彼方へ・5
風が、カタカタと窓ガラスを叩く。
その音に美久は苛立ち、窓にきっちりと鍵をかけた。
すると、今度は、時計の音。
時計の電池も外し、ふう、とため息をついて、美久は座り込んだ。
静まり返った部屋で、自分の息遣いだけが聞こえる。
それさえも、癇に障って髪をかきむしり―――
手に当たったものを外した。
茶色の、プラスチックの髪留め。
それは、かつて母が使っていたものだ。
これまで、そのようなことは意識したこともなく、ただ何となく使っていた。
なんでこんなものを使っていたんだろう。
新しいものは、いつでも買えたのに。
髪留めを握った手に、力を込める。
ぱきん、と音を立てて、古いプラスチックは割れた。
割れたかけらを握り締めた手に、涙が零れ落ちる。
母の声が、蘇る。
懐かしい、優しいその声を、美久は良く覚えていた。
小さかった祐哉が、今のように丈夫でなく、よく病気をして看病に忙しかった時。
小さな日向をおぶってあやしていた時。
いつも、その声を思い出しては、何故、ここにいてくれないのだろう、と思った。
大きな祖父の手が、不器用に髪を結う時。
何故、その手は母のものでなかったのだろう、と思った。
何故、今になって。
いて欲しいときに、傍にいてくれなかったくせに。
母や父に会いたがる日向や祐哉が、疎ましかった。
何も覚えていないくせに。
この自分が、懸命に面倒を見ていたのに。
――― ごめん、美久。
父の声が、あの時、聞こえたように思った。
謝るくらいなら。
謝るくらいなら、何故、ずっと傍にいてくれなかったのだろう。
ドアがノックされ、美久は慌てて顔を拭った。
「姉ちゃん、入るよ」
言葉が終わらないうちに、祐哉が入ってきた。
「…なによ」
「栄治が来てる」
「…なんで」
「デートじゃねえの? 行って来いよ、気晴らしに。
…なあ。なんで母さんに会いに行かないの?」
「…だって…会いたくない、って言ってるんでしょ…会いたくないって言う人に頭下げて会いに行くこと、ないじゃない」
祐哉は盛大にため息をついて胡坐をかいた。
「ひねくれもんだなあ、姉ちゃんは。なんで?
おじいちゃんが言ってたよ。母さん、傍にいてやれなかったから申し訳ない、って言ってたんだって。
でもさ、それって母さんのせいじゃないじゃん」
「……」
そうだ。
一番いて欲しい時に、いてくれなかった。
それならいっそ、もういない、そう思った方が、気が楽だった。
「…それに…母さんも父さんも…人間じゃないんでしょ…」
「うん?」
「敵を…同化しちゃったんでしょ…」
「ああ…うん。でも、それを言ったら俺もそうじゃん。俺がやったんだもん」
思わず、祐哉を見る。
祐哉は、しごく大真面目に言っている。
「あんたじゃないでしょう? あれはマークザインの力でしょう?」
「馬鹿だな、姉ちゃんは。…マークザインは俺だよ。
俺にその力がなかったら同化は無理だろ。
それだから姉ちゃん、機体が動かなくなったんじゃねえ?」
「……」
言われて見れば、確かに、そうだ。
ファフナーに乗った者は、それになるのだ。
黙っていると、祐哉は、またも大きくため息をつき、ドアに向って怒鳴った。
「栄治、あとは頼むぞ!」
「え?」
驚いて振り返る。見ると、ドアのところに栄治が立っていた。
「俺、おじいちゃんのとこ、行って来る。栄治、あと、任せたぞ」
「ああ」
まさか、今の会話まで栄治に聞かれていたとは思わなかった。
美久は恥ずかしくなって俯いてしまっていた。
しばらく黙って立っていた栄治は、やがてすぐ横に座った。
「な、美久ちゃん。気持ち、分かるけど、会いに行こうよ」
「…何よ…説得するように頼まれたの?」
栄治にまで憎まれ口を叩いてしまう自分が、たまらなく嫌だった。
けれども、歯止めが利かない。
栄治は、気に留める様子もなく、ただ、首を振った。
「別に…頼まれてなんかないよ。
ただ、美久ちゃんがお母さんたちに会いたがらない、って聞いて…心配でさ。
…余計なお世話だと思うけど、会った方がいいよ…。
だって…もし、もう二度と会えなくなったら…どうする?」
美久は、その言葉の意味を考えながら手の中の髪留めの破片を転がしていた。
栄治もまた、同化現象で体の弱くなった母を、父親と二人で看病している。
今はだいぶよくなったとはいえ、一時期はかなり危ない頃もあった、と聞いた。
「俺さ、怖いんだよ…いつ、母ちゃんがいなくなるんだろう、って。父ちゃんも同じだと思う…。
よく父ちゃん、昔の話、聞かせてくれるんだ。
母ちゃんに投げ飛ばされた話。…時々、父ちゃん…あの時にもっと真面目に稽古、受けとけばよかった、って…」
声が、震えて、美久は驚いて栄治を見た。
「…俺…父ちゃんを投げ飛ばす母ちゃん、見たかったよ…」
ぐすっと鼻をすすり、照れたように笑った。
「ごめん…こんなこと、言いたいわけじゃないんだけど…ただね。…父ちゃん、よく言うんだ。俺が生まれて…すごく嬉しかった、って。
母ちゃんが生きてるうちに生まれてくれて、ありがとう、って」
そう言うと、今度こそ、本当に泣き出した。
美久はそっとその肩に手をかけた。
「馬鹿ね、男の癖に泣くんじゃないわよ…私を…心配してくれたんじゃなかったの…」
「ん…ごめん…でも…今でも怖い…いつか母ちゃん、消えそうで、怖い…」
どう声をかけたものか、と思案しながら、美久は、祖父の言っていた事を思い出していた。
自分が生まれた時に、父は、大声でいつまでも泣いていたということを。
そっと、栄治の肩に頭を凭せ掛ける。
ふと、会いに行って見ようか、と思った。
思い出の中の、両親の姿を、確かめたかった。
恐怖は、まだ消えない。
「栄ちゃん」
「…ん…」
鼻をすすりながら、栄治は振り返った。
「…もし…私が…会いに行く時には…一緒に来てくれる…?」
「うん…うん」
栄治は、こくこくと、何度も頷いた。
「会いに行った方がいいよ…ほんとに。
きっと…お父さんたちもすごく…会いたがってるよ…」
そう言って、栄治はまた、ぐすぐすと泣き始めた。
アルヴィスの病室の一角は、しんと静まり返り、僅かに空調の機械の唸りが聞こえるだけだった。
「とりあえずの、とは? どういう意味だ? 一騎」
史彦は一騎の言葉の意味が飲み込めず、聞き返した。
「それを説明するには…なんで彼らがあの形を取ったか、ってことから始めないといけないんだけど」
一騎は苦笑して、うまく言えるかな、と呟いた。
「彼らの世界は」
一騎は、言葉を探すように首を傾げ、しばし、沈黙した。
「その…言ってみれば情報だけの世界…なんだ。
ラジオの電波だけが流れてるような…」
再び、首を傾げる。自分の言葉に自信を持てない、というように、軽くかぶりを振った。
「情報だけ、いわば、思念だけの世界と思っていただければ」
総士が引き取った。
「その思念は個の概念を持っていない。
すべて均一に並列化され、個である必要がない。
…でも、差しあたって我々に認識させるためには何らかの実体を持たねばならない…」
「それが俺たちにとって身近な、土、って言うものだったんだろう、と思う」
ふむ、と、史彦は頷いた。
「…理屈は分かるのだが」
一騎は苦笑した。
「…俺だって全部分かってるわけじゃないんだ、父さん…だからうまく説明できないけど…」
指先を弄び、しばし、考えるようにどこかを見つめていた一騎が、また、視線を戻した。
「祐哉が…同化した時、見たものがあったよね」
「ああ」
「あれは…つまり、そういうことだよ。
奴は…敵は、俺の思念を読み取ろうとした。俺はそれを提供しながら同時に相手を読んだ。
…情報を交換してた。祐哉はそれを見てたんだ」
「………」
そうなのか。
史彦は息子の顔を穴が開くほど見つめていた。
この突拍子もないことを語っているのは、本当にあの一騎、なのだろうか。
自分の息子なのだろうか。
「情報は形を持たない」
総士が、静かに言った。
「情報、あるいは思念、意思。呼び方はどれでもいいのですが、それらは形を持たない。
形を持たない故に、どこにでも瞬時にいける。
時間にも支配されない…。
ただ、その…彼ら自身が自分たちを僕たちに認識させようとするなら何かの形を持たねばならない。
その中心がコア、と言うことになる」
一つ、息を落とすと、部屋の中を、ゆっくりと見渡した。
「…この島のミールが、コアを中心にまとまっているのと同じ、と考えてください。
そのミールが、コアを抱いて固体となったもの、と思っていただければ」
確証は持てませんが、と、小さく笑う。
「彼らは、我々に認識させるために、とりあえず、身近な土というものを選び、あのような形態を取って実体化したのでしょう。
いわば、情報の集合体…」
ここまで聞くに至って、史彦は、脳裏に浮かんだ恐ろしい仮説を否定しようと躍起になっていた。
総士は、それを読んだかのように寂しそうに微笑み、一騎を見る。一騎は、目を伏せ、頷いた。
「そうだよ、父さん。
多分…父さんは分かったと思う…俺たちも情報の集合体でしか、ない。多分ね…。
この体をコアとして、実体化してるだけ、じゃないかな…」
John di ghisinsei http://yokohama.cool.ne.jp/gisinsei1129/
2006/03/30