HAPPY BIRTHDAY 3

 
 どれほどの時間が経ったのか、よく分からない。
雀の喧しいさえずりに交じって、隣室から漏れてくる伸の声
に秀は飛び起きた。
 お腹がいっぱいになって、そのままソファの上で眠ってし
まったらしい。いつもなら、転寝してしまっても伸は放って
おくことなど、ない。
 いつも、一緒に寝ているのだ。
それが、何故、今日に限ってそうではなかったのか、という
ところまでは秀は今は、考えられなかった。
 まだ、頭の半分以上は眠っている。
しばらく耳を澄ませてみる。
と、また、伸の声が聞こえた。間違いない。隣室にいる。
それも、あろうことか、秀の大嫌いな、あいつの声も聞こえ
る。
 自分だけ、居間にとり残され、二人は隣室にいるのだ。.
秀は逆上してドアに体当たりを食らわせた。
再び、伸の声が聞こえる。
泣いているようにも聞こえる、その声に、秀はかっと頭に血
が昇った。
 ついに、秀は声を上げて泣いた。開かないドアに、怒りと
悲しみをぶつけて。



 「秀ってばそんな声、出さないでよ、もう」
伸が、くすくすと笑う。
その大事な人の素肌を傷つけることのないよう、秀はそっと
手をその胸に置いた。
 「おい、どういうことだよ、これは」
その声は、穏やかというには程遠いものだった。
「こっちには来させないって ―― 」

 「いいじゃない、別に」
だるそうな声がさえぎる。
閉められたカーテン越しに洩れる、淡い紫の光の中で毛布の
影が揺れ、褐色の肌が動いた。
「お前 ―― そいつと俺とどっちが大事なんだよ?」.
「変なこと言うなあ…本気で妬いてんの? 相手は猫だよ?」
「嘘つけ、猫じゃねえよ、こいつ。俺に喧嘩売ってやがる」
「そりゃそうさ、彼の側から言わせりゃ、君ほど邪魔な存在
もないだろうからさ、違う?」
 伸はくすくすと楽しそうに笑い、胸の上の、素晴らしく毛並
みの美しい、白い大きな猫を抱き締めた。
「むしろ光栄に思ってほしいな。僕の大好きなこの子に君と
同じ名前付けたんだから」
「ふん…」
「ねえ、秀。来月にはここ、来るんだろ? 
だったら少しこの子の機嫌とって仲良くしてよ。カツオブシ、
持ってくるとかしてさ。あ、アジとかサケも好きだよ、この
子」
「…なんだって猫一匹にそこまで…」
 秀は素肌にだらしなくバスローブを引っ掛けただけの姿で煙
草に火をつけ、窓辺によった。
垂れ下ったベルトが床を滑る。伸の胸の上にいた、大きな
 白い猫は大切な人の胸から飛び降りると、ベルトにじゃれ付
いた。
「…気に入らねえよ、同じ名前なんて」.
不貞腐れた声で言いながらも、ベルトを振って猫をじゃれさ
せている。
 タオル地で作られたベルトから、鋭い爪に引っ掛けられて、
糸がほつれてくる。
「秀、ぼろぼろにされるよ」
伸は小さく笑って眠そうな声でいった。.

 「僕、眠いや…秀のご飯、頼むよ。流しの横に缶詰があるか
らさ」
「これか…輸入もんか? これ」
「うん、まだ普通のは食べられないんだ。病院から出しても
らってんの」
「療養食ってわけかい。賛沢な。昨日、チキン、食ってたじ
ゃん。生クリームも」
「あれは大丈夫。ちゃんと医者に許可もらったもん。
六時になったら上げてね、缶詰の三分の一。少し温めてね。
残りはラップにくるんで冷蔵庫入れといて」
「ああ、もう、分かったよ、早く寝ろよ、うるさい」
秀は煩そうに手を振った。
「…ネコ一匹になんて騒ぎだい、まったく」
じゃれている猫の額をぐいぐいと乱暴に撫でる。
「俺も猫、飼おうかな。シンって名前のさ」
ひと呼吸おいてから、
「秀、俺が猫、連れてきても喧嘩しないでいられるよな」
そしてポリポリと頼を掻く。
「…なんか呼びにくいな…」
 暫らく考えに沈んでいたがやがて、止めとくか、と眩いた。
「大混乱になりそうだもんなあ、猫が二匹、俺たちと同じ名
前なんて。…おい、いつまでじゃれてんだ? こいつ、ぼろに
したら伸に怒られるぞ。これは伸からのプレゼントなんだか
らな」
 まだ名残惜しそうにベルトに手を出す白い、毛の長い猫を、
秀はその広い胸に抱き上げた。
「大きくなったな、お前。ちびだったのによ」
 
 そう、この猫はもともと、秀が拾った子猫だった。
家業の関係で猫が飼えないので、伸に預けられ、伸に育てら
れた。手の平くらいしかない、目も開いていなかった子猫は

 その後、すくすくと育ち、今では子犬ほどの大きさになって.
しまった。
 長く、真っ白な毛のせいで、とても捨て猫だったとは思え
ない。よくチンチラに間違われる、一見、とても高級そうな
甘ったれな猫。
 その彼は今、秀の腕の中で両足を突っ張っていた。
「おい、そんなに俺が嫌いか? うん?」
一度、猫を下ろしてから、背中を掻くようにして撫でて
やる。秀は喉を鳴らして床に転がった。
「カツオブシかあ…んじゃ今度、うんと上等なの、持ってく
るかんな、待ってろよ」

 そろそろ、六時になる。
猫の秀は、時計を見ることはない。見なくても、分かって
いる。もうじき、朝食の時間だということくらいは。
「ああ、もう分かったよ、やるよ、待ってろってば」
足元にまとわり付く猫を避けながら、秀は缶詰の蓋を開けに
掛かった。
 そのきいきいという音に、そして匂いに、秀の足元にいる白
いねこはたまらない、というように足にすがり付いてきた。
「こら、爪、立てるんじゃねえよ、いてえだろ!
伸! 何とかしてくれよ、おい、伸!」
 伸の返事はない。
 差し込む朝日は、昼間の暑さを暗示するかのように強く、
眩しい。窓際に置かれたポトスの葉が、カーテン越しの光を
反射して輝いている。
 まだ、人通りも少ない住宅地に、甲高い猫の鳴き声がこだ
ましていた。



             随分昔に、猫の秀の事を小説にしたくて書いたものです。まだ、秀が子猫の頃に思いついて、
          その後、5年ほどはなかなかチャンスがなくて、オンリーイベントの時に、初めて10部ほど出した物ですv