彼方へ・7






 
   暗く、天井の高い廊下に、二つの足音が木霊する。
「怖くないか、日向」
「うん」
答えたものの、まったく怖くないはずもなかった。
何しろ、このような場所があることなど、知らなかったし、ここは余りに広く、暗くて、寒かった。
と、祐哉が手を握ってきた。
「こっちでいいんだな?」
「…うん」
ぐい、と、手に力がこもる。
「ありがと、お兄ちゃん」
ふと振り返った祐哉の横顔は、暗くて分からないけれど笑っているようにも見えた。

 「どこまで行くんだ?」
広い、何もない空間を、祐哉は首を巡らせて見渡した。
「うん…あと少しだと思う…」
友人は、すでに先に行っている。
日向にもよく分からなかったけれど、もうじき、どこかに突き当たるはず、だった。


 突然、目の前に巨大な壁が現れた。
友人の姿が見えない。
「…あれ?」
思わず、呟いた。
「日向…?」
祐哉も、不審そうに振り返る。
その時 ―――
広い空間全体が鳴ったような、気がした。
うわん、と、何かが耳に響く。
それも、すぐになくなり、次に、壁だったはずのものが、上下に、ゆっくりと開いていった。






 いつの間にか、眠ってしまったようだ。
一騎はだるい体を起こした。
総士はまだ、眠っている。その顔を見ながら、いつしか自分もベッドにもたれて眠っていた。
何か、夢を見ていたような気もするのだが。

 もし、自分がフェストゥムになってしまったのだとしたら。
それでも、夢は見るのだろうか。
それは新しい発見だろう。
 
 ドアが開いて、剣司が入ってきた。
「メシ、持ってきた…総士はどうだ?」
「ありがと…まだ…起きる様子もないな…よほど疲れたんだろう」
「…じゃあ…総士の分は後で暖め直すか。
一騎、お前だけでも先に食えよ」
「ああ、ありがとう」
実際、腹が減っていたから嬉しかった。
 
 「なんか…懐かしい味だな」
味噌汁が特に美味い。
「俺が作ったんだよ」
「え?」
驚いて、剣司の顔を見る。剣司は得意げに笑った。
「驚くこと、ないだろう。出来るだけ、俺が作るようにしてるんだ」
「…そうか」
「俺の母ちゃんの味噌汁、美味かったんだぜ」
「……だろうな…」
剣司の顔に、僅かに影が差す。
「なあ…総士の言ってた…記憶の意味が分からなくてさっきまで司令と話してたんだけど…」
「うん? 記憶?」
「記憶が…個を作る、って言ってたろ、総士。
…だったら…みんな、戻れるんじゃねえの?」
「…うん…確かにね…でも、そういうのじゃなくって…。
彼らの中で、自分の記憶の位置、その意味…つまり…なんていうのかな…」
一騎は言葉を探した。
もともと、説明は下手だ。今は総士に助けを求めるわけにも行かない。
「お前の母さんがもし…奴らの情報の中で自分の記憶をそれとして認識出来るなら…可能だと思うけど…お前の母さん、専門家だったんだし…」
そこまで言って、一騎は、別の可能性に思い当たり、口を噤んだ。

 専門家であるが故に。
個人の記憶と彼らの情報との区別が付かなくなっている可能性もある。
そうなっていたら。
実際、同化、とはそういうものだろう。
しかし、それもまた、想像の域を出るものではない。

 胸が、痛む。
剣司の母だけでなく。
 多くの人が、失われたのだ。

「あ、ごめんな、メシ時に変な話、しちゃって」
すまなそうに言う剣司に、一騎は軽く首を振った。
もし謝るなら。
自分の方こそ、謝らねばならないのではないだろうか。
「俺の方こそ…ごめん」
「なんで謝るんだよ、お前が。いや、悪かった、ほんと」
剣司の明るい笑顔が、胸に痛かった。







 広間の中に一歩踏み入れたとたん、祐哉は、来てはいけないところに来てしまった、と思った。
 中央に据えられた、大きな、赤いカプセル。
その中に浮かぶ、小さな少女。

「…これ…は…」
意味もない呟きが漏れる。
が、すぐに、これと似た光景をどこかで見たことを思い出していた。
どこでだったろう。
 赤い光に満ちたその部屋に、日向は何のためらいもなく入り、進んでゆく。
「日向…」
日向から目を離してはいけない。
そう思い、なんとか進んで行って、やがて、その光景をどこで見たのか、思い出していた。

 あの日。
あの戦闘があった、あの日に。
目も眩むような痛みの中、あらゆる映像が頭の中を駆け巡った。
それは、おそらく父のものだろう。
その中に、よく似た場面があったのだ。

 父も、こんな風にして、この部屋に来たのだろうか。
 日向は、嬉しそうにそのカプセルを見上げていた。
「ここにいたのね」
少女に向って微笑みかける。
赤い液体に満ちたカプセルの中に浮かんでいた少女は、ゆっくりと目を開け、日向の方を見た。
「やっと見つけた…会いたかった」
嬉しそうな日向を見ながら、祐哉は、叫びを必死で押し殺していた。
日向が振り返る。
「この島の、コアなのよ」

 この島の、コア?
以前、祖父が溝口と話しているのを聞いたことがあった。
コアならば、彼女は、日向よりも年上のはずだ。
なのに、何故、こんなにも小さいのだろう。
幼女、といっても良いかもしれない。

それでも、今、上体を少し倒して日向を見るその少女は、日向と同じ年頃に見えた、気がした。

 日向は、何か話しかけているように見える。
口が動くわけでも、声が聞こえるわけでもないのに、何故か祐哉にはそう思えた。

 くい、と、手を引く。
「日向…行こう…」
声が、掠れていた。
「ここ…立ち入り禁止なんだぞ…」
「うん」
日向は、名残を惜しむように何度も少女に頷きかけ、歩き出した。






 モニターには、剣司と話す一騎の姿、ベッドに伏せたままの総士の姿が映っている。
史彦は首を傾げた。
時おり、画面に映る一騎の姿が消える。
まるで何かでこすったように掠れ、消えるのだ。
剣司が普通に話を続けているところを見ると、剣司の目にはそれは見えていないのだろう。

 どういうことだろう。

自分たちと四人で話した時の録画でも、時に総士や一騎の姿は消えていた。
ほんの一瞬のことなので、そこにいるものには捉え切れなかったのだろうか。

 「司令、岩戸が…!」
里奈が短く叫んだ。
「システムが…」
「なに?」
長いこと、停滞していたブリュンヒルデシステムが目覚めたのか。
停滞している理由も分からず、皆、懸命にその原因を究明しようとしていたのだが。
 モニターを切り替えた史彦は、思わず小さく叫んでいた。
岩戸から走り出てくる小さな影は、紛れもなく、日向と祐哉だ。

危うく怒鳴りつけそうになって、慌て、ふう、と息を吐いた。
 目覚めさせたのは、あるいは、日向、だろうか。
その予感は、前からあった。
 ざわめくCDCを出、史彦はメディカルに向った。
























John di ghisinsei http://yokohama.cool.ne.jp/gisinsei1129/

2006/04/01