新しい扉・剣司






 
    
 ぐつぐつと音を立てる鍋の中にスプーンを沈め、煮汁をすくって小皿にとる。
味は少し薄めに作ってあった。

 ちょうどいいか。

火を止め、小鉢に盛り付ける。
ジャガイモも皿に盛り付けただけで軽く崩れるくらいに─── 多少、煮過ぎるくらいに料理してあった。

さまざまな野菜を入れた、彩りも鮮やかな粥と煮物、豆腐の味噌汁を盆に乗せ、そっと持ち上げる。
目指す部屋はすぐそこだった。

盆を持ったまま、足先で襖を開ける。
畳の部屋に置かれたベッドの上で咲良は半身を起こしていた。

「一人で行けるか?」
少し離れた場所に置かれたテーブルに盆を置き、手を差し出す。咲良は小さく首を振った。
「大丈夫」
小声でいうと実にゆっくりとした動作で立ち上がる。
その動作のひとつひとつを注意深く見守る。

もし少しでも倒れそうになったらすぐに助けられるように――― もっとも、本人は嫌がるのだが。


畳の部屋にあえてベッドとテーブルを運び込んだのは、転んでも怪我を最小限に抑えるためだった。
力尽きたらその場で寝てしまってもいいのだ。
布団では、起き上がるときにより多くの力を必要とする。そのために、わざわざベッドを運び込んだのだ。


運ぶ足はまだぎこちない。それでも何とかテーブルにたどり着いて、咲良は今の彼女には精一杯の明るい笑顔を見せた。
そしてテーブルの上の食事に視線を向け、またにこり、と笑う。
「前よりも上達したんじゃない?」
その声は弱々しいながらかつての咲良と変わることはない。
喜びに胸が震えてくる。
「ああ。お母さんに毎日教わってるからな」
何とか、普通の口調で言えたと思う。
泣き出したいくらいに嬉しかった。


 ミョルニアのもたらした情報によって飛躍的に治療は進んでいた。それでも、まだ歩行困難な咲良のために剣司はあらゆる手間を惜しまなかった。
学校へ行き、アルヴィスに行き、その合間を縫って忙しく家へと取って返し、昼と晩の分の食事を作り、咲良に昼食をさせてから再びアルヴィスに戻る。
そんな毎日だった。



衛のことは話せなかった。咲良も聞いてはこない。
あるいは知っているのでは、と時々思うことがあった。

たまに車いすで散歩に連れ出す。そんなときも町中は通らず、寂しい海岸縁か山道だった。町中に行けば否応でも衛のことを思い出すだろう。そう思ってのことだった。

失いたくなかった友、自分を守ると言ってくれた、かけがえのない人、そんな人たちの犠牲の上に現在、がある。
それを思うと自分の意気地のなさ、弱さに泣きたくなる。

車いすを押して人気のない海岸沿いの道を行っていたとき、咲良がぽつりと、
「衛も…バカだよね…」
と、小声でつぶやいた。
やはり、知っていたのだろう。
俯いて、唇をふるわせている。泣くのを堪えているようだった。
剣司は黙ってただ、その肩を抱きしめていた。それしか、出来なかった。
知っていたのか、あるいは別のことで、なのかは聞くことが出来なかった。
また、聞くべきではないだろう。



 澄美と家事を交代して買い物に出る。
商店街を歩いていると真矢に出会った。真矢も買い物なのだろう、大きな袋を提げていた。

他愛のない話のあと、真矢がひとこと、
「どう?」
と聞いてきた。
それが咲良の事を指すのだ、ということはすぐに判った。

 犠牲になったものが多すぎるから、痛みが大きすぎるから、誰もが言葉少なになっていた。
これ、と特に名指ししなくとも、それがなんであるか、感じ取れるようになっていた。
痛みを少しでも和らげるために、言葉の外での会話が多くなってゆく。

軽く頷く。
「ありがと。だいぶいい」
「良かった」
少しの笑顔のあと、すぐに顔を曇らせる。一騎の事を想っているのだろう。
「あいつは……無茶ばかりするからな」
「……ん……でもわかるんだよね……」
「まあ……な」

そして真矢を見る。
「お前……どうすんの」
「……」
何を、と言わずとも判っているのだろう。真矢は俯いたまま、小さく呟いた。

「私、子供だったんだと思う」
真矢は軽く笑って足元の小さな石を転がした。
「でも……好きだったんだろ?」
「うん。好きだった」
だった、と過去形で言い切る真矢の笑顔は明るかった。
「今でも好き。でも昔とは違う。……どこが、ってうまく言えないけど……なんだろう……」
しばし、軽く首を傾げて考える。その視線は海の向こうを見ていた。
やがて、小さく、自らに言い聞かせるように呟いた。
「たぶん……たぶんね、私……私が見てた世界ってすごく狭かったんじゃないか、って。そう思う……よく分からないけど……」
「ああ。わかるな」



 子供だった頃の世界は狭かった。その中で、真矢の中で一騎はとりわけ輝いて見えたのだろう。
そしてそれは今も変わりがないのだろう、と思う。
自分の想いを貫くだけ、の時代は終わり、さまざまな愛の形を知ったのだろう、と剣司は思った。

決して一騎よりも好きな人が出来た、あるいは一騎を諦めた、ということではなく―――
一騎の求めているものが何であるかを知り、それを受け入れた、ということなのだろう。

 

それでいいのか、とは聞かなかった。
彼女は彼女に出来るすべてを果たしたのだろう、と思う。
一騎の特に意味はない呟きに、その時々の思い出を添えて語ることが出来るのは遠見真矢だけだろう。
一騎はおそらく、彼女との語らいの中で多くの安らぎを得ていたのだろうと思う。あの時からの、一騎にとっては気が遠くなるほどの時間を支えていたのは遠見真矢だったのだろう。


そういう形もあるのだ。
それもまた、ひとつの在り方だ。


交わす言葉は少なくとも、多くのことを真矢は汲み取ってくれる。
それだけに、時に怖くなる。
自分のことも見透かされているのではないだろうか、と。
己の醜い心が、彼女には丸見えなのではないだろうか、と。

遠見真矢を羨んで止まない自分の、明かしたことのない真実の気持ちを。

 何故、咲良だったのだろう。何故、母だったのだろう。
道生は壮絶な死を遂げたけれども、彼の忘れ形見がいて、姉がいて、母がいる。
そんな彼女が羨ましくてたまらないのだ。



取り留めのない会話を続けているうちに石段にさしかかる。
剣司は石段の前の道を折れた。
「じゃ……俺、こっちだから」
「うん。またね」
真矢のその言葉が終わる前に剣司は駆けだしていた。走りながら軽く手を挙げた。
振り返ることは、出来なかった。
涙があふれて止まらなくなっていた。

荷物を抱えて走りながら剣司はただ、泣き続けた。

こんな醜い感情に支配される自分が嫌だった。でも、それを否定することが出来なくて、それが悔しくて、悲しかった。

 咲良。母ちゃん。

家に向かう坂道の途中で荷物を抱え、立ち止まってしばらく泣き続けていた。


 咲良の顔を見たらまた泣いてしまいそうで、剣司は歯を食いしばって襖を開けた。
咲良はベッドに片手をついて足を上げていた。
「……咲良? 何やってるんだ?」
「うん……体操」
そういってにっこり笑う。つられて笑みがこぼれた。

 良かった。泣かずにすんだ。

咲良がこんな体でなかったら、といつも思う。
そう思うけれど、それでもこうしていると、心の底から喜びが沸き上がる。
咲良が生きていてくれただけで本当に良かった、と思う。

 幸福の形もそれぞれなのだ。
失ったものが多い者がより不幸だなどということはないのだろう。

今はただ、咲良のためだけに生きたかった。










 





John di ghisinsei http://ghisinsei.sakura.ne.jp/

2009/06/17