旋律なく・1
ただでさえ、寒い日が続いているのに、人のいない部屋はそれだけで、余計に寒々しく見える。
いつもの日課で、一騎は総士の部屋を掃除していた。
いつかは帰って来るから、その時に、必要なものをすぐに取りに来られるように。
もちろん、その先はここに住まわせるつもりはない。
父とも相談して、もし帰って来たら家に連れてくることになっていた。
相談、と言うのは、当たっていないかもしれない。
ほとんど、父には何も言わせなかったのだから。
部屋の中をひと通り見回し、一騎はため息をついた。
「よし」
小さく、口の中で呟き、部屋を出ようとして立ち止まった。
なんだ、これは。
背中に、何かが走る。次いで、頭に何かが響き渡る、ような気がした。
何かが来る。
そう思った時、外に複数の足音が聞こえて一騎は飛び出した。
遠見真矢が走ってくるのが見える。すぐ後にカノン、少し遅れて剣司の姿も。
「一騎くん! ねえ、何か…!」
真矢が息を切らしながら叫んだ。
「何か…来るの! 前に…一騎くん、迎えに行った時と同じような…」
不安そうに顔を引きつらせ、言葉を切った。
真矢の方に歩み寄ろうとして、一騎ははっと立ち止まった。
『何か』が、ますます強くなる。
と、いきなり真矢の姿が消えた。
――― そう見えただけで、実際には間にあった空気が、大きく揺らいで、視界を遮っていた。
「これはなんだ?」
カノンの叫びが遠くに聞こえる。
一騎はまたも、それを強く感じて、身動きが出来ずにいた。
――― 総士!
「総士だ!」
思わず、叫んでいた。
この気配は、間違いない。
直感で、そう思った。
「一騎! 大丈夫か?」
剣司の声が響く中、空気の揺れは収まり、代わって大きな渦が出来た。
「離れろっ!」
剣司の叫びと同時に、一騎も飛びのいていた。
総士なのに! おそらく、この渦の中心にいるのは総士だ。それが分かっているのに、飛び込んでいくことは出来なかった。
すさまじい圧力を感じる。それは自分たちを押し退けようとしているようでもあり、同時に、吸い込んで押し潰そうとしているかのようにも思える。
何らかの、強い意思を感じた。
「一騎くん!」
「俺は大丈夫だ!」
狭い廊下で、空気の渦をはさんで叫びを交わす。
そして、それは突然に消えた。
「…あれ?」
廊下の向こうに、剣司のぽかんとした姿が見える。
カノンも真矢も、呆然と立ち尽くしている。
「今のは何だっ…」
皆に歩み寄りながら言いかけて、一騎は口を閉ざした。
否、言葉が出なかった。
そこにあった、総士が愛用していた自動販売機、その中央に、大きな黒い円形のえぐれが出来ている。
そして、そこに、総士がいた。
「そ…」
驚きの余り、言葉も出ない。
恐る恐る近寄ると、それに勇気付けられたかのようにカノンも進み出てきた。
「…一騎」
「ん?」
「…これは…間違いなく総士か?」
「…ああ…間違いない…」
言い切るだけの自信など、実はなかったのだけれど、そう言うしか、なかった。
長い髪、目の上の傷。
アルヴィスの制服。
間違いない。総士だ。
「…と思う…」
一騎は付け加えた。と、カノンがきっ、と睨みつけてくる。
「と、思う、というのはなんだ」
「いや、あの…どういっていいのか分からないけど…少しこう…顔立ちが…でも、目をつぶってるし…」
何よりも、えぐれた自動販売機の空間の中で体を丸めているその姿が、どうにも信じられなかった。
いつの間にか傍に来ていた剣司がそっと鉄板を撫でている。
「…こっちには異常はない…電源は切れてるけど…ここから綺麗に…ナイフか何かで切ったみたいだな…」
その言葉どおりに、まるでスプーンですくわれて穴が開いたプリンのように――― きれいに、穴が開いていて、そこに総士は体を丸くして収まっていた。
「ここにあったコーヒーとメロンソーダは消えてるな…あ、りんごジュースもだ」
「ジンジャーエールもないよ…」
「ねえ、一騎君、近藤君」
遠見真矢の、剣のある声が飛んだ。
「ジュースのことより、皆城君をメディカルに運ぶ方が先じゃないの?」
「あ」
一騎は慌てた。
余りに意外な出来事に、どうかしてしまっていたらしい。
「そ、そうだな、メディカルに運ばなくちゃ。遠見、お前の母さんに連絡…」
「もうしたわよ」
呆れたように腰に手を当ててため息をつく。
「二人がジュースがなんの、ってやってる間にカノンが電話したわ」
「あ…ありがとう…」
まだ呆然としたまま、そっと総士の体に触れてみる。
間違いなく、肉体の感触がある。存在がある。
夢でもなんでもなく、総士は、戻ってきてくれたのだ。
約束どおりに。
「総士…」
現れた場所がこのようなところでなかったら、と思わないでもなかったけれど、どこであれ。
総士が帰って来てくれたのだ。それだけで、一騎には十分だった。
John di ghisinsei http://yokohama.cool.ne.jp/gisinsei1129/
2006/08/31