月影・4
部屋で一人書見をしていても落ち着かない。
時折庭を見る。
一騎を呼べ、と僚は言っていた。
実際、そうしてみよう、とは何度も思った。
けれども、拒絶されるのではないかと思うと怖かった。
こうして思い煩うだけ時間の無駄なのだ、と判っていてもどうにも出来ない。
どうして良いのか判らなかった。
心は落ち着かず、文字の一つも頭に入らない。
座っていて駄目ならば、と総士はあずちに出た。弓でも引けば、と思ったのだが、これもまた、まるで当たらない。
ため息をついて弓を下ろし、傍らにいた衛に渡した時、早乙女がやってきた。
「どうかしたのか」
「は」
軽く両手を突いて頭を下げた後、真壁史彦から招待がありましたが、と伝えた。
「どこにじゃ」
「真壁家の寮にございます」
「真壁家の。私が行くのか」
「なんでも国元から鯛を生きたまま船で運んだそうで。
ぜひ、国の味を若に、と。お懐かしゅうございましょう」
「何故ここに運ばぬ」
「は、それが」
と、早乙女は残念そうに息をついた。
「鯛はあれでなかなかに繊細な魚でして。一度水から上げてしまいますとすぐに弱ってしまいます」
そもそも、真壁家では魚までは扱っていない。
たまに加工品を扱うくらいで鮮魚は畑違いだった。
従って、今回のように魚を運んでくる、というのも実にまれなことであった。
「いかがでございます、一度、ここを離れて遊んでみるのもよろしいかと」
「……お前の口から出た言葉とは思えんな」
思わず苦笑が洩れる。早乙女は口をへの字に曲げ、
「私とても若がいつまでもそのようでは」
と項垂れる。
「そうか。心配をかけた。すまなかった」
真壁の寮、ということに抵抗はある。
しかし、それを深く考えることよりも、一騎に会えるかも知れない、という期待の方が大きくなってゆく。
「瀬戸内の鯛か。久しく口にしていないな」
出来るだけさりげなく呟いてみる。
早乙女はにっこりと微笑んだ。
どこかほっとしたような様子がある。
何か謀でもあるのか、それとも自分の身を案じてのことか、と考えたのも一瞬のことだった。
「……出かけてみるか」
「は」
早乙女はすぐに立ち上がり、支度にかかった。
その寮は大きな川のほとりにあった。
もとは武家屋敷だったのを改装したというそれは、柳や松や杉、つつじといったさまざまな樹木に囲まれていた。
川からの風に松の梢は蕭々と揺れ、月を時に覆い隠すさまは一幅の画のような趣があった。
屋敷に入った総士を、史彦が丁重に出迎えてくれた。
一休みした後、料理が運ばれてくる。
彩りも豊かな菜の物、澄まし汁に蛤を焼いたもの、そして新鮮なクロダイの刺身。
江戸に来てからというもの、まず食べられなかったものばかりだった。
思えば国元は豊かだったと思う。
魚など、毎日新鮮なものを食べられたのだ。
一騎など、自分で魚を獲って焼いてくれたではないか。
海や川では毎日新鮮な魚介が上がり、そして山では季節ごとにさまざまな山菜や木の実が取れた。
小さいながら豊かだったのだ、としみじみ思う。
「真壁屋が挨拶に参りました」
敷居の向こうで早乙女が頭を下げる。
「おお、入るように言え」
「は」
やがて、入ってきた人物を見て総士はぎくりと箸を止めた。
一騎だった。
てっきり史彦が来るもの、と思っていたのだ。
急には口も利けず、ただ凝視していた。
静かに襖が閉められる。早乙女を呼び止めたくとも、言葉も出てこない。
型どおりの挨拶を済ませると一騎は顔を上げ、にこり、と笑った。
膳の上の料理に目を移す。
「国元の海や山で採れたものばかり、お屋敷の方にも今頃届いてると思う」
「……そうか」
一騎の打ち解けた調子に幾分緊張の糸が緩む。
「このクロダイは生きたまま運んだと聞いたが……大きな船なのだろうな」
「ああ。品川沖まで大きな船で運んで、そこから小船で川伝いにここまで」
海では新鮮な海水をいつでも生簀に入れることが出来るが、小さな船で川に移ってからはそれが難しい、と一騎は説明した。
「生きたまま運ぶにはここまでがやっとなんだ。
本当ならお屋敷まで運びたいんだけど」
「そうだったのか」
それでわざわざここへ招待したのか、と総士はようやく納得した。
食事がすむ頃には総士もだいぶ落ち着いてきた。
一騎と二人きり、と思うと緊張もするが、尽きることのないふるさとの話をしている間はそれも忘れていられた。
ふと、総士は時折外から水音が聞こえることに気がついた。
「あの音は?」
船がまだ置いてあるのかと立ち上がる。もしあるなら見たいと思った。
「魚が跳ねてるんだ」
「魚……」
なるほど、月明かりに照らされた川面に時折光る影が躍り上がる。そのたび、幾重もの水紋が煌きながら広がってゆく。
昼間の暑さも今はなく、川の上を渡る涼しい風が吹き込んでくる。
と、そこに動く影がある。
「人……か?」
小さく一人ごちた声が聞こえたものか、その影は動いた。
庭の木陰に立っていたのは女性だった。月の光の下、白く、細い首が青白くなまめかしく浮き上がる。
総士を見、にこりと微笑むと軽く会釈をしてすい、と闇に吸い込まれるように消えた。
「あ。祐未さん」
すぐ後ろから聞こえた一騎の声に、かっと血が昇った。
胸の奥に何かがねじ込まれるような痛みが走る。
「知っているのか」
我知らず、抑えた、低い声になっていた。
一騎はその様子に気付いたものかどうか、外を覗き、今にも手を振りそうな勢いだった。
「同じ仲間…ずっと遠くにいて最近江戸に戻ってきたんだ。今日は父さんに言われてここの見張りをしているらしい」
淀みなく喋り続ける一騎の声が、祐未という女性に対する親しさを表しているような嬉しそうな声音が厭わしく感じた。
仲間、ということは同じ忍びなのだろう。
それならば何故、わざわざ姿を見せるようなことをしたのか。
もしかしたら面白半分に見物していたのでは、とさえ思えた。
つい先刻までの浮き立っていた気持ちはもうない。
頭から冷水を浴びせられた気分だった。
「もうじき国に戻ると溝口様が言ってたな」
溝口の名前が出て、総士は体が震えた。
屋敷でのやり取りが思い出される。あのときの女、とはもしやあの女ではないのか。
僚は女たちは帰した、と言っていた。
しかし、それが嘘でないとどうして言い切れるだろう。
疑ってかかる事はすでに習い性になっていた。今、一騎を前にしても変えることは出来なかった。
「お前の相手とはあの女か」
「え?」
一騎の丸い瞳が見開かれる。
「あの女がお前の相手をしたのか」
言わなければ良かった、と思った。
一騎を責めてみれば少しはこの痛みが消えるだろうと思ったのだ。痛みは消えるどころか、ますますきりきりと胸を締め付けてくる。
喉に何かが詰ったようにそれ以上の言葉を発することも出来ない。
一騎の驚いたような瞳を見るのが辛く、それでも、ここで目を離したら負け、と思えた。
「総士……?」
心底驚いたように、何の話か判らない、と言った様子に苛立ち、怒りがこみ上げてくる。
「正直に」
その一言を言った時。
熱い何かが吐き出された気がした。
いきなり涙がぼろぼろと零れ落ちる。止めることはできなかった。
「総士?」
慌てたように一騎はがたがたと音を立てて障子を閉めた。
腹の奥から込み上げてくる何かが止められない。
それは痛みを伴って胸を潰そうとしているかのようだ。
「総士……」
いきなり視界が暗くなる。一騎の顔が近づいてきたのだと知って慌てた。
逃れる間もなく唇がふさがれる。次いで強い力で抱き寄せられた。
膝が震えてくるのが判った。力が抜けてくる。
同時に全身が火のように熱くなっていくのが感じられた。
John di ghisinsei http://yokohama.cool.ne.jp/gisinsei1129/
2009/03/31