月影・5






 聞こえていた水音が途絶える。
魚はどこかへ行ってしまったのか、それとも一騎の熱い息遣いに消し去られたのか。
頭の芯までぼうっとしてくる。


「違う」
間近で囁く声とともに、熱い息が首筋に吹きかけられる。
「俺が好きなのはお前だけだ」
吐き出すように一気に言うと再び、強く抱きしめ、口付けてくる。

背後は壁で、両脇はしっかりと抑えつけられ逃げ場はなかった。
熱を持った唇が首へ、そして着物を肌蹴て肩の方にまで押し付けられる。
合わせた胸から一騎の速い鼓動が伝わってきて、その響きに目が回りそうだった。






 隣の部屋から響く、わずかな声に早乙女は密かなため息を落とした。

どうにか、うまく行ったように思える。

どこか複雑なものがある。
安堵したような、それでいて寂しいような。

 若が落ち着いてくださればよい。

そう自らに言い聞かせても、どこかにこの自分ではどうにも出来なかったという悔しさが滲む。

傅人として、総士が幼い頃から我が子のように慈しんできたのである。そろそろ頃合、と思っても、どこかでまだ何も知らぬ子供でいて欲しい、そんな気持ちがあったことも否めない。

 幾度目かのため息をついたとき、廊下の隅に人影が現れた。史彦だった。目が合うと軽く頭を下げる。
早乙女は音を立てぬよう、廊下を渡った。



「それでは早乙女様。私はこれより店に戻ります。
ここはお好きにお使いくださいますよう。警護のものも充分につけてございます」
静かな、抑揚のない口調で述べる。
「若様がお好きなだけ、滞在くださって構いませぬ」
「礼をいう。手間をかけさせたな」
何ともいいようのない心情を見透かされているような気がして短く答える。史彦は再び頭を下げた。
「何か御用なりとございましたらいつでもお呼びくださいませ」
そう言うと静かに立ち去ってゆく。
早乙女はその後ろ姿を苦い気持ちで見送っていた。








館に戻って後、しばらくは熱に浮かされたようだった総士も徐々に落ち着き、勉強に武道に、以前と同じ熱心さをもって取り組むようになった。

一騎は今はもう、当たり前のように総士の傍に付き従っている。
夜は、以前は真っ直ぐ床下へ行っていたものが、今は寝所へともに入っている。
それを見るたびに忌々しい気持ちにさせられる。





本を開いても、弓を引いても以前とは比較にならないほど集中できる。
総士は自分で自分に驚いていた。
それだけ、少し前までの自分は全てにおいて上の空だった、ということでもある。

 これは反省しなければ。

今はまだ良い。これで家督を継いだら私事で迷ってはいられないのだ。

ひゅん、と風を切る音とともに矢は的の中心に当たった。
次の矢を渡そうとしていた衛のもとに小者が駆け寄り、何事か囁く。
「どうした」
「は。将陵僚がお目通りを求めているそうで」
衛は矢を持ったまま、目で指示を仰いできた。
総士は頷いた。
「会おう。これを片付けてくれ」




庭先に僚が片膝をついていた。
その少し後ろに女性が平伏している。

「国に帰るのか?」
僚が近々国に帰る、というのは早乙女から聞いていた。
僚は、は、と頭を下げた。
「少しの間です。すぐまた戻りますがその前に――― 」
ちら、と後ろを振り返る。
「若様に仲間をお引き合わせいたしたく」
「仲間?」
平伏したままの女を見る。
「ともに若様に命を捧げましたる者、お見知りおき下さいますよう」
総士は頷いた。

「女。顔を上げよ」
静かに上げられた顔を見て総士ははっとした。
暗い中ではっきりしなかったとはいえ間違いない。
あの時に庭先にいた女だった。
何とか驚きを押し隠す。
すぐ横の障子の影に控えた一騎の気配が僅かに動いたように思った。


「名は。何という」
「祐未、と申します」
柔らかく、澄んだ声だ。女性らしいたおやかさの中に、どこか芯の強さを感じさせる。

「将陵僚の許婚にございます」
横に控えていた早乙女が囁いてくる。総士は頷いた。

自分の勘違いが恥ずかしくもあり、同時にあの晩の事を思い出して動揺が鎮まらない。
複雑な想いが胸を過ぎる。
庭先で姿を見かけたあの瞬間。
怒りに目が眩み、いっそ切って捨てようとも思った相手だった。

頬に血が昇ってくるのを感じた。
「許婚か」
「はい。若様にもお許しを頂きたく存じます」
僚は慎ましく俯いたまま言うとまた平伏した。

「そうか。では」
総士は何とか気持ちを落ち着かせようと努めた。
「江戸を発つ前にこちらで祝言を上げてゆくがよい」
自然と笑みが浮かぶ。僚が嬉しそうに顔を上げた。
「ありがとうございます」
二人揃って平伏する。障子の影の一騎もまた、嬉しそうに笑っていた。








 弓が伊予へ発ち、剣司もその警護のためにともに旅立っていった。
いつも陽気な剣司がいないと館の中も静かだ。

そして、今度は僚も旅立ってゆく。

月の明るい夜だった。涼しい風が緩やかに流れ、時折鈴虫の声を運んでくる。
縁側に置かれた小さな燭台のもとで酒を酌み交わす二つの影がある。早乙女柄鎖と将陵僚であった。


「剣司もおらぬでは若も寂しがりましょう」
月を眺め、饅頭を頬張りながら僚は言った。
「まあ……一騎がおれば良いのでしょうが」
その言葉に早乙女は露骨に嫌そうな顔をした。
僚は気にした風もなく、さらに饅頭に手を伸ばす。
「早乙女様も少しのんびりしすぎましたな。もそっと早うから少しずつ教えていくものでございましょう」
「まあ……な」
ずけずけとした物言いに苦笑して頷く。

「ま……おぬしにはやきもきさせてしまったな」
祐未のことを言っているのだろう。僚は首をすくめて笑った。

「それで私めにこの饅頭を下されたので?」
「ここの饅頭は江戸一ぞ。不服と申すか」
大仰に眉を寄せて見せ、そして笑った。

「お前も悪いのだ。何故もっと早う言わぬ」
「それは……この大事のとき。私事など……」
それでも、たかだか忍びの女だ。たとえ夫婦になっていようとも主君のためなら差し出せと言われたとて逆らうことは出来ないだろう。
それを強要されなかったことを僚は心の底から感謝していた。



「しかしの」
早乙女は膝をさすり、月を見上げた。
「若にはいずれお子が必要。今は良くても……どこぞに心利いたる良いおなごはおらぬものかの」
「まだまだあと三年くらい先でようございましょう」
僚は軽く笑った。
「めぼしをつけた姫御前はおられぬのですか」
饅頭を齧りながら早乙女を見る。早乙女は月を眺めたまま、うむ、と小さく唸る。
盃を取って僚に差し出した。
「おらぬでもないが。今度のことを考えてもことは慎重に運ばねば。時に僚。一騎の方はあれで良いのか?」
「と申しますと?」
「お前たちの掟のことは良くは知らぬが……」
「ああ。女たちのことですか」
僚は盃を唇に当てたまま、ふふ、と小さく笑った。

「これはこれ、あれはあれでございますよ」
「うむ?」
「一騎にも折を見ていずれ。恋と男女のそれを理解することとはまるで別物」
「なるほど」
「そのあたりを抑えておきませぬと痛い目を見るのは一騎のほう。……ともあれ今は若様ともども熱に浮かされておりますからな。治るまで待つしかありますまい」
くいっと盃を煽る。
「治るまで、か……」
早乙女は片手に盃を持ち、目を細めて月を見ている。

一筋の雲が月を横切ってゆく。
まるで月に寄り添うように、影のように纏わりつく雲が、総士に寄り添う一騎のようにも思えて早乙女は苦笑して盃を口に運んだ。

十三夜の、美しい月が江戸の町を見下ろしていた。
















 
 



 


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2009/04/28