月影






 江戸の夏はその年、特に暑かった。

茶室の中は風が通るように小窓を開け放してある。
その中で総士は僚から道生の様子を聞いていた。

溝口も、そして一騎も一緒に聞いている。
僚は差し出された茶碗を両手に取り、一口すすった。
「兄上は寂しがってはおらぬか? お弓どのが出立するのはまだもう少し時間がかかるが」
僚は微笑み、頷いた。
「最近では時々釣りに出かけられるとか」
「そうか」

 道生は今、伊予の館で小さな庵を与えられ、そこで暮らしている。
ほとんど出ることはないが、釣りに行くくらいは許される。無論、見張りを兼ねた供を連れてのことであった。

釣った魚は帰る道々にある小さな村などで子供たちに配ってしまうという。

「時に川に釣りに出かけられることも。
こちらにいらした時よりものびのびされているようにお見受けしました」
「かも知れぬな」

今の道生の立場は確かに気楽なものといえた。
時折、ふと羨ましくなることがある。
もって生まれた定めとはいえ、これから先、藩というもの、そこに暮らす領民たち全ての生活を背負って生きることは決して簡単なことではない。

「今度…国に戻ったら私も兄上と一緒に釣りに行きたい」
「よろしいですな。その時は是非某もご一緒したいもので」
溝口は楽しそうに笑い、そして居住まいを正して軽く手をついた。

「時に若。今、ここに一騎もいるのでちょうど良い。
お願いがあるのですが」
「うん? なんだ」
「一騎は今、若の御寝所の床下にずっと詰めていると聞きました」
「ああ」

まだ狩谷家の動きは油断ならない。
何かあってからでは遅い、ということで宿直の間には衛が、床下には一騎が常に詰めている。

溝口は視線を僚の方に移し、次いで総士を見た。
「その任をしばらく解いていただき、一騎をしばしお貸し願いたいのですが」
「何故じゃ」
きょとんとして問い返す。
溝口は、は、と頭を下げた。
「これは我らのみの間のことゆえ……」
「言えぬというのか」
明らかに気分を害した様子だった。
眉を寄せ、不快感を隠そうとしない総士に僚は内心でため息をついていた。

 こういうところがまだ子供だ、と思う。
これが公蔵であったら何の詮索もしないだろう。
実際、組織の中のことは公蔵にも知らせていないことも多い。それでも、公蔵はその方がお前たちも動きやすかろう、と任せてくれる。


「私にも言えない秘め事なのか?」
理由も判らぬままに一騎を役目から解くことはできぬ、と言い張る総士の様子はまるで駄々っ子のようにしか見えなかった。

ついに、溝口は大きくため息をついた。
「ならば……申し上げます。
ただいまこちらに女を三人ほど用意してございます」
「女?」
「はい。一騎はまだ女を知らぬ。それでは後々困ったことに相成ります。ゆえに相手を―――」

 この言い方は……わざとか。
僚は天を仰いだ。

「は?」
当の一騎が素っ頓狂な声を上げた。
総士の頬に見る見る血が昇る。
「なんじゃ、それは。……一騎には言い交わした女でもいた、ということか?」
どこをどう勘違いしたらそうなるのか、まるで見当違いのことを言い出した総士に、僚は俯いて笑いを堪えていた。

「言い交わしたなど。三人とも経験豊かな女たちです。一騎によう教えてくれるでしょう」
「ちょっと待ってください」
一騎がどもりながら遮った。
「それは…その話は親父殿も知っているのですか?」
「もちろん」
溝口は大きく頷いた。
「父御にはよしなにと」
「行くが良い」
ぶつっと切るような調子で総士が呟いた。明らかに一騎に向けてなのだろうが、視線は茶釜に向いていた。
「行くがよかろう。なんなら帰ってこなくても良いぞ」
「総士!」
思わず叫んだ一騎に溝口がきつい視線を投げた。
「一騎。若に何という口を利く。言葉を慎め」
そのまま総士に向き直る。
「では後ほど一騎を連れに参ります」
一礼して立ち上がる。僚も続いて席を立った。








 総士は身じろぎもせずに茶釜を睨みつけている。
まさに茶釜に何か恨みでもあるかのような形相だった。
背後で戸の閉まる音を聞き、足音が遠のくのを確認してから一騎は思い切って声をかけた。
「総士、俺は……」
「行け」
きっ、ときつい眼差しを向ける。
「今日初めてあんな話聞いたんだ! 冗談じゃないよ、そんな……」
溝口の言葉を思い出して赤面する。

そういえば前に溝口に言われたことがあった。
しかし、その時はまだやることがある、というくらいの言い方だった。まさかこんなことだとは思わなかった。
さらに、それを総士の前でいうこともないだろう、と腹を立ててもいた。

「真壁史彦も承知の上だと言っていたな」
「父さんからも何も聞いてない…!」
総士はふん、と鼻先で笑い、立ち上がった。
「仕方ないな」
呟くような小声だった。
「確かに……そうだな、私にはお前を拘束することは出来ぬ」
虚ろな、それでいてどこか皮肉めいた口調だった。
「真壁家の助力なくば我が藩は立ち行かぬ」
「総士!」
あまりといえばあまりな言い方だった。
一騎は我を忘れて掴みかかっていた。
「どういう意味だそれは!」
「無礼者!」
叩きつけるような言葉に、はっと体が硬直した。
「……行けと言っているのだ。もしお前が嫌だといったところで……」
俯き、その顔は髪に隠れて見えない。震える口元だけが僅かに見えた。
「今の私に何が出来る……」
「……」

お前が行くなというなら行かない。
そう、言いたかった。
ずっとそばにいる、そう約束したのだ。だから。

そう言おうとした。しかし、言えなかった。
これ以上ここにいるのは許されない気がした。
俯いたきりの総士をこれ以上見ていることは許されない。そんな気がしていた。








 人の動く気配に溝口と僚は壁から体を離し、床下を伝って裏庭から森に出た。
森の中は涼しく、小鳥のさえずりが耳に心地よい。
溝口は大きな木の根元に腰を下ろすとため息をついた。
すぐ隣に僚も腰を下ろす。

「どう思うね?」
苦笑しながら聞いてくる溝口に僚は苦笑を返した。

 あの後も茶室のそばに残って二人のやり取りを残らず聞いていた。
前々から何となく気がかりなことがあった。
今日のやり取りでほぼ確信したと言っていいだろう。

「それにしても」
僚は呟いた。
総士の反応に何となく違和感を覚えていた。

「あの、溝口様。若はもしかして……」
そっと溝口の目を覗きこむ。溝口は唸った。

僚には、総士はまったく経験がないように思われた。
あの反応はまるでものを知らない子供のようだ。
「……本来であれば早乙女様がすべて気配りをするのだが。まあいろいろあったからなあ。忙しかったのもあるだろう」
そしてふっと小さく笑った。
「まずもって早乙女様は朴念仁ゆえな。そちらには子供より疎いかも知れぬ」
「しかしそれでは……若はいずれお子もなさねばならないのに」
「その頃までには何とかなるであろうが、我らの今の心配は一騎の方よ。あのままではまずい」
僚もそれには深く頷いた。

 男の忍びにとってもっとも手強い敵は女である。
女で懐柔する、という手は古来からよく使われるものであり、またもっとも効果的でもあった。
女を知らない歳若い忍びであればたちまち篭絡されてしまうだろう。
それは当人の命取りになるだけでなく、お家にとっても危険だった。女の虜になり、そのために仲間を裏切る者は絶えなかった。

そのために経験豊かな女に相手をさせる、ということが昔から行われていた。




「しかしこうなったら違う方法を考えねばな。今のままでは若が大いにへそを曲げてしまうぞ」
「はあ」
あいまいに頷く。

なんとなくそうかな、と思って見てはいたものの、実際に確信してしまうと何とも複雑なものがあった。
「殿にはなんと…?」
「なに、なんとでも言いぬける。それは私がやろう。
あとはお前さんに任せていいかね」
「はあ?」
驚き、咳き込んでしまった。まさか自分に振られるとは思っても見なかった――― とはいえ、ここは自分しかいないだろう。
僚は小さく息を吐くと頷いた。





















John di ghisinsei http://yokohama.cool.ne.jp/gisinsei1129/

2009/02/27