Rock'n'Roll 5
後ろの方でガラスの砕ける音がした。ゆっくりと視線を巡らせてみる。チェコ製の、ステンドグラスのランプシェードが粉々になって転がっている。
それは数年前、旅先で買ってきた、啓のお気に入リのスタンドだった。
かすかに血の味がする。そっと指で触れてみて、口の端から血が流れていることに気が付いた。
啓に殴られたのは、中学生の時、万引きで捕まったとき以外では初めてだった。
「なんで奴を部屋に入れた。何の用があった」
低い、押し殺した声。
「答えろ」
「そんな義務、ないだろ」
啓はゆっくりと近寄ってきた。シャツの襟首を掴み、引き上げる。また殴られるのかと思った。
「…出ていけ」
静かな、しかし、断固とした調子で言った。
「ここには連れ込むなと言っておいたはずだ。不愉快だ」
「いい加減にしてくれよ、なんでそこまで指図されなきゃなんないんだよ」
「忘れたのか? この部屋の名義は俺のものだ。…あいつが好きならそれでもいい。ただし、よそでやってくれ。俺の前から消えろ」
「ふざけんなよ、そうやっていつも入をいいように使いやがって…! ガキの頃からペットみたいに…!」
口にしたとたん、ずっと胸の奥にしまってあったものが、一気に吹き出してきた。
堪え切れず、叫んでいた。
「ガキの頃からだよ…! 畜生! お前がいなきゃ、俺はこうはなってなかったよっ! 分かってんのか、貴様!」
長いこと抑えこんでいたものが、ふつふつと沸き上がってくる。
「…えらそうにしてたって結局はこうやって力ずくになるんだ…てめえ、自分がやってきたことが分かってんのかよ。
え? 俺がガキのころは良かったよなあ。俺、何も知らねえから黙って言いなりになってたもんな」
悔しさと、自分に対する哀れみに、声が震える。同時に込み上げてきたのは、啓を傷つけることの快感かもしれない。
その彼は、身じろぎもせず、こちらを見つめている。
その瞳には、何の表情もない。
「…確かに俺のお袋はどうしようもない女だよ。男ばっかり追っかけてさ。新しい親父にしたってそうだ。
ろくな稼ぎもないクセにでかいツラしてやがった。
でもな、あんなとこでももしかしたらここにいるよリマシだったかもしんねえんだよ。…てめえ、優しい伯父さんですって顔してさ。俺にしたこと、言ってみな。
言ってみろよ!」
少し目を上げただけで、相変わらず黙ったままの啓の襟元を掴んだ。
「言ってみろ。お前、俺に何をしたよ。お前、俺の人生メチャクチャにしてくれたんだ。…出てけだあ?
ああ、出てってやるよ。満足だろう、これで」
もう、決めていた。
テーブルの上に置かれた、伸の住所を記したメモがわずかな迷いを断ち切ってくれた。
「分かった、じゃあ、今日までの分の給料を払わなきゃな」
その平坦な口調に、一気に熱が引いてゆくのが感じられた。
こんな時でも、彼は平然としていられるのだ。
まるで、自分など初めから存在していなかったかのように、彼は、これからも暮らしてゆくのだろう。
それなら、自分はなんだったのだろう。
「もっと早く出てりゃ、良かった」
何か言わなくては気が済まなくて、口にしてみる。啓は黙って封筒をテーブルに置いただけだった。
「今月分の給料。それと…一応、お前には居住権がある。
それは俺が買い取ることにする。あとで銀行に振り込んでおくよ。
それだけあれば新しい家は見つかるはずだ、贅沢、言わなけれぱな。片付けはしていけ」
事務的に、それだけを言うと、彼はもう、振り返りもせず、部屋を出ていった。
しばらくの間、秀は封筒を見つめたままぼんやりと立ち尽くしていた。
これで開放される。自由になれる。
いくら、言聞かせてみても、それらの声はどこか虚しく、強がってばかりのような自分が、逆に哀れに感じられる。
秀は頭を振り、伸のことだけを考えようとした。
こうしてはいられないのだ。
伸はもう、支度を始めているだろう。とにかく、早く荷物をまとめよう。それも、必要最低限のものだけを。
なるべく、思い出のあるものは置いていくようにした。
ここでの生活はすべて、忘れたかった。
新しい電話番号は、まだつながっていないらしく、伸と連絡を取ることは出来なかった。が、クレッセントに行けば会えるかもしれない。
そこにも、伸はいなかったが、奥平には会えた。
「残念だったね、せっかく来てくれたのに。あの子、スタジオにいってるんだ、稽古、つけなきゃならないから」
奥平はそういってコーヒーとサンドイッチを出してくれた。
「仕事も探すんなら雑誌、上げるよ、ちょっと待ってて。
住宅情報のもあると思う」
そういって隣の部屋に引っ込んだ。隣から、もう一人の男の声がする。
「誰だい、彼」
「ほら、啓ちゃんとこの…噂、聞いたこと、ない?」
「啓ちゃんって、岩村啓? ベースの…」
ちらり、とドアの影から男の顔がのぞく。秀はそ知らぬ顔をしていた。
再び、密やかな声が聞こえてくる。
「奴のベース、よく覚えてるよ。すごかったよね、結構」
「正確なだけが能じゃない、とかいって辞めたけどな」
「へえ…親父さんが亡くなったから、って聞いたけど?」
「いや、それはもっと前。…その頃からあの坊やに夢中だったんだ、あいつ。もともと子供好きだったけどね」
「…え…でも…甥っ子だろう…?」
「ああ、そうだよ。…小学生くらいの時にやっちまったんだろ、きっと。それくらいの時から可愛がり方が普通じゃなかったもん」
コーヒーカップを持つ手が、震えた。髪が逆立ってくるのを感じる。
「あの坊やの母親に再婚話が出てね、これ幸いと引き取っちゃったんだ。よく飼い慣らしたもんだよ」
秀は立ち上がり、部屋の入り口にいった。
奥平は一瞬、目を見開き、次にはにこにこして雑誌を手に歩み寄ってきた。
「これ、上げるよ。こっちは住宅情報…」
差し出された薄い雑誌を叩き落とす。
「飼い慣らされたんじゃねえや。なついてんだ。間違えるな」
彼は驚いたように体を引き、唇の端を上げて笑った。
人を馬鹿にしたような作り笑いに胸が悪くなる。
「これ以上、啓を侮辱するな」
言い捨てて、荷物を持ち、足早に店を出た。
あんな男を頼ろうなんて。
いったい、何を勘違いしていたのだろう。
地下鉄出口の壁にもたれ、地面にしゃがみこんだまま、秀は動けなかった。
自分がどんなふうに見られているか、知らないわけではなかった。しかし、今までいた世界とはあまりに違いすぎた。
それでも、いまさら後戻りは出来ない。
灰色の地面が、やがて夕闇にとけこんで見えなくなる頃、ようやく、秀は立ち上がった。
家など、簡単に見つかる訳もなく、伸とも連絡は取れず、秀はしばらくの間ホテル暮らしをしなければならなかった。
何度も母のことを考えた。彼女に電話すれば、あるいはどうにかなるかもしれない。
けれど、新しい夫と二人の子供に囲まれて幸せに暮す彼女は、同時に日々の生活に追われ、とても大きくなった息子のことなど構ってはいられないだろう。
それに、彼女は、息子のことは伯父に任せてあるから安心、とかたく信じている。
その伯父にも、間違っても頼りたくない。
そうこうしているうちにも、金も尽きようとしている。
働くところもなく、伸は相変わらずつかまらない。
すべてが、思った通りに運ばなかった。未成年であることがかせになったのはもちろん、それ以上に、秀自身があまりに世間を知らな過ぎ、そして世の中を甘く見過ぎてい
た。
秀は途方に暮れ、もう何百回ダイヤルしたか分からない伸の家の番号を回した。
ようやく、彼は電話に出た。
「久しぶり、ごめんね、いつも留守だったろ。家はどうした? 見つかった?」
立て続けに飛び出す明るい一言葉に、秀は一瞬、どう答えて良いのか分からなくなった。
「ああ、まだだけど。今はホテルにいるんだ」
目分でもなぜそうするのか分からないままに、明るく答えていた。
「今、大丈夫? そっち、行ってもいい?」
「いいよ、おいでよ」
受話器を置いて、秀は電話ボックスの中で座り込んでしまった。
伸の声を聞いたら泣き出して、そして苦況を訴えるだろうと思っていたのに。
伸の家は、想像していたより広く、きれいなところだった。
「ここ、奥平さんが用意してくれたの…?」
「うん。…正確に言うとさ、半分は彼の家なんだ」
そういって決まり悪そうに笑った。
「なんていうのかな、セカンドハウスみたいなもんらしいよ。店に近いから。忙しい時はここに泊まるんだって」
なるほど、言われてみれば棚にずらりと並んだ食器類にしても大変な数で、伸がこれだけのものをいきなり用意できるはずもない。
「クローゼットも使わしてもらってんの。服も増えたしさあ。他も好きに使っていいんだよ」
そう語る彼の顔は、心なしか得意気でもあった。
「でさ、秀、良かったら君もおいでよ。僕、奥平さんに頼んでみる。きっと聞いてくれると恩うんだ」
「いいよ」
反射的に答えていた。伸は驚いたように目を見開いた。
「なんで? だってさ、僕、聞いたよ。奥平さんから。
マネージャーってさ、君の実の伯父さんなんだって?…よしなよ」
「…いいじゃないか、それでも。俺がいいんだから。
その話はやめてくれ」
困惑したように口を噤んだ伸の後のガラスに、自分の顔が映っている。
決して、魅力的な顔ではなかった。
それは醜く、歪んでいた。
「奥平の口利きなんて真っ平だよ伸。それに…啓の悪
口はやめてくんねえ?」
自分でも思っても見なかった言葉が滑り出ていた。
そうした言葉につられるように心の奥が見えてきたような気がする。
逃げるように伸の家を出て、財布の中を覗いてみる。
もう、金はほとんど無い。
あてもなく歩き回っているうちに、いつしか地下鉄の駅にきていた。
歩道に座り、ただぼんやりと地下から吐き出される人々を眺める。
と、急にすぐ前で立ち止まる人があった。
「おい、秀? どうしたよ、こんなとこで」
「あ…」
あわてて立ち上がる。当麻だった。髪の長い、化粧の濃い女性を連れている。
「お前、この頃店にいないじゃん。どうしたんだよ」
そして、小さく、呟いた。
「まさかお前…伸を追ってきたのか? だったらやめといた方がいいと思うよ」
しばし、言いよどみ、思い切ったように、
「あいつがタイトロープに来たのも安澄さんが出入りしてるって知ったからなんだ。
…まあ…俺が言ったんだけどさ。…どっちしてもさ、お前、新宿に戻れよ。お前がいないから
大変なんだぜ。マネージャーは機嫌悪いし、征士は前より喋らなくなったし…」
口を噤み、こちらの様子を伺っている。
煙草を取出しながら、
「もしかして金、持ってねえの?」
仕方なく、頷いた。当麻は連れの女性に向き直った。
「おい、いくらある? いくらでもいいや、出せよ」
「出せって…何よ、急に…」
唇を尖らせ、当麻を睨む。秀は居たたまれなかった。
「いいよ、当麻…」
「平気、気にするな。あ、結構あるじゃん。じゃ、借りとくよ。その分、うんと楽しませてやるから」
まるで自分の物のような顔で財布から紙幣を抜き取り、秀の手に握らせた。
「半分は俺のせいもあるかもしれないもんな。だから気にしなくていいぜ。とにかくマネージャーを落ち着かせてくれよ。でないと俺、店に入れなくって」
そういって明るく笑い、背中を押した。
「…ありがと…」
当麻は女性の肩を引き寄せながら声を上げて笑い、手を振った。
結局はこうなるのだ。どうしても、啓の手の平から逃れられない。
果たして、本当に逃げようとしているのかどうかも、分からない。
改めて、自分に問い掛けてみる。
今まで、すべて、彼に都合のいいように動くよう、躾けられたためだと ――― それで片付けてしまっていた。
しかし、本当にそれだけなのだろうか。
いくら問い掛けても、答えは出てこない。好きか嫌いかなどということも考えたことがないほど長いこと、一緒にいた。
もしもこの問いに答えがあるとするなら ――― 答えなど、必要としない、というのがそれだ。
啓にとっての自分は、肉欲の対象以外ではないかも知れず、そして自分にとって、啓はパトロン以上の存在ではないかも知れない。
しかし、だからどうだというのだろう。
どんな理屈が必要なのだろう。
「啓!」
勢い良く開けたドアの向うは、しんと静まり返っていた。
「啓!」
再度、呼びながら広い部屋の中を突っ切る。ドアを片っ端から開けてみても、どこにも人の気配はない。
秀は時計を見た。四時になろうとしている。いつもなら、この時間、啓は出動の準備に忙しい。
つまり、必ず家にいる時間だった。
「ちくしょうっ!」
激しい怒りが込み上げるに任せ、手近にあった椅子を掴んでテーブルに叩きつける。椅子の脚が一本折れて飛び、天井の照明の一つが割れてガラスが飛び散った。
テープルの上の調味料入れや籠や雑誌がそこら中に飛んでゆく。
「…ちくしよう…」
完全には壊れなかった椅子に対して腹が立ち、今度は壁に叩きつけた。
掛かっていた額が落ち、床にガラスや木の破片が散る。
「しゅうっ!」
いきなリ羽交い締めにされて我に返る。手元には、椅子の背だけが残っていた。
「やめろよっ!」
遼は肩で息をしながら、秀の手から壊れた椅子を取り上げた。
「何すんだよ、落ち着けよ!」
「きさま、どっから湧いてきた!」
「お前の家、掃除してたんだよ」
「余計なこと、すんじゃねえよっ! 啓はどこだよ!」
襟首をつかむ。遼は顔を引きつらせた。
「いないよ、昨日から安澄さんと飲みにいってそのまま…」
「こんな時にか?」
「どんな時だよっ!」
掴んでいた秀の手首を抑え、怒鳴り返してきた。
「いい加減にしろよ、散々心配かけて!」
「心配? 誰がだ!」
真っすぐにこちらを見つめたままの、黒い、澄んだ瞳に余計、腹立ちがつのる。
何故こいつは、こんな生活をしていながら、澄んだ瞳を失わないのだろう。
「…啓さん、毎日お前からの電話、待ってたみたいだった。
何があったかなんて聞かないし、聞きたくもないよ。
だって飛び出してったの、自分の好きじゃん」
「あいつが出てけって言ったんだ!」
「何でそう言ったか、考えてみろよ! お前がほかの奴、家に入れてんのをあの人が見てられるわけ、ないだろう!」
「じゃ、なんでいねえんだよ、俺が帰ってきたのに!」
「何、勝手なこと、言ってんだよっ!」
「玄関先で騒ぐな」
静かな声に、二人はぎくりとして振り向いた。
啓が立っている。遼はあわてたように掴んでいた秀の手首を放した。
秀の顔を見ても、表情も変えない。
家の中を覗いたときに初めて、少し驚いたように眉を上げた。
「あ、すぐに片付ける…」
飛び出そうとした遼を手で制した。
「入るな。怪我、するぞ。俺がいいって言うまでそこを動くな。…あ、ドアは閉めておけ」
手にしていた新聞を玄関脇に放ると、すぐに片付けを始める。床や棚に飛び散ったガラスなどを丁寧に掃除してゆく。
その様子を見ていて、秀はすっかり気勢を削がれてしまった。
「…俺もやる」
「そうだな、お前は散らかした張本人だ。…スリッパを履けよ、まだどっかにガラスがあるかも知れん」
そして天井を仰ぎ、溜息をつく。
「この照明は高いんだぞ。まあ…一個だけで良かったけど。
まったく、壁紙まで。当分、何か貼っとかなきゃな」
隅々まできれいに掃除機をかけ、遼に、入ってもいいぞ、と声をかける。
「お前はもう支度しろ。途中で店に寄ってくれ、俺は少し遅くなるって」
「うん、分かった」
店以外の、どこに行くのだろう。遼の後ろ姿を眺め、ぼんやりと考える。
「まだ終わってないぞ、秀。そこ、拭いてくれ」
壁に飛び散った醤油を拭き、ここに、何をしに帰ってきたのだろう、と考えていた。
やがて、遼がギターを背負って出ていった。
「…遼…どこ行ったの、店じゃないの?」
「ああ、専門学校、行ってる。土日だけ店に出てるよ」
「ふうん…」
何故だか、羨ましい。羨ましくて、泣きたくなる。
「学費、お前が出してんの」
「いや、あいつが貯めた金だ。ここにいれば給料はほとんど手付かずじゃないか。…ところで…」
ゆっくりと振り返り、
「俺はもう店にいく。お前は? ここにいるか?
お前の家も掃除、させといたけど」
「なんでこんな時まで仕事なんだよ、お前は!」
「じゃあ、どうしろって言うんだ」
話を、聞いてほしかった。それも言いだせず、黙り込むしかなかった。
「何か言いたいことがあるなら言え。早くしてくれ」
煙草をくわえ、少し首を傾げてこちらを見ている。
その様子を見ていて、今回のことが全て仕組まれたことであるかのような気がしてきた。
「…家、借りられなかった…保護者の…承諾もないから」
「そりゃ、そうだろう」
「お前、知ってたんだろう! だからあんなに簡単に出て行けって言ったんだ!
どうせ頼って戻ってくるって思ってたんだろう!」
「それは違う」
いともあっさりと、煙草をくゆらせながら言った。
「何が言いたいんだ? 俺は今でもお前の保護者だ。
家が見つかって…俺の判子が必要ならいつでも貸したぞ。
何故言ってこなかった?」
畳み掛けられて、答えに窮してしまった。意地になった、とは言えなかった。
「俺に直接言えなくても…彰吾に言っても良かったのに。
伸の家に泊めてもらっても良かったろう」
啓の口から飛びだす名前が、胸に突き刺さる。
啓の視線を全身に感じながら、秀はただうつむいて煙草の箱をいじっていた。言葉は、どうしても口から出てこない。
「店にいこう。お前も来い」
啓は立ち上がり、秀の体を抱えるようにして椅子から引き剥がした。とたんに、体中の張り詰めたものが全て弛んだような気がした。
足にも力が入らず、そのまま床に崩れ、啓の腕にすがって泣き出していた。
何を、どのように言えばいいのだろう。何に失望し、そして何を求めてここへ帰ってきたのだろう。
啓の背中を思い切り掴んでも、彼は一層強く抱き締めてくるだけで、何一つ、言葉はなかった。
それだけで、良かった。彼の心臓の鼓動が伝わってくる。
それだけを、感じていたかったのかも知れない。
声も出なくなるほどに泣いたあと、ようやく、啓の背中を放した。
「気が済んだか。さあ、言いたいことだけ言え。何でも聞いてやる。言いたくないことは言わんでもいいぞ」
幼い頃、よくしてくれたように、顔を胸に抱き込み、頬を乱暴に撫でられて、また泣きたくなった。
「…彰吾さんとこ…行ったんだ…でも…」
そこで起こったことは、言いたくなかった。言えなかった。
「…伸は…彰吾さんのマンションに…いて…」
「それで?」
静かに促す。秀はその腕を強く掴んだ。奥平とその友人の会話や、伸に言われた事がぐるぐると頭の中を巡る。
「…あいつは…伸は…安澄さんとお前が知り合いだって知って…それで…」
「それでうちに来たっていうのか? 別にいいじゃないか、それでも」
思わず、啓の顔を見る。彼は、知らないのだ。伸が彼のことをどんなふうに言ったのかを。
「なんで…なんでお前、そんなふうに思えるの…?」
啓はしぱらく黙って煙草を吸っていた。
やがて、頼杖をつき、真っすぐに見つめてくる。
「だって好きだったんだろ? その好きな奴の夢がかなうためにウチが役に立ったんじやないか。喜んでやれよ」
理屈は、確かににその通りなのだ。それは、分かっている。
それでも、心のどこかに割り切れない部分が残る。
「だって…あいつはお前のことだって…お前が言ってくれなかったらあの店に入ることも出来なかったはずなのに」
「うん、そうだな」
啓は笑い、煙草を口に運んだ。
「お前の言いたいことは何となく分かるよ。…お前、奴に利用されたって思ってないか?」
ふう、と煙草の煙を吐き出す。
「奴はそうは思ってないよ、きっと。お前の好意としてありがたく思ってるだろう。
それじゃ、不満か?」
「違う」
そうではないのだ。でも、どこか違う。
「お前、奴に踏み付けられたとでも言いたいのか? …それじゃ、嫌か?
上に昇ろうとする人間は時には誰かを踏みつけもするさ。
…好きな人間に踏まれるなら…それでもいいって思えない?」
いつにない、優しいその口調に、秀は驚いて顔を上げた。
啓の指が、そっと額を撫でる。
その瞳を見つめているうち、秀はこれまで思っていたことがゆっくりと崩れてゆくのを感じていた。
すべてが、違う。
頭を垂れ、膝の上で組んだ指を見つめる。そっと、今まで聞いたことのなかったことを聞いてみる。
「…啓…俺のこと…好きだった…?」
頭の上から笑いが落ちてくる。
「何をいまさら。好きじゃなかったらお前みたいな間題児、とうの昔に放り出してる」
爆発しそうな感情に胸が震え、抑えが効かなくなって、頭を啓の胸に押し付けた。
分かっていたのだ。分かっていながら、それでも、受け入れることが出来ずにいた。
それは、昨日の事のようにはっきりと思い出せる。
目分のことで、啓は苦しみ、そして姿を消したのだ。それを無理やり引き戻したのは自分だった。遠くの伯母のもとに身を寄せていた彼を、無理に連れ帰ったのは誰でもない、この自分だ。
再び姿を現した彼は、少し悲しそうな目をして、
「お前のことは忘れようと思ったのに」
そう、言った。その言葉の意味など、理解しようともしなかった自分を、秀はよく知っている。
彼の方こそ、人生を狂わせられたのかもしれない。
啓の手の平が、ゆっくりと背中を撫でてゆく。
「…伸が成功するように祈るんだな。間違っても憎んだりするなよ。誰かを憎んでる人ってのは醜いもんだ。
…さっきのお前の顔は見られたもんじゃなかったぞ。口はねじ曲がって、目は吊り上って…はっきり言って醜かった。もうあんな顔はすんな。心まで醜くなるぞ」
「…お前…楽天家だ…」
「自分勝手なだけだ。お前が傷つくのを見たくないだけだ」
目を伏せ、静かに言った。
John di ghisinsei http://yokohama.cool.ne.jp/gisinsei1129/
2007/10/14