月影・2
溝口にはああ言ったものの、実際のところどうしたら良いのか、と僚は考え込みながら薄暗くなった路地を行き、家へと急いでいた。
細い路地の両側に古びた長屋が続く。今、その一角に堂馬量平とともに暮らしている。
堂馬はわらじなどを売り歩く傍ら、町の様子を探ったり、時に上方まで足を延ばしたりもしている。
将陵僚はその堂馬の甥、ということになっていた。
からり、と戸を開けるとおかえり、という明るい声に迎えられた。
「遅かったの。お客人が来ておるぞ」
「客?」
振り返って驚いた。
台所に愛らしい少女が立っている。
生駒祐未だった。
国家老生駒正幸の娘で、同じ忍びの仲間だった。
長い間、狩谷家に入り込んでいた者たちとの繋ぎの役目を勤めていたために、将来を誓いながら会うことも出来なかったのだ。
「いつ戻ったのだ?」
思わず抱きつきそうになって湯気を立てる熱い鍋に阻まれた。
「おとついですよ、さあご飯にしましょう。お腹すいたでしょう。手と顔を洗ってきてくださいな」
一瞬、自分の役目のことも忘れて僚はいそいそと手を洗いに井戸端へ飛んでいった。
祐未の作った芋粥に舌鼓を打ちながらあれこれと話をしていると時の立つのも忘れる。
やがて、食事も終わろうかという頃、堂馬は、
「では年寄りは酒でも飲んでこよう」
と、にこにこと微笑みながら席を立った。
「ゆるりとしていきなされ」
「あ……」
止める間もなくするりと出て行ってしまった。
「相変わらずですね、堂馬のおじ様は」
祐未は目を細めてころころと笑った。
ふっくらとした唇に綺麗に並んだ白い歯が眩しい。
「伊予へ戻るのか?」
祐未は微笑み、頷いた。
「あの村でお待ちしています。もうじき、戻れるのでしょう?」
「あ? ああ……」
そうだ。
まだ自分には役目があったのだった。
跡目を巡る騒ぎは一応は収まったといえる。
しかし、まだまだここを離れるわけにはいきそうにない。
「どうなさったの?」
不思議そうに覗きこむ黒い、大きな瞳にうろたえ、茶碗に手を伸ばす。
「ああ……ちょっとな……なんというか……」
どこまで話したらよいものかと思案しながら、
「その……一騎もいよいよ最後の修行にかかったんだが……その……」
口ごもっていると祐未はおっとりと微笑んだ。
「ああ。はい、存じてますよ。溝口さまのご命令とかで」
「聞いていたか」
おそらく、女衆を探すためか何かで祐未も手伝ったのだろう。
「それはいいのだが。若様がへそを曲げてしまわれて」
ふう、と思わずため息が出た。
軽く事情を話す。たいしたことは言わずとも祐未も判ったらしい。
「あら。ではこの前早乙女様が言ってたお話って…」
指先を唇に当てて小首を傾げる。
「なに、早乙女様にお会いしたのか?」
「ええ、遠見様のところで。私に若様にお仕えする気はないか、と」
「なんだって?」
危なく茶を吹きそうになって僚は慌てた。
「では。あれは本気だったのですね。私、笑い飛ばしてしまった」
「いや。それでいい。戯言だ」
冗談ではない。
僚は冷や汗をかいていた。
お祐未を若の側女にする気だったのか……。
早乙女もまったく考えていないわけではなかったようだが、かといって祐未を側女に、というのはいくらなんでも乱暴に過ぎる。
確かに下手にどこかの姫を連れてくるのも今の時期、危険だろう。それよりは代々仕えてきた忍びの者から選んだ方が、と考えたのかもしれない。
お家の大事、ということもあって自分たちの事は黙っていたのだが、それが裏目に出たらしい。
妙齢の娘、ということで祐未が目をつけられたとしても不思議はないのだ。
ここに来て問題ははるかに差し迫ったものとなってきた。これまではどこかで他人事と思っていたが、下手をすると自分たちに火の粉がかかる。
否応でも僚は必死にならざるを得なくなっていた。
真壁史彦の店は主に陶器を扱っていたが、他にも小間物や地方の特産品なども置いている。
最近ではかなり繁盛していて、父も使用人も大忙しだった。
家に帰った一騎はそっと店の方を覗いてみた。
使用人たちがうろうろしている。
父は手塚に何やら指図していた。どうも、どこかの大名家の屋敷に届け物をするらしい。
父に声をかけようとしてやめた。
どうかするとこのまま溝口のところへ連れていかれかねない
そっと襖を閉め、自室へ篭る。
総士の言葉が耳を離れない。
いっそ、父に勘当してもらいたいくらいだ、と思う。
あのような言葉を言わせたくなかった。
真壁の家と自分と、切り離して欲しかった。
もともとは先々代の頃からの縁だと聞いている。
そんなの、今の自分には関係ないのに。
一騎は布団を引っ張り出し、もぐりこんだ。
今日は誰が来ても顔は出さないつもりだった。食事もしたくない。
一人になりたかった。
女、か。
溝口の言葉が思い出される。
そういったことがあるというのは聞いていたが、今は考えたくもない。
何故か罪悪感に襲われる。
総士に対する裏切りだ、とも思った。
そんなこと……しなくたっていいんだ。
一騎は自分に言い聞かせ、目を閉じた。
暑い日が続いている。今を先途とばかりに鳴く蝉の声は耳を聾さんばかりになっていた。
庭の砂利は水を打ってもすぐに熱くなる。
部屋の中はいくらか涼しいとはいえ、それでもじっとしているだけで汗が滲む。
総士の警護を勤める衛も、縁側に座りながら時折汗を拭っていた。
「お勉強ですか」
いきなりの声に、書物を読んでいた総士はぎょっと顔を上げた。
いつの間にかすぐ隣に僚がいる。
「ああ。……お前は。どうした」
すぐに平静を装うことが出来るのはさすがというべきか。
僚は軽く頭を下げた。
「少しだけお話してもようございますか」
「何の話だ」
ぷい、と横を向く。いつにない、子供じみた仕種だった。
「一騎が」
言いかけただけで、その体が大きく震えたのが判った。
「一騎がいませんと不安ですか?」
「そんなことはない」
精一杯の強がりなのだろう、そういった声はかすかに震えていた。
自分でも気付いたのだろう、小さく息を落とす。
「……正直……不安だ」
「一騎が出奔してしばらくはお一人でしたのに?」
「……」
困惑したように僅かに眉を寄せる。
本当に自分でも理解できないらしいその様子に、思わず笑みが浮かんだ。
一騎がいないと寂しい、離れたくない―――
そう言いたくないばかりに懸命に言い訳を探しているようにも思える。
「一騎がいると……安心できるのですね?」
「当然だ、私の身辺を警護するのは彼の役目だろう。
それに一騎は腕も立つ」
やっと言い訳を見つけた、といわんばかりに早口にまくし立てる。
「彼よりも私の方が腕は立ちますが」
「……その。お前が頼りにならぬというわけではない。
お前でも良いぞ」
あまりな言い方に、僚は苦笑した。
「若様は……一騎がお好きなのですね」
思い切って言ってみた。総士はそれこそハトが豆鉄砲を食らったような顔をしていた。
きょとん、と大きく見開かれた瞳は本当に邪気のないものだった。
そのまま宙を見つめ、首を傾げる。
本当に、まったく自覚がなかったらしい。
一騎が好きなのか、と言われてもすぐには判らなかったのだろう。
まるで珍しいものを発見した、とでもいうように僚を見つめていた。
やがて顔を赤くして俯く。
「その……私はきっとおかしいのだ……もしかしたら病気かも知れない……」
「何故です」
「…………」
総士は長いこと黙っていた。
僚もまた、辛抱強く待っていた。
日も傾き、蝉の声も少なくなってきている。
少しずつ涼しい風も吹き込むようになってきた。
長いこと俯いたまま畳を見つめていた総士は、やがて僅かに顔を上げた。
ちら、と僚の方へ視線を走らせる。
「その……一騎の修行とやらは……終わったのか?」
泣き出しそうな声だ。僚は静かに首を振った。
「そうか……」
幾分、安堵したような響きがある。実際、安堵したのだろう。肩が大きく喘いでいた。
「一騎のことを考えると……おかしくなるのだ……。
だからこれはきっと病気だろう、と……この前の話を聞いてから特にそうじゃ。酷くなったように思える」
「おかしく、とは?」
ちら、とこちらに向けられた瞳は潤んでいた。
唇が僅かに震えている。
すぐに俯いてしまい、それ以上は何も語ろうとはしない。
僚は軽く一礼して、その場を辞した。
すぐ隣の部屋には早乙女が控えていた。
僚が部屋を出ると同時に、早乙女も廊下に出る。
「早乙女様。お手筈の通りに」
「……わかった」
早乙女は半ば顔を背けたまま頷いた。
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2009/03/05