月影・3






 ほとほとと襖を叩く音と同時に、手塚の声がした。
「お食事をお持ちしました」
「いらない」
一騎は布団から首だけ出して答えた。
「駄目ですよ、お体に障ります」
からり、と戸が開いて影が滑り込んでくる。

仕方なく、一騎は布団から出て膳の前に座った。
膳の上にはおひたしや煮魚、和え物、香の物などが並んでいた。

 ふと、館での食事を思い出す。
皆城家の屋敷に詰めていたころは当然のことながらみなと同じ食事だった。
それはとても質素なもので、魚などもめざしがたまに出るくらいだった。

国元にいれば漁師たちや近隣の農民たちが何かと届け物をしてくれるから新鮮な野菜や魚には事欠かないが、江戸では事情が違う。
こちらも海はあるが当然のことながら自分で採るわけに行かず、そして買うには江戸は物が高すぎた。

 総士にも魚、食べさせてやりたい。

煮魚を眺め、そのようなことを思う。

「どうかなさいましたか?」
見ると手塚が覗き込んでいた。一騎は慌てて箸を取った。
「あ、なんでもないんだ」
一人で食べるからいい、と言おうとして、
「あ、あの」
手塚を呼び止めていた。
「なんです?」
「あの……この家は……なんでお殿様のところにいろいろ……こう……助けてるっていうか…その」
「ああ。そのことでございますか」
「うん……あの、今日」
「はい」
「……今日……若様に言われたんだ」


総士に言われたことが棘のように引っかかっていて気持ちが晴れない。
以前、父には先々代の頃に恩を受けているので、ということは聞いていたが、それだけでここまで、という気持ちがある。おそらく、総士もそうなのだろうと思う。


手塚は昔、両親を亡くして後、史彦の両親に育てられたといっていた。そのあたりの事情を何か知っているかもしれない。

しかし、手塚はちょこん、と膝の上で両手をそろえ、首を傾げた。
「はあ。私も詳しくは」
細い、整った眉が僅かに寄せられる。
「関ヶ原の頃、と聞いております」
伏せてあった湯飲みを取り、茶を注ぐ。
それを膳に乗せ、どうぞ、と軽く一礼してから続けた。

「当時、それぞれ各藩の情報を探ろうと躍起になっておりました。我ら一族も同じ、毛利家の手足となり各地に散っておりましたが。
あるとき、徳川方の者たちに在所を突き止められ、囲まれまして、方々に逃げたんだそうです。
そのままでしたら一族は滅亡していたでしょう」

そこを、皆城家に救われた、という。
その頃でさえ、徳川に逆らう、というのはなまなかなことではなかった。
しかし、皆城家では一族を匿い、徳川にはついに知らぬ、で通した。


「先々代よりもっと前のことになるでしょうね。
ともあれ、以来、ずっと我らはその時の恩義を忘れてはならじとそれはもう、赤子の頃から言われております」
「それだけ?」
「それだけではございませんよ。我らの仲間の中には行商をしているものがございます。ご存知でしょう」
それは知っていた。


情報を集める傍ら、ではあるが、行商をしてその時々の金子を集めている。
「それらの品々もまた、お国から送られてくるもの、さらには我らの扱っているものも」
店の方を振り返る。
「ここが江戸でも指折りの大店になれたのも、国元から送られてくるものが大変役に立っております。
それもこれも、お殿様のおかげでございましょう?」
「あ……そうか」
手塚は何度も頷いた。
「お殿様がきちんとお国を治めてくださっているから我らもこうして商売も出来る。ゆえに上がりを献上するのに何の不思議もございません。
若君がお気になさると仰ってましたがそれは違いまする」
「そう……か」
一騎はほうっと息をついて椀を手に取った。
「じゃあ…若様が気になさることはないんだ」
「ええ。持ちつ持たれつ、ということでございますよ」

なんだか気持ちも軽くなる。そうなると一気に腹も減ってくる。何しろ、今日はほとんど食事らしいものを口にしなかったのだ。
一騎はがつがつと飯を平らげ、手塚を喜ばせた。






 

皆城邸ではすでにどの部屋も灯りを落としていた。
暗い廊下に人影が浮かぶ。早乙女だった。
ろうそくを手に、ゆっくりとあたりを見回しながら進む。
やがて、一つの影を見つけるとその影に向かって頷いた。

それからしばらくして。
月の灯りが障子越しに落ちる総士の部屋に、ぼとり、と墨を落としたように影が落ちた。
その影は総士が眠る夜具の中に滲むように消えていった。







六つの鐘が鳴る。白々とした朝靄に沈む森の中、太い木の梢で動くものがある。
将陵僚だった。
木にもたれ、あくびを噛み殺しつつ、すぐ目の前に広がる館の庭を見る。
再び出てきたあくびを抑えるとそのまま、木の枝の間で浅い眠りに入った。


僚が目を覚ましたのはそれから一刻ほどたってからだった。
まだ寝足りない。が、尋常ならざる気配に体のほうはすでに目覚めていた。
するすると枝を伝い、庭のそばまで出る。すとんと裏通りに下りると裏木戸を叩いた。
すぐに中間が顔を出す。顔見知りの男で、彼は一礼して戸をあけてくれた。


「何事かありましたので?」
なにやらおろおろしている早乙女を捕まえて声をかける。早乙女ははっとしたように、
「将陵殿、ちょっと来なされ」
というと手近な部屋へと僚を押し込んだ。

「将陵殿、昨夜……若は……?」
「はあ。お手筈の通りに。それが何か?」
早乙女は舌打ちをして手にした扇で膝を叩いた。
「何かも何も。若が起きてこられないのじゃ」
「は?」
「今日は起きたくないと申されてな。将陵殿、何か……何か知らぬか」
「いえ、何も」
笑いを堪え、努めて平静を装って答える。
「大丈夫ですよ、まあ…はしかのようなものと思えば」
「はしかだと?」
僚は頷いた。
「ご存知ありませぬか、流行り病の」
「知っておるわ、馬鹿にするか、おぬし」
僚はついにおかしくなって声を上げて笑った。
「早乙女様、ここはそっと。……そうですね、ちょっと……風邪とでもいうことにしておくというのはいかがでしょう?」
「風邪……しかし……」
「たまにはいいではありませぬか。さぼることも時に必要。早乙女様には覚えはありませぬか?
……医者でも治せぬ重大な病とか」
「……なんだと」
生真面目一方の早乙女の顔を見つめ、にこり、と笑って見せた。
「誰でも罹る病でして」
「…………」
早乙女の端正な顔が朱に染まる。
ようやくと気がついたらしい。

扇をはかまに挿すと、気が抜けたようにすとん、と腰を下ろした。
「どうしたら良いかの」
「お休みいただくのが一番です。ゆっくりとさせてあげなされ」
軽く一礼する。
「この件は私めにお任せ下されました。向後もうまくやりましょう。ご安心くだされ」
「………」
早乙女が小さく頷いたのを見て僚は立ち上がり、館を後にした。



再び森に入り、木に登って眠りの続きにかかる。
総士が寝込んでしまうというのは予想外ではあったが、それでも都合のいい方向に進んでいるのは間違いなかった。
















 
 



 


John di ghisinsei http://ghisinsei.sakura.ne.jp/

2009/03/15