Rock'n'Roll 6






 
   

 秀が店に戻った頃、入れ違いのように征士が店を辞めた。

理由は分からない。勉強したい、と言っていたらしいが、詳しいことはもとより口数の少ない征士が自分から言う訳もなく、また、啓も聞こうとはしなかったようだ。

広瀬淳の話では、辞める、と言ったその日から彼の荷物はきれいに消えてしまったという。
数枚の服と、大量のレコードだけをもって広瀬の家に転がり込んできだ征士は、タイトロープで働いていた間も、特に何も買わなかったらしい。ただ、レコードだけは増えていたという。
その後、彼の行方は分からない。


二十才になった年の冬、秀は住み慣れた新宿を離れることになった。

たまには知らない土地で働いてみろ、と啓に言われ続け、
半分は仕方なく、また、半分は意地になって渋谷のライブハウスに勤めることにしたのだ。

新宿を、離れたくはなかった。それでも、近いところではあるし、また、好きな音楽が聴けるということもあってそれほど不安は感じていなかった。

日が過ぎ、引っ越しの時が近付くにつれ、感じていなかったはずの不安は大きくなり、ついには胸を潰さんばかりになっていった。

引っ越しの前日、手伝いに来た啓の前で、秀は泣き出していた。
新宿を離れたくない。そして、何より、啓と離れたくなかった。


「すぐに慣れるよ」
啓はことも無げに言った。
「本当は去年、こうするつもりだったんだ」
「…嘘だろう…お前…俺に飽きたんだろう…」
「馬鹿か、お揃は。そんなことだから離れて暮せって言ってるんだ」

ここにいてもいいと言ってほしかったのに、優しい言葉を期待したのに、彼の口調はどこまでも厳しかった。

「いつまで甘えたら気が済むんだ。もし俺に何かあったらどうする。一人じゃ何も出来ないようで、これから先、どうやって生きていくんだ?」
「分かってるよ、そんなの…! でも今までだって一人でやってきたじゃないか。なんでここを離れなきゃいけないんだよっ…!」
「ここを離れることに意昧があるんだよ、分かんない奴だな」

啓は忙しなく指先で髪をかき回した。苛立ってきた証拠だ。
「いつも俺の目の届くところにいて…何かあればいつでも俺に言えた。いい加減、離れていい年だろう。
人間は一ヶ所にいちゃ、駄目なんだ。あちこち行って、いろんなもの見て…いろんな人に会わなきゃ。…お前、どこに行くつもりでいるんだ? こんな狭い東京の、それも渋谷なんて目と鼻の先だろう。歩いてだって行けるぞ」

距離なんて、どうでもいいのだ。
一緒にいた時間は長すぎて、離れて暮すなど、考えられなかった。


言い返す言葉もなくして、泣きながら抱きついた秀の背中を、啓の大きな手の平が軽く叩く。
「遊びにいくよ。すぐ近くじゃないか。なあ?」









 仕事は、始めの内は雑用ばかりだった。床掃除やゴミ捨て、機材運びが中心で、特に重い機材を運ぶ仕事は、力仕事などしたことのない秀には辛かった。
仕事が遅く、先輩に怒鳴られることもたびたびだった。
そうしたこともまた、初めての経験で、あまりの辛さに、啓が遊びにくるたびに泣いていた。



それでも、少しずつ慣れてきた。
何より、仕事を覚えるにつれ忙しくなり、辛いの寂しいのと言っている暇もなくなっていた。


人気のあるバンドの演奏は、大体、土日が中心だった。
駆出しのアマチュアバンドは平日の夜か、人気バンドの前座のような形で演奏していた。

 そんなある時、いつものようにセッティングの打ち合せの中で、良く知った名前を見付けた。
 遼だ。
まだ、最近出てきだばかりのバンドで、ほとんど名前も知られていない。その中の、ギタリストとして、遼の名前があった。

 本当だろうか。
資料には、写真も載っていない。
あちこちの小さな店で一年ほど前から演奏して回っていること、彼らのオリジナル曲のうち、いくつかを安澄将人が作曲していることが話題になっていること。
それくらいしか、書かれていない。


 その夜、遊びに来た啓に、そのことを聞いてみた。
啓は顔をしかめ、
「知るか、そんなこと」
吐き出すように言った。
「どうしたんだよ、遼と喧嘩でもしてんの?」
それには答えず、ガリガリと頭を掻いた。
「歌舞伎町のヴォーチェって知ってるだろう、輪入レコードの。あそこにいこうとしたんだ、こないだ。頼んでたレコードが入ったんで」
「…うん…?」

ヴォーチェは、秀もよく知っている。ヨーロッパ盤を多く扱う、数少ない店の一つだ。
その店と、遼と、何の関係があるのだろう。

「…で?」
「で…そこに行くって言ったらあいつ、俺がハントに出掛けるって勘違いしたらしい。すごい怒ってな」
その時のことを思い出したのか、不決そうに煙草をもみ消し、すぐまた新しい煙草を取り出して火をつけた。
「何したと思う? いきなり中華鍋で殴り付けやがった」
「……」
唖然として、言葉も出なかった。啓を殴るなど、秀もやったことがない。しかも、鍋で。
「まだコブが残ってるよ。俺も頭にきた、さすがに」
「それでどうしたのさ」
横目で秀を見、小さく笑った。
「ちょうど風呂に水が張ってあったからな、たたき込んでやったよ。…それにしても、あんなに激しい奴だなんて思わなかった」
「お前にしちゃ、珍しく見誤ったんじゃない?」
啓は嫌そうな顔をして、それでも、頷いた。
「最近じゃ、馬鹿みたいなカッコしてるしな。髪、くしゃくしゃにして。キンキラの服着て…」

何となくおかしくて、秀は笑いが止められなかった。
何のかんのと言いながら、遼に振り回されている啓の様子は、おかしくてたまらない。
おかげで、肝心のことは聞きそびれてしまった。


 一枚の紙切れにある名前が、あの遼かどうかは分からない。もし、彼だとしたら、最高の演奏が出来るようにしてやりたかった。



 いよいよ彼が演奏する日、秀はいつもより早く店に入り、念入りにチェックをし、丁寧にセッティングをした。
図面を見、ステージを見ながら考える。
指示されたとおりだと、ギターはほとんど動くことが出来ない。
アンプとの距離を測り、先輩社員とも相談した上でアンプの位置を少し下げることにした。

このくらいならいいかな。

考え込んでいると、ぽん、と肩を叩かれた。
「おはよう」

遼がにこにこして立っている。間違いない。
ステージ衣装なのだろう、スパンコールがちりばめられた黒いベストに、黒いベルボトム。
長く伸びた髪は前からくせ毛だったのに、さらにパーマをかけたらしい。くしゃくしゃになって広がっている。
秀は思わず笑いだしていた。
「それか、啓が言ってた、バカみたいなカッコって」
遼はポリポリと頭を掻いた。
「いっつも言われてんだ。そんなに変か?」
「いいや、かっこいいよ。それよりお前、もっと早く俺にいってくれればよかったんだ。啓にも口止めしてだろう」
「だって…恥ずかしかったんだもん」
そう言って、照れたように笑った。

「来いよ、今ちょっと説明する…少し変えたからさ。
ここは初めてだろ?」
「うん」
「これ、いま少し下げたんだ。ギターの動けるとこ、広い方がいいだろ? あと、ペダル、ここな。これ以上は正面にもって行けないんだ。コードが…」

ふと見ると、遼はずっとこちらを見つめて笑っている。
「なに笑ってんだい、人が真剣に説明してんのに」
遼は首を振った。相変わらず、笑みを浮かべたまま。
「…お前、すごいかっこ良くなったよ、ほんと」
すぐ側に寄ってきて、服の袖を引いた。
「半袖、着るようになったんだ」
「ああ…」

少し前から、半袖を着ることが出来るようになった。
仕事で汗をかくことが多く、さらに長袖は邪魔になる。
とはいえ、肘くらいまでは隠れるものだ。いくつもつけられた煙草の火傷痕に、顔を背ける人も多い。そうしたことに、決して慣れたわけではない。自分でも、出来れば今でも隠していたいと思う。
しかし、隠していたからといって、それらの痕が消えるわけではないのだ。

遼は小さく首を傾げ、笑った。
「顔も生き生きしてるよ。前はさ…なんか暗かったけど…今は違う…。
仕事、楽しい?」
「まあ…思ったよりはきつかったけど…慣れたってのもあるしな。たぶん、向いてるんだと思うよ」
遼は嬉しそうに頷いた。

「それで? 俺ちゃんと話、聞いてたよ。続き、いこう」
「あ、ああ…あと、後ろな。ここにもモニターがあるから気をつけて。これ以上は下がらないようにして」
「客席はあそこまで?」
「そう、あと、立ち見の客がいれぱあの辺まで来る…」




まだ駆出しとあって、客の入リも多くはない。
それでも、ステージにプレゼントが投げ込まれるところなどを見ると、ある程度、ファンはいるようだ。
彼らの音は、最近の、シンセサイザーを多用したバンドの音に比べると、重厚で、そして、古典的とも言えた。
秀の耳には、懐かしいものに聞こえる。古い、という人もいるだろうと思う。

おそらくは、今は流行らなくなった音だ。
それでも、ギターを抱えた遼の顔は生気に満ちていた。
素肌に短い、黒いベスト一枚で、はだけた胸は汗で光っている。時折、観客に向けて笑顔を見せる。
その瞳は、これまで見た、どんな時よりも輝いて見えた。

――― いい顔してる。

彼の、こんなに素敵な顔は、見たことがない。







客がいなくなった店内は、がらんと静まり返っている。
ステージ横に取り付けられた階段に腰を下ろして、客席を見ている遼に、コーヒーの入った紙コップを渡す。


「良かったよ、遼。みんな上手いじゃん」
「うん…安澄さんとこで繍習してる時に知り合った奴ら。…でも、ほんとは俺、お前と組みたかった」
「俺みたいな下手くそと組んでどうする」
「いや、上手いよ」

上手い下手ではなく、表には出たくなかった。
「俺は裏方やるよ。早くデビューしろよ、遼。そしたら俺、専用クルーになる」
遼は声を上げて笑った。
「啓さんがね、きっとそう言うだろう、って。やっぱ、分かるんだね」
暗い客席を眺め、ジーパンの膝をさする。

「…はっきり言ってさ、もう半分は諦めてたんだ、俺」
その顔からは笑みが消えている。
「新宿で暮すうちにさ…俺、このまま流されていくんだなあ、って。
でもさ、お前とギター弾いたじゃん。
あれがすごく気持ち良くってさあ」
懐かしそうに微笑む。

「…古くさい音だよな」
「だろうね、でもいいの、なんとでも言って。俺たちはあ
あいうのがやりたいんだから」
子供っぽい笑みを見せる。

「ねえ、征士がここにいるの、知ってる? 渋谷にいるんだよ、彼」
「え…知らない…」

彼は店を辞めたきり、その消息が分からなくなっていたのだ。遼はコーヒーをすすりながら、
「昨日会ったんだ、偶然」
と言った。
「あいつ、なにやってると思う? ミキシングの勉強だって。ミキサーになりたいんだってさ。
アメリカにも勉強にいってたらしい。今は渋谷のスタジオで勉強中だって」
「へえ…」
驚きを隠せなかった。

いつも、黙ってコーヒーを入れたり、広瀬の愚痴に付き合いながらトーストを焼いていたその姿からは想像も出来ない。

「征士は知ってたよ、お前がここで働いてるっての。時々来るんだって。でも、声かけちゃ悪い気がするって言ってた。…あいつらしいよね」
それからね、と続ける。
「当麻にも会ったんだ、チープ・トリックのコンサートでばったり。びっくりしたよ。あいつは赤坂で勤めてるんだ」
「勤めてる?」
思わず、吹き出した。あの女狂いが。まともに仕事など、出来るのだろうか。
「赤坂のディスコだって。有名なとこらしいけど…俺は行ったこと、ない」
「ふうん…」

それぞれに、煙草の煙る店を出て、やるべきことを見付けたのだろう。

「当麻、女の子、三人も連れてた。相変わらずだったよ」
そう付け加えて遼はくすくすと笑った。
しばし、沈黙が降りる。

遼は空になった紙コッブの底を見つめていた。
「…あの人、しょっ中ここ来てんの、知ってる?」
「…啓のこと?」
紙コップの底を見つめたまま、頷く。秀の方を見て、意地悪く笑いかけた。

「お前さ、初めの頃、よく泣いてたじゃん。仕事が辛い、っつって。そんなん、あったからじゃないの? …心配しちゃってさあ。ほとんど毎日ここ、来てたみたい。
知らなかった?」

まったく気付かなかった。
「毎日のように渋谷通いだろ、だから俺、定期買ったら、って言ってやったんだ」
可笑しそうに笑う遼に、笑みを返しながらも嫉ましさを抑えきれなかった。

彼の語る、何気ない啓とのやり取りから、二人が仲良く暮しているさまが目に見えるようで、今更のように嫉妬が沸き上がってくる。

「お前はいいじゃん…あいつの傍にいるんだもん…」
つい、そんな言葉が出る。遼はくすくすと笑った。
「いつでも返すよ、熨斗、付けて」
そしてペロリと舌を出して、
「やだ、返さない。……なんて嘘だけどね。そんな顔すんなよ、秀。あの人が一番好きなの、お前だよ。それはお前が一番よく知ってるだろ」
「…でも俺はあいつを鍋で殴るなんてこと、出来なかった」
「うわ、聞いたの、その話」
決まり悪そうに首をすくめる。
「…だって…そりゃ、今はまあ…悪いことしたなって思ってるけど。でも、俺はお前の分も殴ったんだよ。お前がいてさ、俺もいるのになんでまだ漁りに行くんだろうと思ったらすごい腹、立ってさ…」

しばし黙り込んで、膝の上で組んだ指先を眺める。
やがて、小さく息をついた。
「あの人もさ、寂しいんだよ。見てて分かるもん。
…店、改装すんの、知ってる?」
その話なら、知っている。

もう、時代は変わったのだ。今は、あのような店は流行らない。客の入りも、確実に滅っているという。

「なんか安澄さんと共同経営にするみたいでさ。俺はよく知らないけど…それで意見が合わないらしくてよく電話で喧嘩してる」

そして、お前にも電話が来るよ、と言った。
「帰ってこい、ってね。…ねえ、来月、誕生日なんだよ。覚えてる?」
「…え? …あ、啓の?」
毎日の生活に追われて、啓の誕生日など、すっかり忘れていた。
「おい、忘れんなよ、可哀想に」
遼はそう言って肩を寄せてきた。
「休み、取れよ。みんなで食事にいこう」
「ああ…そうだね、久しぶりに」
静かな店内に、笑い声がかすかに響く。








 あの日、伸のことも聞いてみればよかった。
秀は何度もそのことを思い、そしてすぐに、いや、これで良かったのだ、と思い直した。
おそらくは彼もまた、今の遼と同じように瞳を輝かせてギターを弾いているに違いないのだ。
 だから、あの時以来、六本木に行ったことはない。




 今でも、啓は週に一度か二度、泊りにくる。
まだ新宿に戻れといわれたことはなく秀の方もその話題は口にしないことにしている。

もしこのまま、離れたまま、生活していけるなら、彼がいないことに慣れ切ってしまえるなら ――― その方がいいのだろう。
自分の感情がどうであれ、自分たちの在り方が正しいはずがない。




 でも、と思う。
窓の下の、曲がりくねった石畳。そこを行く、着飾った少女たち。
新宿ととても良く似ていて、でも、まったく違うこの街の風景に、馴染んでしまいたくはなかった。
どこか退廃的な匂いのする、奇妙なあの街こそが、自分には似付かわしい。


窓の下、行き交う若者の中に、見慣れた人影を認めて秀は身を乗り出した。
啓がゆっくりと坂道を上がってくる。隣には遼がいる。
すぐに気付いたらしい、嬉しそうに笑い、手にしていた袋をかかげる。秀の好物の、追分団子の袋だった。
きっと、わざわざ買ってきてくれたのだろう。


待ちきれず、部屋を飛び出す。
そんなことをする自分に、秀は、自分が変わったことを感じた。
時とともに、自分も変わりつつあるのだ。
いつか、素置に自分を受け入れ、認めることが出来るのだろう。


 すでに、店は改装を始めたという。
あの煙草の煙で白く霞んだ、地下の洞窟のような、そして多くの若着の拠り所
だったあの店はもう、ない。

それでも、心の中には存在し続ける、けだるい空気の漂う、店。多くの若者がそこを通り過ぎ、やがて、行き過ぎる時間に理もれてゆくのだろう。
そしてそれでも彼らの中にそれは在り続ける。

自分もいつか、そうしてどこかへゆくのだろう。
激しいロックのビートの向こうに、時折思い出しながら。





































John di ghisinsei http://yokohama.cool.ne.jp/gisinsei1129/

2007/10/14