細波の下・10






 剣司も衛もいなくなった部屋で、総士は一人、竹とんぼをくるくると回していた。

 このようなものを作れるとは。

羨ましいな、と思う。

 一騎はいつも自由だ。

密やかな足音に続いて、障子が開いた。
「お食事にございます」
守り役の早乙女に続いて侍女たちが膳を捧げて入ってくる。

箸を取ったものの、食欲はわかなかった。

 食事が温かいものだと知ったのはいつのことだったろう。
 初めて父に連れられて忍びの者たちが住む集落を訪れた時―――
僚が作ってくれたかゆの、あまりの熱さに驚いたものだった。
何人もの毒見役を通ってきた食事はいつも冷め切っていて、総士にとってはそれが当たり前だったのだ。

僚が作ってくれた粟粥は僅かな山菜と干したきのこが入ったものに薄く味噌で味付けをしただけのものだったけれど、例えようもなく美味しかったことを思い出す。

「早乙女」
「はい?」
「……いや。なんでもない」
明日、一騎のところに行ってもいいか、と言いたかったのだが止めた。
この役目に忠実すぎる近習は絶対にそのようなことを許すはずもない。

 明日はこっそり抜け出そう。

総士は冷えた飯を噛み締めながら、気付かれぬようにひそかに笑った。




 木漏れ日のちらつく川原の石の上で、一騎は一人、竹を削っていた。
羽の部分を削りながら、ふと、これも武器に使えるのかしら、と思った。

 自在に操れるようになれば。
 竹とんぼでなくとも、いつも使っている小さな剣の代わりになるかもしれない。

しばらく竹を眺める。
手裏剣の類は重くて、多くは持ち歩けない。
それよりも、一騎たちは主に細い剣を使っていた。
特に将陵僚は細く鋭く研いだものを荷物や衣服に仕込んで投げるのを得意としている。

 自分もあんな風に工夫できたらいいな。

頭上で小鳥たちがやかましく囀っている。
その声を聞きながら一騎は黙々と竹を削っていた。






じき、江戸に行くために屋敷内はこのところ慌しい。
早乙女は朝から中間たちを指図して回っている。

いつもそばを離れない剣司や衛も、剣司の母に呼ばれていった。
その隙を見て、総士は屋敷の外に出ることに成功した。


屋敷の前に広がる深い森に、総士は迷わず分け入っていた。
一騎がよく遊んでいる場所は何度か行ったことがあるから知っている。
草履を脱いで懐に押し込み、獣道を走っていった。


やがて、いつもの川原に出た。
「一騎」
声に出して呼んでみる。すぐそばの藪から返事があった。
「また抜けて出られたんですね」
笑いながら、藪から這い出す。
「そんなところにいたのか」
「一応、若様と分かっていても人が来たら隠れなくちゃ。それも修行の一つなので」
「そうか……何をしていたのだ? 魚を獲っていたのか?」
「いや。竹とんぼを」
作ったばかりの竹とんぼを見せる。
「わあ」
思わず歓声を上げていた。

「これは前より大きいな」
一騎は頷いた。
「大きかったらもっと飛ぶかな、と思って」
「飛ばしてみよう」
軸をくるくると回し、空へ投げる。
けれど、思ったようには飛ばなかった。

「こうして……」
手を添えて軸を回す。
「こう、上に上げて」
竹とんぼは唸りを上げて飛んでいった。
総士は追いかけ、落ちた竹とんぼを拾った。
「今度は大丈夫だ」
しかし、また竹とんぼは力なく落ちてゆく。
「一騎、飛ばして」
「はい」
一騎は軸を両手に挟み、ぶん、と回して宙に放った。
竹とんぼは大きく弧を描いて空に上がってゆく。
一騎はその後を追い、総士も追いかけた。
「僕の方が早い!」
総士が笑いながら声を上げた。小鳥たちの声が一瞬、立ち消える。

二人ともに追いつこうかという、その時。
響き渡った悲鳴に、鳥たちは一斉に飛び立った。

「総士!」
飛び散った血と、総士の悲鳴と。

一騎は立ち尽くし、ただ、見ていた。

いつもより大きめだった竹とんぼ。

武器にならないかと考えていたために、縁は少し鋭く削ってあったかもしれない―――。

泣き叫ぶ総士を見つめたまま、何も出来ずにただその場に立っていた一騎は、次の瞬間、身を翻して逃げ出していた。

どこへとも自分でも分からない。ただ、その場にいるのが恐かった。


 打ち首だ。
 間違いなく、打ち首だ。

遊びとはいえ、殿のお子を傷つけてしまったのだ。
無事でいられるはずがなかった。

 打ち首になる。

どこに逃げても、いつかは捕まるだろう。それでも、今は逃げたかった。
首を打たれるのが嫌だったのか、、総士の悲鳴を聞くのが耐えられなかったのか。
どちらなのか分からないままに、一騎はただ、山の奥深く走って行った。








 郡山城の一室で、狩谷光弘は遠く、城下の緑を見つめていた。春になったばかりというのに、蒸し暑い日が続いている。
光弘は暑さに揺らめくような景色を眺めながら男の報告を聞いていた。

 どうにも腑に落ちないことが多すぎる。

男の報告は上の空で、何年か前に失った女忍びのことを思い出していた。
りんという娘の報告により襲撃し、討ち取ったのは男一人、女一人だった。
始末できたのは喜ばしいことだった。が、こちらも失ったものは大きい。

りんも殺されてしまったし、彼女と繋ぎをつけていた男も殺されている。
従って、りんが何のためにあの男を追ったのか、分からずじまいになってしまった。
襲撃した家の中は無論、くまなく調べたが、ついに何も発見されていない。
逃げたものがいる、というのですぐにあとを追ったものの、それも近江に入った辺りで見失っている。


春日井が姿を消したことでもしや、襲撃前に男が春日井に何かを渡したのでは、ということも考えた。
が、報告によればあの老人――― 洋治と春日井は直接、何の接触も持たなかったらしい。

表面だけは、すべて片がついたかに見える。
このまま道生が家督を継ぐのを待てばよい。
 
しかし。
公蔵の使う忍びたちがいることは分かっている。ということは、公蔵もまた、何かを疑っているはずだ。
なのに、あの落ち着きは光弘には解せなかった。

光弘は男の報告が終るのを待って振り返った。
「国元は何も変わりはないのか」
「は」
男は頷いた。
「藩内で生まれた同じ歳の子供を身分に関係なく、一緒に屋敷内に入れております」
「影にしておるのか」
「おそらく。藩士の子もおれば、樵や農民などの子もおりました」
「そうか……由起枝の方は」
「はい。あまり強引に隠居を迫ればかえって怪しまれるゆえ、急かせてくれるなと」
「ふむ。確かにそれはそうだが」
光弘は苦笑した。
「これからも注意して見張っておれ」
「は」

男が下がるのを待って、光弘はからりと戸を締めた。
暗くなった室内は、一気に涼しくなったような気がした。






 山の奥深く、忍びの者たちが住み暮らす集落のすみで、一騎は背負子に薪を積んでいた。
うまく角と角がかみ合うように積み上げてゆく。そうすれば途中で紐が緩んだり揺れたりしても落ちることはない。
積み上げた薪をしっかりと括り、背負子を背負う。

 とぼとぼと薪を背負って山道を歩きながら、総士のことばかり考えている自分に気付く。
考えまいとしても、他の事を考えようとしても、どうしても総士のことに思考は傾いてゆく。



 総士が怪我をした、という知らせはその晩のうちには皆に知れ渡っていた。

「片目は潰れてしまったのか」
「分からぬ。医者がみんな連れて行かれたそうな」
「竹とんぼを持って走っていて転んだということだが」
「今は警戒が厳しくてもう誰も入れぬぞ」
「誰かに襲われたのかも知れぬ」

聞かないようにしていても、知らず知らずのうちに聞き耳を立てていた。


 誰も、一騎に総士と一緒ではなかったのか、と聞かなかった。
聞かれれば、あるいは何もかも白状してしまったかもしれない。

何故、誰も何も聞かないんだろう。

薪を背負って歩きながら考え、考えながら歩き―――
家に着いた。
「遅かったな」
出迎えた僚に、軽く笑顔を作り、すぐに部屋の隅に行く。

「具合悪いのか?」
「いや。ちょっと疲れただけ」
「そうか」
それだけだった。
総士のことを何か聞かれるかと思ったのに、僚は何も言わずに食事の支度を始めている。

 いつ、来るのだろう。
いつか、役人が来るのだ。
あるいは、この集落にいる誰かが、自分を殺害する命を受けて自分の前にやってくるのだ。

一騎は身震いする思いでそっと後ろを見た。
背後では僚が忙しく立ち働いているだけだった。




 「若様は明日、江戸へ立つそうじゃ」
部屋の隅で棒剣を研いでいる一騎に、僚が言った。
「……怪我…してるんでしょ……」
「ああ。でも、だいぶ良くなったらしい」
「目は……その……見えるの?」
僚は、さあ、と首を振った。
「そこまでは我々にはな。お前は支度はしないのか」
「……なんの」
分かっていて、言った。

分かっていたのだ、自分も総士とともに江戸に行かねばならないことになっていたから。
しかし、どうして自分が江戸に行けるだろう。
どのような顔をして総士の前に出られるだろう。


 自分が忍びだから、だから放って置かれるのだろうか。
ふと、そのようなことを思う。


 僚も他の仲間たちも、実は本当のところを知っているのではないだろうか。
知っていて、でも、忍びとしての役目があるから、生かしておくことになったのかもしれない。

背後にいる僚の顔を見るのが恐かった。
彼も実は何もかも知っているのかもしれないのだ。
先に江戸に行った溝口も、すべて知っているのだろう。

実は溝口が一足先に江戸に立ったのは殿に自分の事を知らせに行ったのではないか。


 全身の筋肉が緊張している。
細い剣に砥石を当ててゆっくりと研ぎながら全身で背後の様子を伺っていた。

「一騎」
かけられた声に、指にそっと力を入れて気付かれぬよう、剣を構える。
「何かあったのか? お前も江戸に行くんだろう?
いつまでそうしているつもりだ」
「……兄者が行けばいい」
「もちろん行くとも」
憮然とした声が返ってきた。

「早く支度しろよ」
そういうと僚は自分の支度に取り掛かっていた。


江戸に行ったら。
いや、その道中でも、自分はどのように見られることだろう。


 空が赤く染まっている。
じき、日が暮れる。
一騎は入り口に下げられた筵を上げ、空を見上げた。

「兄者、薪を取ってくる」
「ああ、頼む」

薪を置いてある小屋を通り過ぎ――― 
一騎はそのまま出奔した。


















 


John di ghisinsei http://yokohama.cool.ne.jp/gisinsei1129/

2008/11/15