春の雪
慎重に、慎重に。
一騎は己に言い聞かせながら、そうっと白いクリームの中に最後の一粒のイチゴを埋め込んだ。
うん。これでいいかな。
プリン・ア・ラ・モードなるものを作るのは初めてだった。
乙姫のリクエストで、一騎は昔のファイルを見たり、食堂の職員たちに教わったりしながら何とか完成させた。
少し離れて見る。
ちょっと不恰好かも。
フルーツの盛り付けがなかなか難しく、写真にあるようにきれいには出来なくて、それが少々残念だったが味には変わりはないだろう、と思う。
一騎はふう、と息をついて出来上がったものを冷蔵庫に入れ、後片付けを始めた。
アルヴィスの食堂の中は今の時間は静まりかえっている。わずかに職員が二人ほど、夕食の仕込みのために残っているに過ぎない。
じき、遅番の者たちが出てくるだろう。
一騎は居残っている職員に挨拶をし、後ほどプリンは取りに来るからと言い置いてアルヴィスの出口に走った。
今日はまだ、これから一度家に戻って父のために着替えを取ってこなくてはならなかった。
皆城乙姫の誕生日だからといって、休日をもらえるとは思っていなかったが、それでも半日は休ませてくれたのだから父には感謝すべきだろう。
他の友人たちは乙姫のクラスで開かれたパーティに参加していた。忙しかった一騎と総士だけが加われず、今回、特別に許可をもらったのだ。
その父は今も会議室に篭っている。ここ数日、家にも帰れずにいた。
洗濯はアルヴィスで出来るにしても、時々足りないものは出る。その度に一騎は気分転換もかねて家に取りに帰った。
一通り、父に言われたものを取ってアルヴィスに引き返す途中、目の前に急に白いものが舞った。
………雪?
驚いて空を見る。空は、夕陽にオレンジ色に染まっている。
その眩しいほどのオレンジの中に、再び白いものがちらちらと舞い、視界の端に消える。
一騎は白いものが来た先を辿った。少し先の家の庭から、白い花を一杯に咲かせた木が見えた。風が吹くたび、雪のように花びらが散ってゆく。
花だったんだ。でも今頃…?
一騎は近くまで行き、その木を見上げた。
細い枝に可愛い、ちいさな花がついている。葉はない。
ところどころに蕾らしい、赤い丸いものがある。
白い花なのに。
花は白いのに、蕾は赤いのだろうか。それとも、白い花と赤い花と両方咲くのだろうか。
今は白いものしか見えない。赤い方が遅いのだろうか。だとしたら変わった花かもしれない。
そんなことを考え、気がつけば首が痛くなるほど長いことその木を見つめていた。
「どうしたね」
近くで声がして、一騎は驚いて飛びのいた。すぐ脇に痩せた老人が立っていた。半纏を着込み、片手に杖をついている。
「あ、驚いた…すみません、この木…見てたんです。これ…赤い蕾ついてますね。赤い花、咲くんですか?」
「あ?」
老人は一瞬ぽかんとして木を見上げ、やがて、乾いた笑い声を立てた。
「いやいや、これは違うよ。蕾はがくで包まれてるから赤く見えるだけだ。咲けば白いよ」
「…そうなんだ…」
「紅白が同じ枝に咲くのもあるがね。ほれ、向こうに見えるだろ」
老人は杖を高く差し上げ、奥の方を指す。少し奥に、確かにまばらに花をつけた木が見える。
「けど、あれはまだだなあ。もうあと一週間もあれば咲くだろうが。…どうしたね、梅が珍しいかね」
老人は可笑しそうに皺だらけの顔を綻ばせる。
「梅…これ、梅ですか」
梅の花は、一騎は良く知っている、と自分で思っていた。しかし、これほど近くでじっくりと観察したことがなかったことに、今初めて気がついた。
「梅の花だよ。今時分に咲く。切ってやろうか?」
「え。だって…花が咲いてるのに?」
「なに、構わん。昔から言うだろ、桜折る馬鹿、梅折らぬ馬鹿ってな。どれ、ちょい待っていなされ」
老人は言いながらひょこひょこと杖を突いて玄関に通じる石段を上がった。玄関先でごそごそやっていたが、やがてハサミを手に出てきた。杖を突いていた時とは別人のように力強い手つきで柄の長いハサミを持つと
しばらく木を眺めた。
「これにしようか」
いうなり、ばきり、と枝を切る。雪のように一騎の周りに花びらが散っていった。
さらに老人は枝を切る。その度に花びらが散る。そのままではなくなってしまいそうで一騎ははらはらしていた。
「あ、あの、もういいです、花が散っちゃう…」
老人は笑い、切った枝を新聞紙でくるくると包んだ。
「大丈夫、また咲くから」
「あの」
一騎は差し出された梅の花を受け取りながら言った。
「今度、友達も連れてここ、見に来ていいですか?」
老人は驚いたようだったが、すぐに、
「ああ、いつでも来なされ。だが梅の花は今ぐらいしか見れんぞ」
そういってにっこり笑った。
そうか。梅の花って今頃咲くんだ。
一騎は新聞紙に包まれた梅の枝を持って、暗くなった道をアルヴィスに急いだ。
春はもうすぐ、と思っても、花といえば桜くらいしか思い浮かばなかった。桜よりも前に、こんなにも目を楽しませてくれた花があったのだ。
乙姫ちゃんに上げよう。
老人が花を切ってくれる、といった時に真っ先に思ったことだった。
切花はアルヴィスの中にもあるが、このような木は少ない。まして梅などどこにもない。
気付かないだけであったらどうしよう。
少しずつ自信を失い、足取りも重くなっていつしかアルヴィスの入り口で一騎は立ち止まっていた。
でも。
再び歩き始める。
おじいさん、言ってたじゃないか。今時分しか咲かない、って。
この頃にしか咲かない花。白くて丸い花びらが落ちてきた時は一瞬、本当に雪だと思った。
春の雪のような花。
乙姫と総士はすでにアルヴィスの食堂にいた。
「ごめん、遅くなって」
思えば随分と長い時間を梅の木を眺めて過ごしてしまっていた。
「ちょっと急にプレゼントの追加が出来たんで」
「追加?」
きょとん、とした乙姫に、新聞紙に包まれた梅の枝を手渡す。
「きれいだったからもらってきたんだ」
「え? お花…?」
乙姫は呟きながら新聞紙を開いた。
とたんに、床にさあっと花びらが舞い散った。
「わあ!」
乙姫は片手に枝と新聞紙を持ったままで床を見つめ、歓声を上げた。
持って歩いている間に花びらが落ちて新聞紙の隙間にたまっていたのだろう。それが今、ひらひらと乙姫の周りに舞い落ちる。
「きれい! 総士、見て、きれい…!」
「雪みたいだろう?」
「うん!」
嬉しそうに床にかがみこみ、落ちた花びらをかき集める。集めるそばから軽いそれは手の平から宙に舞ってゆく。
「嬉しい」
乙姫は満面の笑みを浮かべて叫ぶように言った。
「ありがとう、一騎、素敵なもの見せてくれてありがとう!」
「どういたしまして。乙姫ちゃん、誕生日おめでとう」
「良かったな、乙姫」
それまでぽかんとしたままでいた総士がやっと言った。
「何かと思ったぞ、一騎。でもそれは大丈夫なのか?
枝を切ったりして」
一騎は頷いた。
「近所のおじいさんが切ってくれたんだ。梅はいいんだって、切っても。桜はいけないらしいけど」
「そうか」
ようやくほっとしたような笑みを見せる。
「それなら安心した」
「いやだな、俺が勝手に切ってくるわけ、ないだろ。それにね、梅って今の季節しか咲かないんだって。
乙姫ちゃんの生まれた季節にしか。だから記念になるかな、って思ったんだ」
乙姫はまた、嬉しそうに笑った。
食堂の職員に花瓶を借りて枝を生け、そして先ほどまで頑張って作ったプリンを出す。
「また随分頑張ったな」
プリンを見て、総士は呆れたように呟いた。
「まあね。年に一度の誕生日だからいいんじゃない?
ちゃんと総士の分も作ってあるよ」
三人だけのささやかなパーティの間にも、梅の花びらは時おり白い花びらを落す。それは三人の間を、ゆっくりと回り、本当に雪のように見えた。
「アルヴィスの中に雪を降らせてくれたのね。一騎、すごい」
花びらを手の平で受け止めながら嬉しそうに言う乙姫の笑顔に、一騎は今日一日の疲れが吹っ飛んでいくのを感じた。
春はもうそこまで。
John di ghisinsei http://yokohama.cool.ne.jp/gisinsei1129/
2008/03/08