彼方へ・9
モニターは唸りをあげ、果てがないかと思われるほどに長い演算を続けている。
弓子は苛々と机を叩き、ふと、別のモニターに目を移した。
一騎たちが映っている。
そして、別のモニターには廊下を行く、栄治と美久の姿。
弓子は、小さく笑ってスイッチを切った。
そしてまた、ふう、と息をつく。
やがて、唸りは徐々に静かになり、止まった。
そこに出されたものを眺め、大きくため息をつく。
モニターのスイッチを入れ、それを見ながらメモを取り、引き出しからファイルを出してメモと照らし合わせた。
額に当てた手が、熱くなっている。
弓子は額に掛かった髪をかき上げ、報告書の作成に掛かろうとして、放棄した。
その時間すら、惜しい。
弓子は幾度目かのため息を落とし、メディカルを出た。
ドアの前で止まった足音に、一騎は総士を振り返った。
総士もまた、気が付いたのだろう。
こちらを見るその瞳には、彼らしくない、狼狽の色があった。
「大丈夫よ、お母さん」
日向が無邪気な声を上げて総士の腕を掴む。
軽く頷き、日向を見る不安を拭いきれない横顔に
――― 一騎は、美久が生まれた時のことを思い出していた。
静かに扉が開く。
間近に目の前に現れた少女に、一騎は目を見張った。
大きくなった。
本当に、大きく、素敵な女性になった、と思った。
おそらく、同じ年頃の少女の中では体格も顔立ちも大人びている方だろう。
自分に似ている、と、よく言われたけれど、俯いたところなどは、やはり総士にも似ている。
長い髪をそのままに肩に流し、視線は逸らしたまま、無言で立っている。
その後ろに、ぴったりと栄治が付き添っている。
「美久」
呼びかけると、美久の体は大きく震え、一歩、後ろに下がった。同時に、彼女は無意識なのだろうけれど、助けを求めるかのように栄治の上着を掴んだのを、一騎は見逃さなかった。
そして、応えるように栄治の手が美久の肩に掛かる。
もう、自分の手は必要ではないのかもしれない。
喜びと、そして、軽い嫉妬を覚えた。
「ごめんな」
一騎は、思い切って口に出した。
「いきなりで…驚かせて…」
「…驚いてないわよ…」
直に聞く声は、なんと心地良く響くことだろう。
ちら、と後ろを見る。
総士はまだ体を強張らせたままでいる。
「あのね」
日向が手を握ってきた。
「お姉ちゃん、いつもお父さんやお母さんのお話、聞かせてくれたのよ」
「日向!」
美久は顔を真っ赤にして小さく叫んだ。
「別にそんな…だって私しか覚えてないんだもの」
俯いたまま呟くように言う。
いきなり、顔を上げた。
「仕方ないじゃない!」
叫び、さらに一歩下がった。
「私が言わなくちゃ誰も話してくれないんだもの」
「美久ちゃん」
泣き出した美久の肩を両手で抱える栄治の姿は、美久はずっと自分が守っていくんだ、と言っているようで、好感を持つと共に、やはり、拭いがたい寂しさがある。
一騎は、俯いたままの総士の肩を軽く叩いた。
「…総士…もう余り…」
「ああ…分かってる…」
総士は頷き、ゆっくりと立ち上がった。美久に歩み寄り、その髪に手を触れようとして ―――
美久は体を引き、総士は、寂しそうにそのまま手を下ろした。
「…本当に…悪かった…」
掠れた声で、ようやく、言葉を出す。
「許してくれ、と言おうとは思わない…ただ…いつもお前たちのことを思っていた。それだけは…信じて欲しい…」
「……」
美久は黙って、壁を見つめている。
総士らしからぬ声だ、と、思った。
傷ついたのだろう、と思う。けれど、美久の方は、おそらくもっと傷ついている。
「一度だけ…髪に触れたかっただけだ…」
「なんで? だって…これから私の髪、結ってくれるんでしょ? いくらでも触れるじゃない」
「美久。今だけ、なんだよ」
一騎は思い切って言った。
黙って座っていた史彦が、ベッドに腰を下ろしていた祐哉が、はっとしたように顔を上げるのが視界の端に入った。
「もうじき…俺たちの体は消えるだろう…そうしたら今度はいつ、触れるかわかんないから。
だから…美久」
「なんで?」
二つの声が重なる。
後ろで、祐哉も叫んでいた。
「なあ、もう大丈夫なんじゃないの? 二人とも、うちに来るんだろう? 帰って来るんだろう?」
総士は祐哉を振り返りゆっくりと首を振った。
「…帰っては来るが…いつになるか分からない…」
「どこに行くって言うの? なんで?」
美久が叫んだ時、ドアがノックされた。
「司令、いらっしゃいますか?」
史彦は、呆然と立ち上がった。
今の時間を少しでも長引かせてやりたい、と思うと同時に、弓子がもしかしたら何か二人を救える手立てを発見したのではないか、と、淡い期待も抱いていた。
が、入ってきた弓子の顔を見て、その期待も、すぐに打ち消された。
「美久ちゃん。お母さんとお父さんに…うんと甘えられた?」
優しく声をかける。
美久は、つい、と横を向いてしまい、弓子は苦笑した。
そして、一騎と総士を見て軽く笑いかける。
「ごめんなさいね。ほんとはお邪魔したくなかったんだけど…」
「いえ…大丈夫です…あの、何か」
「はい。…間隔が狭まってます」
弓子は短い言葉だけで分かってくれ、と言うように史彦を見た。
余り言葉に出したくない、弓子の瞳は、そう言っているように思える。
総士は、俯いたまま、ベッドに腰を下ろし、膝の上で指を組んだ。
「さっき…一騎が少し言いましたよね。情報の集合体だって。
…今、彼らは有機体を理解しようとしています。僕たちがこうして実体を保っていられるのは言ってみれば…記憶や情報がこの体の中に入るべきもので…その体を保つにはどうしたらいいか、それを彼らに繰り返し、教えているから」
言葉を切り、少し考えてから、また、続けた。
「小さな循環は、より大きな循環に組み込まれる。
人間の体を理解するためには代謝を繰り返し、それを保っていることだ、ということを理解しないと。
…そうしないと」
総士は顔を上げ、史彦を見た。
「…情報が彼らに共有された時点で、情報の入れ物でしかない、この体は必要がなくなるから…砕けてしまうんです」
「…それが…結晶化…?」
史彦は呻いた。
「そうならないために、常に彼らに教え続けてるんだよ、父さん」
一騎が、小声で呟くように言った。
まるで、慰めるかのように。
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2006/03/29