に入ろうとしている。
冷え切った体に暖かい粥は嬉しかった。

 「またお会いできるとは」
手塚は粥を持って涙ぐんでいた。
「お小さい頃にお目にかかりました。奥方様によう似ていらっしゃる……」
そう言ってさめざめと泣いた。
「……母に似ているのか、私は」
「はい、はい」
手塚は何度も頷いた。
「こんなことをしてお前が叱られるんじゃないのか」
茶碗を手に、手塚を見る。手塚は笑った。
「なんの。これくらい」
そして顔を引き締めた。
「なれど一騎様」
「……」
「忘れてはなりませぬぞ。お母上のことを。どうか」
ずい、と顔を寄せてくる。
「お母上の想いを裏切らぬよう」
一騎は頷いた。
「そのために戻ってきたんだ」
「信じております」


 信じている。
手塚の言葉が頭の中を巡る。

何かが、ずきん、と胸を刺し貫いたような気がして、一騎は目を開けた。
暗闇が広がっている。冷たい土間に敷かれた筵の上で、暗闇を見つめて考えていた。


 自分は、今まで何かを裏切り続けていたのだ。
ずっと裏切っていた。
そのことに気がついて、裏切りたくなくて、それで戻ってきたのだ。






 総士は道生たちが暮らす上屋敷とは別の、下屋敷に住んでいた。
由起枝が道生と会わせるのを嫌ったとも、公蔵が由起枝を警戒したためだ、とも言われている。
総士の方はそのような流言にはまったく興味も示さず、一人茶室に篭っていたりする。

相変わらず公家の姫のように長い髪を下ろしたまま、茶室にいるか庭を散策するか、だった。

「いつまでもそのようなことでは困ります」
家中の悪評に耐えかねてか、早乙女からもたびたび苦言が来る。
「なに、放っておけ」
総士は取り合わなかった。
公蔵もまた、さして気に止める様子もない。

 お人が変わられてしまったような。

伊予から出てきてこっち、総士はがらりと変わったように思う。小さい頃から側近く仕えて来た早乙女にも理解できないことが多すぎた。

早乙女は廊下の片隅で肩を落とし、ため息をついた。
家臣の一人があたふたと駆けて来るのが見える。
「早乙女様……!」
「なんだ」
「ただいま……真壁一騎がこちらへ…!
若様にお目にかかりたいと」
「………なに?」
早乙女は絶句した。

真壁一騎と言えば総士の許にいて、その警護に当たる役を与えられながら最も重要な江戸への出立の時に姿をくらましたのだ。

「見間違いではないのか?」
「いいえ…!」
「むぅ」
この家臣は伊予にいた時から早乙女の家に仕え、従って一騎の顔も良く知っていた。

「いかが取り計らいましょうや」
「追い返せ」
早乙女は冷たく言い放った。
「出奔して後、何をしていたか分からぬ。裏切ったやも知れぬ。いや、そう見た方がよかろう。
そのような者を――― 」
「爺、入れてやれ」
「……若様…!」
驚いて振り返る。総士が立っていた。
僅かに薄笑いを浮かべているが、目は笑ってはいない。
むしろ、冷たい光を放っている。


「人払いをしておけ」
「そんな! 危険でございます! 近藤と小楯だけでも……!」
総士はしばし、黙って早乙女の顔を見ていた。
やがて、小さく頷く。
「……良かろう。その二人だけだ。爺、お前も出ておれ」
「……はい……」
ここは黙って引き下がるしかない。言い出したら聞かないのだ。




 裏庭に案内された一騎は、平伏したままだった。
僅かに衣擦れの音がする。あの足音は剣司だろう。
続いて、総士のものと思われる足音。

ややあって、案内してきた中間が静かに出て行った。
それを待っていたかのように総士は口を開いた。
「何ゆえ戻った」
総士の抑揚のない、低い声は、それでも怒気を帯びていた。
「は」
と言ったきりで、続く言葉が出ない。
さらに、全身に突き刺さるように発せられる殺気に、身動きも出来ない。

「それでは答えにならぬ」
「は……」
それでも一騎は平伏したままだった。

言えるはずもなかった。
自らの罪に向き合うために戻った、などと。
総士のおかれた立場の危うに、矢も盾もたまらなくなったのだ、などと。

「向後は」
「聞こえぬ」
「……向後は命に代えましても若様をお守り申し上げまする」
「それは答えとは言わぬ。われの覚悟がどうだなどと聞いてはおらぬわ」
その、鋭い刃のような声音に、鳥肌が立つ。

沈黙が訪れる。
一騎は答えを持たず、総士も口を開かず。
静かに風が行き過ぎ、梢で小鳥が囀る中で―――
ちき、という、鯉口を切る音を、一騎の耳は確かに捉えた。

髪が逆立つ。
次の瞬間、一騎はさっと体を翻した。耳元で風が唸る。
総士の太刀はつい先ほどまで一騎がいた場所に振り下ろされていた。
あの場にいたら、間違いなく動脈を切られていただろう。
横にいた剣司が総士の片腕をしっかりと捕まえている。
その表情は読み取れないが、少なくともこれ以上太刀を振るわせないためだと知れた。

「何ゆえ逃げる。たった今、命は惜しゅうないと申したばかりであろう」
太刀をそのままに、凍るような冷ややかなまなざしを向ける。

一騎は横っ飛びに飛んだその場所で再び平伏した。
「確かに申しました。床下の鼠ほどの価値もないこの命ではあれど……いつにても捨てまする。
若様をお守りするためであれば」
ふっと総士は唇を歪めた。
「戯れに捨てるには惜しいか」
「いかにも惜しゅうございます」

初めて、総士の顔が僅かに緩む。同時に、殺気も消えた。
総士は静かに刀を戻すと衛に預けた。
「伊予を出奔して後、方々を回ったそうだな。
堂馬から報告は得ている。こちらへ参れ。
物語でも聞かせろ」
言うなり、くるりと背中を向け、すたすたと居室へ向う。
一騎はまだ動けず、その場に座り込んでいた。
促され、やっと立ち上がる。

足が震える。
恐怖のためではなかった。
耳元で空を切った刀の唸りが耳に残っている。
それは、取り残された総士の、苛立ちと心細さに泣き叫ぶ声に聞こえた。

何故、置いていった、と。
何故、自分を一人にした、と。


裏切ったのだ。信じていたものを幾重にも裏切った自分。

僅かに数年、正確に言えば五年であった。しかし、総士にとって見ればどれほどに長い五年であった事か。
そのやり場のない怒りが、悲しみが、あの殺気であり、刀の唸りだった。



茶椀を持つ総士の長い指先は白くなるほどに力がこもっている。
言葉もなく、総士は静かに茶筅を動かしている。
その横顔に、先ほどの刀の唸りと同じものを感じて、一騎は思わず総士を抱き締めていた。
「何をする」
「……総士……」
それしか、言えなかった。
もっと他に言いたいことはあったのに。

もう離れない。
想いを込めて抱き締める。ことん、と茶筅の倒れる音がした。
総士の指が背中を掴む。その指は震えていた。

湯の沸く音を聞きながら、一騎は総士をきつく抱き締めて動かなかった。



















John di ghisinsei http://yokohama.cool.ne.jp/gisinsei1129/

2008/11/18