細波の下・11






 皆城総士が江戸に来てから数年。
彼らが暮らす下屋敷ではあまり良い評判は聞かない。

「どんなに聡明なお方かと思えば」
「殿が甘やかしておられるのじゃ」
「あの鞘様のお子ゆえ、な」

そんな囁きがそこここで聞かれる。

「今日も庭師を茶室に入れておったぞ」
「なんと。庭師なぞ」

そう嘆く藩士の声を、天井裏で息を潜めて聞く者があった。真壁一騎だった。

数年前に突然に姿を消した一騎が、今、何故ここにいるのか。

「あれでは道生君の方が良いのではないか」
「天領にされると言うておるが総士様でも同じことよ」

太い梁の上に置いた拳を、ぎゅっと強く握り締める。
一騎はそっとその場を離れた。




伊予を出奔した後、一騎は四国中をさ迷い歩き、漁師に頼み込んで海を渡り、琵琶湖の畔にやってきた。

そこに忍びの繋ぎのための小屋があることを、溝口から聞かされて知っていた。
しかし、初めて踏み入れる地である。右も左も分からない。
琵琶湖畔についてからもなお数日、一騎は乞食の群れに混じって暮らし、このあたりのことについてそれとなく聞いて回った。
痩せて、ぼろを纏った子供は誰からも怪しまれなかった。

やがて、乞食の一人が言っていた漁師たちの小屋がある辺りを目指す。

 この辺かな。

背の高い草を掻き分けて進む。
と、いきなり広がった光景に、しばし、一騎は我を忘れた。
海だ、と思った。

 これが……琵琶湖か……。

乞食の一人が、琵琶湖を見たことがない、という一騎に笑って言ったものだった。
「生きてるうちに一度は見ておけよ、坊主。そらもう広くてな、わしは初めて見た時はこれが海じゃ、と思うたものだったよ」

 本当に海みたいだ……。

瀬戸内海と違うのは、島がない、ということくらいだろうか。瀬戸内の海はどこを見ても島があった。

しばらく琵琶湖を眺めながら歩く。海辺のように砂浜が広がっていた。

 広い。本当に広い。

ぽかんと口をあけ、琵琶湖を眺め、砂浜を眺める。
砂浜の上の方、松が沢山植えられたあたりに漁師の小屋がぽつん、とたっているのを見つけて、一騎は近寄っていった。

中年の漁師が一人で筵に座って網を繕っている。
「こんにちは」
「おう、こんにちは。どうしたね、坊主」
網から顔を上げ、人の良い笑顔を向ける。
「……」
その痩せて、日に焼けた顔を見つめながら一騎はしばらく考えていた。
本当に仲間だろうか。
もし、仲間でなかったら。

黙って立ち尽くしているのを、漁師は勘違いしたらしい。
「そうか、腹が減ってるのだな、坊主。魚があるぞい。ちょいと待ってろな」
網を置いて立ち上がろうとする。
「待って」
思わず叫んでいた。

「あの」
「なんじゃ」
「……じろはちに会いましたか」
男の目が鋭く光る。
「会うたよ」
そう答えた男の顔は、もう漁師のものとは思えなかった。
仲間内で決めてある合言葉の一つだった。
会った、といえば仲間である。知らないものはきょとんとするだけだ。

「おまいさん……名前は」
「真壁……一騎…」
「なんと…真壁殿のせがれか…!」
漁師は驚いたように目をいっぱいに見開き、さ、と手招いた。
さかさかと網を片付ける。
「いいからお入り。ともあれ粥でも作ろうほどに。
腹が減ってるじゃろう」
「……」
確かに、泣きたいほど空腹だった。しかし、それ以上にこの人を、信用していいのかどうか計りかねていた。
もしかしたら自分はすでにお尋ね者になっているかもしれないのだ。うかうかと小屋に入るのは危険極まりない行為に思える。

「どうした、入りや」
「……あの……俺のこと、捕まえるんですか」
「何故そのようなことを聞く」
「……俺……逃げてきたんです……」
「そのようじゃな」
漁師は笑った。
「お前さんが逃げたのは知っとるよ。江戸に行くのが恐かったんじゃろう、と噂があったな」
「……」
「しかし殿様からは特に何もない。仲間内でもお前を捕まえろなんぞという話は出ておらん」
「……」

 江戸に行くのが恐かった。
確かに、それもある。
しかし、それ以上に、自分が傷つけてしまった総士の傷を見て暮らすことに耐えられなかったのだ。


 漁師は堂馬量平だった。
恵たちを白馬の方に連れて行った後、ここを守っている。
そこでしばらく過ごす間に、一騎はこれまで知らなかった多くのことを知ることになる。

今の藩の実情、何故、総士を擁立しなければならないのか。小藩が生き延びるためにどうしたら良いのか。
そして自分の母もそのために犠牲になったこと―――

「お前の母様のことは私も驚いた」
量平は顔を曇らせた。

小さな炉では火が赤々と燃えている。
「あれほどのお方が……それこそ男にも決して引けは取らぬお方であったに」
そう言って、野良着の袖で乱暴に顔を拭う。

一騎はただ、呆然と聞いていた。
溝口からも母のことは何一つ、聞かされたことはなかった。

「溝口様もさぞ口惜しかったであろう。しかしお前さまを守らねばならぬ。武士であればそこでもろともに果てたとて名分は立つであろうが……。
私らは死んではお役目は果たせぬ」

「おぬしの母様はおぬしを生かすために、おぬしと溝口様を逃がすために死に物狂いで戦ったんじゃ」

量平は柴を炉にくべながら静かに、まるで独り言のように語っている。
一騎はその痩せた横顔を見つめていた。
「一騎どの」
「はい」
「その体には母様もいると思えよ。
自分ひとりの命だなんぞと思わぬがよい」
「……はい……」


量平の元でしばらく過ごしながら、一騎はさまざまなことを教わった。
自分を老人のように見せたり、老婆に化けてみたりもした。姿形だけでなく、歩き方や声音までも変える。
それは忍びに取っては不可欠の技でもあった。

時々、この小屋に立ち寄ってゆく仲間たちによって、公蔵や総士が自分のことを、放っておけ、と言っている、と知った。

「お殿様は子供の気紛れと思うていなさる」
ある日、立ち寄った男が言った。
「ほとぼりが冷めたら戻りなされ。なに、子供には良くあること」
「あの……若様は目を怪我したと聞いておりますが」
思い切って尋ねてみる。男は頷いた。
「傷は残ってしもうたが……元気にしておられる。剣の腕前も確かなものと聞く。見えてはおらぬようだがの」
「そうですか……」
男は炉に刺してあった魚を取って齧った。
「何でも竹とんぼで遊んでいて怪我をされたとか。
早乙女様が一時は腹を切るのなんのとえらい騒ぎだったようじゃ」
「早乙女様がの」
量平は魚をひっくり返しながら唸る。
「目を離した自分の責任じゃ言うて大変だったそうな。
国家老の生駒様がどうにか止めてくださったが」
「…そうじゃったか」
一騎は黙って聞いていた。



琵琶湖畔の小屋を後にした一騎は、近江の国境近くで野宿をすることにした。
大きな木の枝を捜す。
するすると登り、枝の股にかがみ込んで腕を組み、目を閉じた。

どのくらいたったろう。
かすかな声に目を覚ます。眠っていても、体は完全に寝ることはなく、何かあればすぐに反撃に出られる体勢を取っている。長い間に体に叩き込まれた、忍びとしての習慣でもある。

一騎は声の方向を探った。どうも、すぐ下らしい。
そっと下の方を見る。枝の間を落ちる月の明かりに、男の影が見えた。
どうやらここで休憩を取っているものらしい。
夜半にこのようなところにいる、というだけでただの旅人には思えぬ。

公蔵、という言葉が聞こえて、一騎は全身を緊張させた。
知っている名前が次々に出てくる。

「まだ子供じゃぞえ」
「前にも目を傷つけたという。おかげで今は片目じゃ。
事故にあっても不思議には思われんだろう」

総士の事を指しているのだ、と悟って、心臓が跳ね上がりそうになった。枝を掴んだ手が震える。

事故にあっても、ということは。

さらに囁きあう声を追いかけながら、僅かに聞こえる単語を拾いながら想像するに、事故に見せかけた暗殺を企てているのだろう。

やがて、男たちは立ち上がり、二手に分かれて消えた。
しばらく、一騎はその場を動かなかった。それこそ、木の一部になってしまったかのように動かず、夜が明けた頃になってようやく木から下りた。

降りるなり、来た道を引き返す。
途中で道をそれてまた戻ったりを繰り返して、尾行のないことを確認しつつ、量平の小屋に戻ったのは昼を過ぎてからだった。

「どうした」
量平は驚いたように目を丸くする。
一騎は夜中に起こったことを正確に思い出しながら、すべてを量平に伝えた。

「分かった。おそらくは狩谷の手のものだろう。ようやってくれた」
「あの……大丈夫ですか」
「うん? 若様のことか? 大丈夫じゃ、それよりも……やはり暗殺という手も考えておるのだな。それが分かっただけでもよい。しかも、この辺りまで出張っているとなるとな」
しばし、考え込むように腕を組む。

ふと気付いたように一騎を見た。
「お前さんはもう行きなされ。良いか、くれぐれも同じ道は通るなよ」
「はい。分かっております」
「あとは私に任せてよい」
「どうなさるおつもりで」
ふむ、と量平はまばらにひげの生えた顎をこすった。
「殿にはお知らせしなければ。それとこの小屋ももう引き払った方が良いだろうな…」
「はい。私もそう思います」
「あとは私がどうとでもしよう。ともあれ、お前が逸って後を付けたりしないで良かった」
「はあ」
「下手にあとをつけたらお前は気付かれていただろうよ。よく知らせてくれた」
量平は初めて難しい顔を崩して笑った。



一騎は量平に言われたとおり、道を変えて、遠回りをして信濃に入った。
琵琶湖を発ったのは夏の初めだった。
季節は移り、信濃の山々は紅葉に燃えるような色をしている。
本来であれば平井村にいくつもりだった。が、一騎は思いとどまった。
途中であのようなことがあったせいもある。

あちこち寄り道をした事でもあるし、あとをつけられていないという自信はあったが、万一、ということがある。
万が一、付けられていたら仲間の下へ案内してしまうことになる。
一騎は平井村に寄るのは諦め、さらに北の方まで足を伸ばした後、南下して江戸に入っていた。
人ごみにまぎれた方がやり易い。




天井裏から抜け出た一騎はそのまま闇にまぎれ、裏庭に出た。

 総士の立場、この藩の実情。
そうしたすべてが言葉には表せない渦のようになって胸の奥に蟠っている。

 打ち首になってもいいのだ、と思った。
しかし、それは総士を守り抜いて後の話だ。

一騎はまず、父のもとに行くことにした。

自分の果たさねばならないことを果たすために。



















John di ghisinsei http://yokohama.cool.ne.jp/gisinsei1129/

2008/11/16