細波の下・1
風が強くなってきたのか、どこからか、ごう、と音が響く。
暖められた部屋の中で真壁史彦は目を閉じ、辺りの音に耳を済ませていた。
やがて、密やかな衣擦れの音が聞こえ、史彦は両手を畳につき、頭を下げた。
「久しぶりだな。元気だったか」
太い声が頭上から降ってくる。この館の主、皆城公蔵だった。
「江戸は寒いの。今日は池に氷が張っておったぞ。
面を上げい、真壁。そのような仲でもないだろう」
笑いを含んだ声に史彦もようやく、ほっと息をついて顔を上げた。
何年か前に国元に下った時と少しも変わらない、主の顔があった。
史彦は静かに微笑み、再び畳に手を付いた。
「この度はご子息ご誕生、真におめでとう存じます」
「おお、それだ、それ」
公蔵も楽しそうな声を上げて扇子で畳を叩く。
目の前の畳を扇子が上下して叩くのを見、史彦は胸が熱くなるのを感じた。
よほどに嬉しかったのだろう。
これほどに嬉しそうな、そして楽しそうな公蔵の声はここ何年も聞いていなかったように思う。
「これは瑣末ながらお祝いの品でございます」
史彦は横に置いてあった祝いの品の数々を一つひとつ差し出した。
「おお、これは美しい」
「はい、昨日手に入りました。斑唐津でございます」
公蔵はずんぐりとした茶器を手の平の上で回し、何度も頷いた。
「うむ。これは名品中の名品。素晴らしい。
お、そういえば真壁、お前のところでも子供が生まれたのであったな」
「はい、九月に」
公蔵はふむふむ、と嬉しそうに何度も頷いた。
「なんとめでたいではないか。祝わねばならん。
今日はこれで茶を立てよう。外は寒い。ゆるりと温まっていくが良い」
「はい」
史彦は静かに頭を下げた。
小坊主に案内されるままに、茶室へ入る。
もともと案内などされなくとも、おそらくはこの小坊主よりは館の中は良く知っていた。
知り尽くしている、といった方が正確かもしれない。
「うまそうな菓子だ」
出された茶菓子に、史彦は目を細めた。
「ああ。南方から来る菓子だ。お前に食べさせようと思って持ってきたのだ」
「それは」
史彦は笑い、早速一つをつまんだ。
とろけるような甘さが口の中に広がる。なんとも言えない、優しい甘味だった。
「なるほど。このようなものは食べたことがない」
口調は先ほどまでとはがらりと変わっている。
公蔵は何度も頷いた。
「うまいだろう、これは数も少なくてな、どうやったら作れるものか、今、職人たちを集めて試しにいろいろ作らせているのだが…うまく行くとよいが」
菓子の話をしながらも、二人ともにまったく別のことを考えているのは明白だった。
菓子など、どうでも良いのだ。
「…時に」
史彦は茶碗を下に置き、公蔵を見た。
「鞘様はいかが」
「おお」
頷いた公蔵の顔が、僅かに曇るのを史彦は見逃さなかった。
大きな手の平でゆっくりと茶碗の表面を撫でる。
「子供を生むと不安定になるというが…まあ…気の病であろうなあ…」
どうも、具合は思わしくないようだ。
「由起枝様との折り合いが…?」
由起枝の名を出すと公蔵は顔をしかめた。
ごつごつした茶碗をゆっくりと回しながらも、すでに茶のことは頭にないらしい。茶碗は公蔵の大きな手の平の中でいつまでも回っている。
「道生様はいかがなされておりまする」
「ふむ」
公蔵は軽く笑った。
「元気にしている。いずれ江戸にも連れてくることになるが」
言葉を切る。
史彦は公蔵の目をじっと覗き込んだ。
「お家を……?」
公蔵はちらりと目を上げ、ふん、と鼻を鳴らして茶碗を置いた。
かねてから公蔵は道生の出生に疑念を抱いていた。
公蔵の正室は子も為さないままに、早くにはかなくなった。その後、喪も明けないうちに公儀から後添えの打診があった。
郡山藩の家臣狩谷の娘、というふれこみであるが、公儀の息がかかったものであることは間違いがない。
いずれ、吸収してしまおう、という腹に違いはない。
その由起枝は、皆城の家に入ってから十月に満たないうちに子を産んでいる。それが道生だった。
誰の子か、というところまでは分からない。
そのような子に跡を継がせるわけには行かなかった。
といって、廃嫡する正当な理由も見つけられない。
「難しいな」
茶碗を手に、史彦は呟いた。
二人きりになると、主従、というよりも友人の間柄になる。
一応、公蔵は当主ではあるが、代々毛利家の間者を務めてきた真壁家の働きなしにこの家を存続させることは不可能だった。
今あるのは真壁家のおかげ、といっても大げさではない。
さらには、幼い頃からともに遊んだ間柄でもある。
今、真壁史彦は遠く国元を離れ、江戸の商家に婿入りし、商人として江戸に根を張って暮らしている。
その妻、紅音もまた、史彦と同じ間者であった。
江戸の町で手広く商いをすることによって、くまなく情報を得ることが出来る。
史彦の他にも同じような役目を負ったものはいるだろうと思う。が、互いに連絡を取ることなど、ない。
そのようなことをすれば命取りになる。
史彦はあくまでも一商人に徹していた。
公蔵は茶碗を置き、再び手に取った。
「……今のままでは家督は道生にいってしまうであろうなあ…」
「……」
表向きは、彼が嫡男である。
公蔵にしてみれば、惚れぬいた鞘の生んだ子を跡継ぎにしたいところであろうが、おそらく、生母の身分の低さだの幼少だのと理由をつけられ、認められることはないであろう。
史彦は軽く手を付いた。
「今しばらく」
じっと公蔵の目を見つめる。
「道生殿にしましても未だ幼い。
急ぐ必要はありますまい」
「それにしてもじき、元服だ」
史彦はふふ、と笑った。
「人には必ず欠点があり申す。ご心配なさらず」
公蔵の瞳に安堵の色が戻る。
「分かった」
ぽん、と軽く袴の膝を叩いた。
「任せるとしよう。入用なものがあれば何なりと言うが良い」
そして、今度は史彦の方に身を乗り出してきた。
「ところでおぬしの息子だが」
「はい」
「…後を…継がせるのか?」
ぎろり、と鋭い視線を注いでくる。史彦は目をそらすことなく、静かに頷いた。
ふっと公蔵の顔が緩む。
「そうか…そうだな。悪かった。……今、どこにおる?」
「八王子の方に。そう…あと三月もしたら国元に行かせようと思っている…家内も一緒に。
紅音は鞘様とも親しかったはず。
鞘様もきっと知り合いもなく、お寂しいのでは」
「お子の訓練は」
「溝口に任せようかと。国元の方がこちらよりも何かと都合がいいかもしれない。こちらは家内の里帰りで、とでもなんとでも言い抜けは出来る」
「なるほどの。……しかしそれではお前は寂しくないか」
史彦は静かに首を振った。
「我らにそのような情は仇になりまする」
「そうか。そうであったな」
その夜。
江戸ではその年初めての雪が降った。
John di ghisinsei http://yokohama.cool.ne.jp/gisinsei1129/
2008/10/15