Rock'n'Roll 2
狭い事務所では、啓が電卓相手に悪態をついていた。
「どうしたよ?」
「遅いぞ、もっと早く来い。…ちょっとこいつ、計算してくれんか。征士の字、小さ過ぎて読めん」
眼鏡を忘れてきたらしい。書類に食い付かんばかりに顔を寄せている。
「いいよ、やっとく。なあ、今夜は俺んちでメシ、食わねえ? 遼と何か予定でもある?」
「いや、別に」
「だったらいいじゃん」
書類の束を取り上げ、ついでに顎をとらえて口付ける。
「ほんとは今すぐ、っていきたいとこなんだけど」
啓は小さく笑った。
「嬉しい言葉だな、何となく」
「どこが」
計算を始めた秀のすぐ隣に座り、シャツの間から指を這わせてくる。
「やめろよ、間違えるだろ」
言いながらも、どこか安心感を覚える。
何故だろう。
同じことをしても、相手が伸だと、この感じはないのだ。
店を出るとき、啓が寄ってきた。
「十一時頃行くよ」
「…ああ、分かった」
すぐ後にいる遼の視線を痛いほどに背中に受けながら重いドアを閉める。こんな時の遼は、哀しいくらいに切ない目でこちらを見るのだ。まるで犯罪者にでもなったようで、とても目を合わせることなど出来ない。
もしかしたら、遼が初めて現われた時の自分も、こんな目をしていたのかもしれない。
風呂を沸かし、簡単に食事の支度を整えたところに啓がやってきた。
「あのさ、頼むからもう少し気を遣ってくれよ」
顔を見るなり、文句が先に出る。
「何がだ」
「遼だよ。かわいそうじゃねえ? 自分の前であんなこと言われたらさあ」
「そうか? お、これはなんだ、魚の煮付けか。うまそうだな。作ったのか?」
「買ったに決まってんだろ、話をそらすんじゃねえよ」
「何を怒ってる」
「……」
これ以上言うのもなぜかためらわれて、秀は口を噤んだ。
自分と啓との関係についてなら、常連客のほとんどが知っていることで、いまさら隠しようもない。
これまで連れてこられた多くの男たちと同じように、遼も、秀のことは聞かされていたはずだ。
今になって嫉妬もないだろう。秀の存在が耐えられない、という者は、たいてい長くても二日で姿を消しているのだ。
薄明りのなか、啓の手首を引き寄せ、腕時許を見る。
じき、三時になる。今頃、遼は広瀬と一緒に店を閉める支度を始めているだろう。
淳のことだから、嫌味の一つや二つ、言っているに違いない。
今日はお前の出番はないんだね、とか、あの二人は絶対に離れないよ、とか。
そうしたいびりが原因で啓のもとを去った男も何人か知っている。
掴んでいた腕が動き、そのまま抱き締められる。
「いてえ」
「そっちこそ何してた、随の腕で」
「時間、見ただけだよ」
低い笑い声が響く。
「気にするな、まだ出来る」
「何がだよ」
スタンドの薄暗い明かりに、自分の腕の、無数の火傷跡が見える。
秀は目を閉じ、そのまま啓の背中を抱き締めた。
自分たちがいつからこうなったのか、実は良く覚えていなかった。
とにかく、物心が着いた頃から啓はいつもすぐ傍にいた。
最初のはっきりした記憶は四才<らいの時だ。
当時高校生だった啓は、冬休みを利用して泊まり掛けで遊びに来ていた。
すでに父はなく、一人で働いていた母にとって、啓は格好の子守だったのかもしれない。
寒い冬の日の留守番は、秀にとっても辛かった。だから、啓が来ると片時も側を離れることはなかった。
夜、目をさました時、母はまだ帰っておらず、啓は小さなこたつで勉強をしていた。
秀に気付くと優しく笑いかけ、
「眠れないならここへおいで」
と言って膝を叩いた。言われるままに、膝に乗り、啓の手元の本を覗き込んだ。
横文字が並んでいたのは覚えているから、英語か何かをやっていたのだろう
その時の、全身を包む暖かさは、今でも忘れられない。
こたつの暖かさと、背中に感じた啓の鼓動と。
幼かった秀に、そのぬくもりはたまらない安心感を与えてくれた
今でも、秀はよく、啓に背中を向けて寝る。それは、あの時のぬくもリを思い出したいからかもしれない。
いつものように夕方店に入ると、遼が興奮した面持ちで駆け寄ってきた。
「ね、秀、あの人、もしかして安澄将人?」
「あ?」
遼の肩越しにカウンターの方を見る。そして、頷いた。
「なんで知ってんの?」
安澄は啓の昔のバンド仲間で、高校時代からの親友でもあった。
当然、秀も良く会っている。
「なんでって…あの人、有名じゃん」
「へえ…」
彼が音楽関係の仕事をしているのは知っている。
啓は、時々雑誌でレコード評などを書く仕事もしていて、そんな時よく安澄と会っている。
「マネージャーの知リ合い?」
「うん」
横から乗り出してきた当麻に、短く答える。余計なことは口にしない癖がついていた。
レジ横に東ねてあった未処理の伝票を整理していると、頭をぽん、と叩かれた。
安澄がにこにこして立っている。
「大きくなったなあ。また背が伸びたんじゃないのか?
いくつになった?」
「十八」
「十八か…酒は欽めるか?」
秀は首を振った。飲めなくはないが、啓にかたく禁じられている。安澄もそれを察したのか、カウンターの方を見て苦笑した。
「相変わらず厳しいみたいだな。今度誘おうと思ったのに」
「二年後にね」
「今度、奥平も連れてくるよ。みんなでクレッセント、行かないか?
あいつも喜ぶよ」
「ありがと」
安澄の方は見ないまま、口先だけで笑って手を振った。
あまり、好きではない男だ。理由はと言えば、彼が啓を馬鹿にしている、ということだった。
普段は仲が良いのに、酒が入るととたんに啓の悪口が飛び出す。
「こんな小さな店で満足しててどうする」
彼はよくそう言った。
「何をやっても中途半端だな、お前は」
それが彼の決まり文句だった。そんな彼に、啓が何も言わないのが、さらに秀は気に入らない。
「あいつの言うとおりだからさ」
その一言で片付ける。
啓はある種の器用貧乏とも言うべき人間であるらしい。
バンドをやっていた頃はベースを担当していた。
オーディションも合格し、セミプロとしてのスタートが切れる、とメンバーが喜んでいる時に突然、やめてしまったのだ。
その後、さまざまな仕事を転々としながらひたすらに金を貯め続け、事業に手を付けた。
今、この店の他に池袋の方に貸しスタジオも持っている。
音楽関係の雑誌の記事も書いている。
それでも、彼が一番力を注いでいるのは新宿の、この小さな店だけで、他はあくまでもサイドビジネスに過ぎないようだ。
伝票を片付けている間に安澄は帰ったらしい。
当麻は残念そうに、
「握手くらい、したかったなあ」
と言った。
「俺も話したかった…」
遼も、溜息混じりに唇を尖らせる。
「…クレッセントってさ」
額を押さえて思い出そうとするように当麻が呟く。
「あれか? あの六本木の…」
「うん。この頃有名らしいね。奥平さんの店だよ」
奥平彰吾という男も、安澄と同じように啓のバンド仲間だった。
啓と一緒にいった学園祭で、彼にポテトチップスを買ってもらった記憶がある。
彼は今、六本木でライヴ・ハウスを経営している。
それがクレッセントで、著名なミュージシヤンを多く輩出した事で全国的にも知られ、プロをめざす若者たちの登龍門にもなっている。
なかなかに高級な店らしく、簡単に出入りできるところではないらしい。人見知りの激しい奥平が経営しているだけのことはあった。
「お前は行ったことあんの?」
「一度だけ、開店したときに」
適当に答えて、この語を打ち切った。
当麻は、がっかりしたように溜息をついて少しばかり残っている水割りを舐めていた。
当麻も啓に注意されてからは、少しはおとなしくなったようだ。もっとも、最近ではカントリーの方に顔を出したりもしているらしい。向こうで新しい女の子をあさっているのかもしれない。
どちらにしても、タイトロープの中ではおごってくれる女の子もいなくなったせいだろう、安い水割り一杯で長く粘っている。
その日も、当麻はひとりでカウンターに座っていた。
無口な征士が相手では退屈だったのだろう、秀の頼を見ると嬉しそうに笑い、グラスを持って寄ってきた。
「お前、カントリーの伸って奴、知ってるだろ?」
「ああ、知ってる」
「あいつがね、ここに来るって。カントリーは辞めるんだって」
「はあ?」
そういえば、ここで働きたいようなことを言ってはいた。
しかし、こんなに急に。
どういうことだろうと考えながら当麻の顔を眺めているうちに、重いドアが開いて伸が顔を覗かせた。
「よう、どうしたって言うんだ?」
「だってこっちの方が楽しそうなんだもん。それに君がいるし」
「嬉しいこと言ってくれるけどな、決めるのは俺じゃないぜ。
こっちだよ、事務所」
狭い事務所に招き入れる。書き物をしていた啓が頼を上げた。
「バイト候補だって」
それだけ、言った。
根なし草だな。
ふと、そんなことを恩う。
浮草のように、あちらこちらと、流れに身を任せて漂っている。
水がなくなれば枯れてしまうのだろう。しかし、自分が水に浮いていることさえも、知らずにいるのだろう。
事務所の奥まで、音楽は響いてくる。すぐ横で啓がいろいろと伸に質間をしているというのに、その声はまるで聞こえない。
今、伸は何か書き込んでいる。ここで働くことになったのだろう。その手元を眺め、彼の名字も知らないことに、改めて気が付く。
当麻についても、彼が学生なのかどうかさえ、知らない。
また、その名前すらも、本名かどうか分からない。
皆、適当に通り名で呼び合い、お互いにそれ以上のことは知ろうともしないままに、いつしか離れてゆく。
仮に後になって、その人は存在しないのだと言われても、誰も不思議には思わないだろう。
ふと、目の前に見えない壁の存在を感じて困惑する。
自分と啓の周りだけ、違うときを刻んでいるような、そんな気がする。
煙草の煙で霞んだ、この店の中だけが別の世界であるような。
午前三時、ようやくこの店は閉店となる。床を掃いていた広瀬が箒を持つ手を休め、不安そうに、
「また今日、一人来たろ」
と言った。
「あれは誰? 知ってる奴みたいだったけど」
「カントリーにいた奴…ああ、お前はいったこと、ないのか。
向こうの店、やめたんだって。すごい給料、安いらしいな、あそこは。時間も短くて」
淳はかなり動揺しているようだった。
「…それでこっちで…? なあ、お前さあ、マネージャーに言っといてくれた?」
「何を」
「俺のこと。頼んだじやん。今やめさせられたら俺、困るんだよ」
「ああ、それな。一応。…ここで続けたいならさあ、遼をいびるのをやめることだね」
さり気なく、釘をさしておく。遼が来たときから、広瀬はこそこそと彼をいびっている。
「俺、そんなことしてないよ」
「嘘つけ、俺が何も知らないと思うな」
遼はもちろん、何も言わないが、店内で起こっていることは秀はほとんど把握している。
遼がカウンターで働いていたときなど、コーヒーの入れ方、ミルクの温度、トーストの並べ方まで、それは細かくケチを付けていたものだ。
いつもレジ横の、今は遼がいるところで、秀はそれを見ていたのだ。
そんなことを、いちいち啓に言い付ける訳には行かない。
そこで遼にレジを教え、口実を儲けて場所を交替したのだ。
広瀬は、啓が一番信頼している。この店においてある何千枚ものレコードをきちんと管理できる人間は、彼の他にいない。啓が広瀬をやめさせる訳がない。
だからこそ、彼を押さえておく必要があった。
「今以上に遼になんかしてみな、啓に言い付けるぞ」
「だから何もしてねえって。第一、なんでお前、そんなにあいつの肩持つんだよ」
「肩は持ってねえよ、店ん中がスムーズに動かないと困るんだよ。
いいから早くゴミ、捨ててこいよ。お前の愚痴に付き合ってたら俺、寝る暇ないじゃん」
淳がゴミを捨てにいっている間に秀は売上金をカバンに詰め、明かりを消した。
街は眠らなくとも、人は眠る。時間は、人によってまちまちだった。すでに、東の空は白んできている。
秀が眠りに就いたのは夜が明けてからだった。
十一時頃、啓が起こしにくる。
そのまま、彼は銀行にいき、秀は啓の家に行って朝食兼昼食を取る。
家の中では、遼は店にいる時のような不遜な態度は見せない。
むしろ、卑屈に見えるほどだった。
これまで、啓が連れてくる愛人とはあまり親しく付き合ったことはなかった。その理由については考えたこともなかったけれど、今になってみて、何となく、それは年令のせいか、と、思えてくる。
遼のように、自分と同年代の少年というのは、これまでになかった。
「少し座ってろよ」
くるくると動き回る遼に、たまりかねて声をかける。
「あ、でもヨーグルトもあるんだ。啓さんにこれも出せっ
て…」
「いらねえよ、そんなの。それより少しじっとしててくれ、落ち着いて食ってらんねえ」
「…ごめん…」
ちょこん、と椅子に腰をおろす。座ったところで、くつろいだ様子もない。
いつも、彼はこうなのだ。逆に秀の方がどうして良いのか分からなくなってしまう。
これまでの啓の愛人たちは、秀の分の食事を作っても、そこに置いておくだけでどこかへ行ってしまうか、あるいは始めから作ろうともしないか、で、どちらにせよ、姿を現すことはあまりしなかった。
遼はまだ、ヨーグルトが気になるらしい。ちらちらと冷蔵庫の方に視線を走らせる。
「…啓がなんだって? 俺にヨーグルト、食わせろって?」
「あ、そうじゃないけど…あるから、って…」
「…分かった。食えばいいのね」
仕方なく立ち上がり、冷蔵庫を開ける。
遼があわてたように立ち上がった。・
「いいよ、俺がやる」
「……」
彼がきて、すでに半月がたつ。いい加減慣れたとはいえ、毎朝これでは疲れてくる。
「お前さ、俺に気を遣ってる?」
これまで、秀に対し、あまりに傲慢に振る舞い、それが原因で啓を怒らせて追い出されたものもいる。そんな噂を聞いているのかもしれない。
「……え…」
遼はどぎまぎしたように口篭った。
「いや…でも…」
やがて、小さく頷いた。
「少しは…だって…」
「だって、何だよ」
乱暴にヨーグルトの器を取り上げ、きつい口調で言った。
「やめてくんねえ? そうやって俺の機嫌、取るの。
俺、そういうの、大嫌いなんだ」
言っても意昧のないことは分かっていた.
遼にしてみれば、他にどんな態度をもって接すれば良いのか、分からないだろう。
まったく自然に振る舞え、と言う方が無理なのかもしれない。
泣きだしそうな顔で黙りこんでしまった遼を横目で見る。
こんな状況になっても、逃げ出さない奴というのも、秀にとっては珍しかった。
「お前、親は?」
「いるけど…ほとんど勘当されたようなもんだから…」
ぼそぼそと呟くように、半ばは秀の反応を伺うような口調だった。
「勘当ってなんで」
「…俺、ギターやりたかったんだ。それで…専門学校、行きたくてさ。でも親は反対で…」
「それで家出とか?」
小さく頷く。
「…出てきたのはいいけど、もうその晩から泊まるとこもなくてさ。食うもんもなくって…。
何のあてもなくて出てきゃったんだ。金も二千円くらいしかなくってさ」
「……」
いまどき、珍しい。思わず、まじまじと遼の顔を見つめてしまった。
「それで」
「…それで…働くとこ、探してる時に敬さんに会った。
初めはその…誘われた時ね、ゲイ・バーの人かと思ったんだ。
でも、金になればいいかな、って」
少し顔を赤らめ、たどたどしく語る。秀は噴き出しそうになるのを必死で堪えた。
ゲイ・バーの人か。なるほど。啓がそれを聞いたらなんというだろう。
耐え切れなくて、ついに笑い出してしまった。
「大して変わんねえじゃん。お前の方は? もともとそういう趣味、あったの?」
「…なかった」
「じや、驚いたろ」
「少し…」
笑われて、どう対応したものか、と困惑しているらしい。
ますます赤くなってゆく顔をみながら、何となく気の毒になってきた。
もし、働く場所を失うのを恐れて嫌々ながら啓の相手をしているのだとしたら、こんなに罪なこともないだろう。
それをいうと、遼は少し首を傾げて考え、やがて、違う、と言った。
「だって…啓さん、優しいし…今は別に嫌じゃない…」
「だったらいいけど」
少し安心してコーヒーを入れる。
「広瀬からがたがた言われない?」
「今はそんなに」
そして、子供っぽい笑顔を向けた。
「ありがと、秀が言ってくれたんだってね、レジのこと」
「ああ、あれね。別にそんなつもりはねえよ。ただ、いい加減レジに飽きただけで」
コーヒーをすすりながら、広い家の中を見渡す。居間の隅に、赤いエレキギターが置かれている。
この家にも、秀の部屋はある。
秀はコーヒーカップを持ったまま、その部屋に向かった。
高校時代を過ごした部屋は、当時のままになっている。
多くの問題を抱えながらも、よく通い続けたものだと思う。
一番、辛かった時代だ。わずか半年前のことなのに、十年も前のことのように思える。
あの時から、秀は長袖しか着なくなったのだ。
長袖に、首まで隠す、スタンドカラーのシャツ。
いつのまにか、後に遼が来ていた。
「ここ、この前開けちゃってさ。啓さんに怒鳴られちゃった。ここが秀の部屋だって知らなかったんだ」
「なんで怒るんだ、あいつが」
苦笑して、ドアを閉める。とたんに、何か大事な捜し物があったのに、それが何だったか思い出せないような、そんな感覚に襲われた。
「…あいつが怒るこた、ねえ。構わねえよ、使っても」
置き忘れたものが何だったか考えながら、ドアを見つめたまま呟いた。
John di ghisinsei http://yokohama.cool.ne.jp/gisinsei1129/
2007/10/14