彼方へ・2






 
  CDCは水を打ったように静まり返っていた。
無理もないだろう。
史彦は、呆然とモニターを見つめていた。
海岸に沿った道路の、コンクリートの壁の脇に座り込む総士の姿が小さく映し出されている。

 何かの間違いだ。
史彦は思った。
 間違いであって欲しかった。

 「今、日向ちゃんをシェルターに連れて行く」
溝口の密やかな声がした。
「…分かった…頼む…」
史彦は、それだけ、言った。
それだけで、溝口はすべてを悟ってくれるだろう。
喉の奥がからからに乾いて、痛みを覚える。
 すると、先ほどの警報は、彼らのことだったのだろうか。
モニターは点滅を繰り返す。
未だ迷っているその光は、史彦を苛立たせた。


 横では、剣司が狂ったようにキーボードを叩いていた。
やがて、ちいっ、と忌々しげに舌を打つ。
「だめだ、栄治! 美久ちゃんを脱出させるんだ。
もうコントロールできない」
叫ぶように言い放ち、席を立つ。
「剣司君?」
答えもなく、剣司は駆け出していた。








 五本の指に掛かった指輪を、祐哉は、きゅ、と軽く握った。
全身の力を抜いて天を仰ぐ。

 いつも、月に二回、地下で眠る両親のもとに会いに行き、その度、いろいろなことを語りかけた。
返事があるはずもなく、それでも、いつかは返事が聞けるような気がして、何度も語りかけた。

 今度は、返事が聞ける。
喜びと、不安と。
首の辺りに、何かが這い登ってきて、ぞくぞくと震える。

 「父さん…」
寒いな、と思った。
今、いる海岸の風の冷たさとは別の、何かひんやりした空気を肌に感じる。
父は、きっと寒いところにいるのだろう、と思った。

 その冷気とともに、ふわり、と何かが重なる。
がくん、と、首が反った。

どこか、白い天井が見えた。
淡い、青白い光と、穏やかな空気。
「父さん…大丈夫?」
――― 大丈夫だ。

 どこにいるのだろう、父は。

 祐哉はゆっくりと体を起こし、体勢を整えるべく、息を吐いた。
こんなにも、穏やかな気分になったのは、生まれて初めて、ではないだろうか。

「ねえ、父さん。俺、数学の成績いいんだぜ。知ってた?」
父が笑う気配がした。
 この話は、地下室ではした事はなかったけれど、もしかしたら父は知っているのかもしれない。

 祐哉は、機体を立て直し、美久が遠ざかったのを確認してから、敵に向き直った。
敵は今、自分を標的に少しずつ間を縮めてきている。
祐哉は目を細め、軽く上体を倒した。

「父さんの教科書…数学の。あれ、何度も読んでた。
意味も分からない頃から」
 方程式、という漢字も読めない頃から、毎日、眺めていて、気が付いた時には、教科書の隅の落書きまで暗記してしまっていた。
「解き方とかも分かりやすく書いてあってさ…あれのおかげで成績、良かった」
『教えてくれたのは母さんだ』
優しい声が響く。

 ふっ、と、父の意識が重なってくる。

「そうなんだ…母さんも頭良かったんだね」
『父さんよりずっと。…祐哉…』
「なに」
『もっと近づけるか』
「うん」
不思議と、恐怖は感じなかった。
 父は、今、自分と共にここにいる。
すぐ横で会話を交わしているような感覚に陥る。

 相手は、その場から動かない。
祐哉は、ぐい、と指を引き締めた。
地面を蹴って、一気に距離を縮め、相手の真正面に立ち、すかさず両手で押さえつけた。
 『そのまま、何が起こっても耐えろ』
「うん、分かった」
大丈夫だ。
そう、父に、母に、言われている気がする。
祐哉は、何も考えず、そのまま絡みつく敵を押さえつけていた。








 頭の上を、風が通り過ぎる。
総士はストールをかき寄せ、壁に体を凭せ掛けたまま動けずにいた。

 溝口の銃口がどこかから自分を狙っているのだろう。
隠れる気など、ない。
それよりも、寒い。
寒くて、凍えそうだ。

 混乱した思考の中、日向の声が飛び込んできては遠ざかり、消える。

 急ぎすぎた…。

 激しい後悔に襲われて眩暈に倒れそうになる。
急ぎすぎた。
子供たちを助けるどころか、危うく死に至らしめるところだった。
 
 日向を通して呼びかけた声は混乱した美久の意識にはねつけられてしまった。
頭の中を、狂乱した美久の声が駆け回り、それは、消えてはまた、どこかから湧き上がる。
総士は頭を抑え、うずくまってしまった。


「総士!」
遠くからの呼び声に、首をめぐらせる。
剣司が、走ってきた。
「大丈夫か? おい、動けるか?」
「…大丈夫だ…それより…美久は…」
「脱出させた。大丈夫だよ。
いいから来い、きっと…また…」
剣司が言葉を濁した意味は、総士にも分かっていた。
「ちょっと失礼」
いきなり言うと、剣司は横抱きに抱き上げた。
「悪いな、辛抱してくれ、この方が安全だから」
「あ…ああ…」
なるほど。
これなら、仮に溝口が狙っていても、簡単に撃つことは出来ないだろう。
それにしても、と、総士は軽くため息をついた。
剣司の、なんと大人びたことだろう。
それだけ、時間が経ってしまったのだ。

 遅すぎなければいいが。
抱えられたまま、視界に流れる景色にそんなことを思う。

この景色を、そのままに保っていられる時間が、まだ残っていればいいけれど。

 再び、美久の混乱した叫びが脳裏に響く。
流れる景色が、涙に歪んだ。
そのまま、いつしか気を失ってしまっていた。







 ようやく、一騎の姿を探し出した史彦は、モニターの前で唸った。
一騎は、アルヴィス入り口の少し前の廊下で椅子に腰を下ろしたまま、目を閉じていた。
その体は、見間違いでなければ、光を放っているように見える。
僅かに、きらきらと。
そして、間違いなく、祐哉とクロッシング状態に入っている。

 何が起こっているんだ。

西尾里奈が、忙しなくキーを叩く。
「これは…マークザインが…」
「なに?」
里奈の声は小さく震えていた。
「どうした。言ってみろ」
「…マークザインが相手を同化しようとしています…あの…あの…祐哉君を通して一騎…先輩が…」
「…なんだと?」
同時に、溝口からの通信が入った。
「真壁。総士の方は剣司が連れて行っちまった…。
一騎の方、どうする?」
一騎の方は、CDCが見つけるよりも早く、溝口の部下が発見していた。
そして、いつでも撃てるよう、身構えているはずだ。
「しばらく様子を見ていてくれ」
「了解。…命令に変更はないのか?」
「ない」
また、こめかみが痛む。
奥歯が、ぎり、と音を立てた。








 祐哉は、相手を掴んだまま、離さなかった。
何かが、体を通り抜けているような感じがする。
相手と、会話をしているような錯覚に陥っていた。
実際には会話などないし、音すら聞こえてはいない。
けれど、何か信号のようなものが行き来しているような。
 おそらく、父が相手のコアに働きかけているのだろう。

 それらの思念も、千切れてすぐに掻き消える。
今、この状態でやられる、あるいは同化されてしまわないのが不思議なくらいなのだけれど。
 汗が滲み、滴り落ちる。
腿に落ちたしずくを見つめていた時 ―――
不意に、ずん、と何かが腹に落とされたような気がして、思わず祐哉は叫んでいた。

























John di ghisinsei http://yokohama.cool.ne.jp/gisinsei1129/

2006/03/29